=== 新春随筆 ===
還暦を迎えるにあたり,今までの人生は塞翁が馬? |
(昭和32年生)
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西区・伊敷支部
(鬼丸内科循環器科) 鬼丸 円
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今回編集委員長より医報新春随筆特集号への寄稿の依頼をいただいた。
既に還暦を迎えられた先輩方は皆同様にお感じの事とは思うが,今の自分が60歳になるとは信じ難く,かつ受け入れ難い。身近なところでは父母の還暦の時が思い出されるが,当時の両親は,少なくとも今の自分よりはるかに立派に見えていた。
私,鬼丸 円は昭和32年6月21日朝6時頃に旧日置郡郡山町にて生を受けた。
鹿児島市医報通巻635号田中源郎先生の『年男の小自分史』に「猿みたいな赤ちゃん」との一節があったが,同様のことを過日5歳離れた一つ上の兄から聞かされた。兄が「保育園から帰宅したらサルのような赤ん坊がいた」とのこと。当日は当家の田植えの日であり,それはそれはてんやわんやであったと当時出入りしておられたお手伝いさんにお聞きしたことがある。
産婆さんが‘また,付いておいやっしたど(男の象徴があった)’と聞かされ母は,4人連続男の子でまたか?と思ったとの事。ただ,小さく生まれたようで,黄疸がひどく,母乳の出も悪く,父は母にこの子はあきらめるほうがいいと話したようであるが,母の必死の看病で,何とか一命をとりとめた。自分の名の「円」は一般には女の子の名前であるが,母が出産前から4番目の子供は女の子であると確信していたようで,名前を一高女時代に好きであった漢詩の1文にちなみ「円」と決めており(当家は先代から6人続けて男子が誕生しており自分を含めると連続7人となる),本来鬼丸家の男児に与えられるハシゴタカ「」については,円とするには恐れ多かったのか(天皇家円宮の存在が原因か?)母の愛した名前の「円」と決定した。幼少時は女の子のごとく育てられ,当時の写真は長髪おかっぱ頭の姿のものしか残っていない。すごく甘えん坊で,母親から離れられず,保育園は登園拒否,そのまま小学校へ入学。
郡山小学校入学当時は全く目立たず,3年次に阿久根から新たに着任された弓場貞吉先生の引き立て(学級委員を突然指名,担任を離れた後も親身になってご指導賜る)をいただき,なんとか同級生にも存在を認知された程度であった。
5年次からは郡山で最も盛んであった少年剣道クラブに参加。全くのボランティアで指導された久保義盛氏に教えを仰いだ。毎朝6時に道場へ通い,なかでも冬霜の降りた運動場の裸足での鍛錬は今でも鮮やかに思い出される。久保氏は数十年以上にわたり数百名に及ぶ児童・生徒の指導をされ(剣道指導のみでなく学校の通知表もチェックされた),その正義感あふれる姿は今でも尊敬かつ憧れでもある。また,鼓笛隊(弓場貞吉先生)での大太鼓・カワイ音楽教室・地域のソフトボールチームの練習に没頭,勉強などそっちのけで元気いっぱいであった。
ところが6年次に放課後のドッジボール中に頭上のボールをキャッチしようとして,バク転様の格好で後頭部を強打,6時間もの間,意識が回復しない程の頭部打撲を受傷。脳外科医 中村昭典先生に父が相談するも当時CT等は無く,頭部単純と脳波検査で問題なく経過観察となった。以後,後遺症と思われる症状に悩まされ(突然,自分がどこにいるのか判らなくなる感覚・回転性めまい・物が突然小さく見える・閃輝暗点等),結果,郡山中学時代の剣道部も3年次4月には退部,生徒会活動のみ従事した。郡山地区では塾通い等の環境はなく,中学時代には藤崎和博先生(当時鹿大工学部学生)に週に1回2時間ほど家庭教師として面倒を見ていただいていた。先生との勉強中にも,何回か同様の後遺症が出現,藤崎先生から‘逃げずに立ち向かえ’となんども励まされた。
高校時代は,積極的な運動活動は控えていたが,ただ,単に走る(50M,200M),単に跳ぶ(走り幅跳び),単に跳ねる(走り高跳び),単に投げる(ボール投げ)など,体育時間の計測であったが,3年間クラストップであり,体育祭花形の学年4人のみ選出の学年対抗リレーにも選出され,体育教師から運動部への度重なる勧誘(野球部とラグビー部)を高校2年春までいただいた。本人は後遺症をことさら公言できず,不安に苛まやされた時代であった。その頃体調不良に悩む自分を見かねたのか,父が‘自分がお前の面倒を見るから自分の傍らで静かに過ごしては?’と真顔で告げられ,その瞬間,自分にスイッチが入ったように感じた。父の目にそこまで惨めな姿に映っていたのかと愕然とした。幸い,福岡大学へ入学でき,自分一人での生活を送り,多くの友人に恵まれ,医学を学ぶに至り,自分と向き合えるようになり,後遺症を持つ自分を受け入れる事ができるようになり,不思議と病状も軽減してきた。
大学時代にも運動部(特に野球部,兄3人は6年間野球部)に所属したいとの気持ちがあったものの,自分の体調に自信が持てず軟式野球愛好会で週に1回の草野球試合に参加した。主に,福大の他の愛好会チームや福岡歯科大との試合であった。福大卒業後は,父や叔父(黒肱敏郎,第二内科会員番号14)の勧めで橋本修治教授主催の鹿児島大学第二内科入局,第一研究室 中村一彦先生の循環器科に所属させていただいた。その後,30代半ば当時勤務していた病院で,夜間,博士論文作成中,急に視野に明るさが不足したような感覚が出現,当日夜,市立病院受診,偶然上津原甲一先生が夜間当番をされており,翌日の脳波検査等で投薬は必要なしの判断をいただいた。
平成8年に父の後を継承開業し,今年で21年目を迎える。今後,体力が続く限り地域医療に少しでも貢献できればと思う。小学時代の一瞬の出来事が自分の人生に大きな影響を与えたが,生来の甘えん坊の性格からすると,このような試練がなければ今頃は医師にもなれなかったのかもしれない。なお,弓場貞吉先生,久保義盛氏,藤崎和博氏は既に他界されているが,3人の人生の師の教えに恥じぬように,今後も精進したいと思う。
これまでの私の人生は,果たして,塞翁が馬,だったのでしょうか?

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