=== 新春随筆 ===
年 男 雑 感 |
(昭和8年生)
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西区・伊敷支部
(植村病院) 吉村 望
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いたずらに馬齢を重ねている中に,7回目の「年男」と呼ばれる年齢を迎えることになった。これを機に自らの来し方(行く末については神のみぞ知る)について,思い出すままに書き連ねてみたい。時系列に狂いが無いように,便宜上略年表を作り特記事項に写真を添えた。
私は昭和8年8月1日に生まれたので,昭和20年8月15日の終戦の日は12歳になったばかりの頃であった。国民学校6年生でちょうど夏休みを利用して山陰の母の実家にいたのだが,当時福岡では滅多にありつけない白米のご飯をいただけるのが嬉しかった。その日は従兄弟達と近くの海岸で,一日サザエやウニを採って食べていた。夕方海から上がっての帰り道,出会った大人達の様子が妙におかしいのに気
付いたのだが,家に帰って祖父母から“日本が敗けた”と聞かされて納得が行くとともに,子供心にもこれからどうなるのだろうと不安になった。9月から学校が始まり,来年の中学受験(前年までは身体検査だけだったのが,筆記試験復活とのことで)のための補習授業が始まった。翌年から中学生になったが,さらにその翌年からの学制改革で高校2年になるまで下級生無しということになり,お蔭で便所掃除の割り当てが続いた。ただサークル活動は盛んで,私は無線部に入部して多くの知己を得たのが,その後の私にとっては大きな財産になったといえよう。無線部は当時としては超画期的ともいえるTVの自作に成功し文化祭で脚光を浴び,後に文部省から表彰を受けた。大学受験では多くの先輩,同期の友人達と同様に工学部を選んだが,不合格。修猷館の補習科では何とか人並みに勉強した。捲土重来を期して再び工学部受験の予定が,なんと運命のいたずら。中学から補習科までずっと一緒だった東
隆介君が願書提出の直前になって“俺は医者になる”と言い出した。ショックを受けて主体性を失った私も医学部を選び,その結果共に医師の道を選ぶことになった。しかし後で振り返ってみるとその選択は正しかったのかもしれない。
大学ではヨット部に入り,週3日は博多湾の名島の沖で過ごし真っ黒に日焼けした。体育系の中でも自然の影響を強く受け,とっさの判断次第では生命の危険を伴うセーリングでは先輩の指導力がものをいう。そして同じ釜の飯を食って育った同期生の協力関係が競技での勝敗を左右することになる。こうした6年間のヨット部での経験から私は学問以外の多くのものを学ぶことができた。
卒業後は修猷館補習科以来の仲間 平田 弘君と一緒に国立東京第一病院(東一)でインターンをすることに決めていたのだが,都合で九大からは私ひとりで行くことになった。当時東一はインターン教育に最も熱心な研修病院という評判だったが,全国から34人集まって共に一年間充実した卒後研修を行うことができたのも,東京へ出た大きな収穫であった。翌年福岡へ帰り,かねて希望していた九大第一外科に入局した。東一の外科の佐藤先生に“外科医に必要なものは細心と決断”という言葉をいただいて一年間の思い出深い東京を後にした。
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写真1 東京オリンピックヨット競技
(1964年10月,江の島)
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写真2 柳ケ瀬先輩の下でB Area担当
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以後一外科の三宅 博教授を生涯の恩師と仰いだ。仕事の面ではとても厳しい先生で,手洗いを済ませた先生が手術室に入ってこられた瞬間,手術室はシーンと静まるのを何度も経験した。しかし先生は実に情に厚い方でもあった。入局2年目の秋,東京で結婚式を挙げることになったと先生に報告したところ,先生のお計らいで当時順天堂の麻酔科教授であった一外科の大先輩
古川哲二先生や,たまたま学会出張で東京におられた志村助教授まで披露宴に出席してくださることになり,若輩の私としては身に余るご配慮に深く感謝したことであった。昭和39年秋東京でオリンピックが開催されることになり,私は九州ヨット協会から競技役員として江の島へ一月以上にわたって派遣されることになったが,そのことを三宅教授は“教室にとって名誉な事”として快くお許しくださった(写真1,2)。余談だがこの江の島滞在中に次男が誕生した。何とオリンピック開会式の前日で予定日よりも3週間も早かった。長男の名前が隆(タカシ)なのでオリンピックにちなんで名も速(ハヤシ)と命名した。実は三宅
博先生のご尊父 速(ハヤリとお読みする)先生は九大一外科の創始者であり,しかも世界的に有名な外科医であられた。勝手にそのご尊名にあやかったことを後に博先生にお詫びを申し上げたところ,先生は黙って笑って許してくださった。
昭和41年大きな転機が訪れた。私が入局する1年前,米国留学から帰国して一外科で麻酔の指導をしておられた吉武潤一先生が鹿児島大学に麻酔科を創設すべく,その前身として中央手術部助教授として赴任されることになった。実はそれまで私は先生から直接麻酔の指導を受けており,先生の麻酔学に対する理念とお人柄には深く傾倒していた。麻酔を外科手術のための方便として,ともすれば麻酔技術に偏重しがちな当時一般の風潮とは明らかに一線を画し,あくまでも学問としての麻酔を追及される先生の姿勢を私は身近に感じていたのである。そして,まだ6年の外科経験しかない私はまだ外科に未練はあったが,吉武先生から,“鹿児島へ一緒に来ないか”というお誘いを受けた時,私の心は大きく揺れた。そして,“先生には大変お世話になりましたから,2,3年くらいなら教室づくりをお手伝いしましょうか”と答えた私に先生はこう言われた。“一生麻酔をやる気がないのなら来なくてもいい,将来教授を目指すくらいの覚悟があれば来い”と。この言葉で私の心は決まった。今にして思えば当時の猫の手も借りたい程の人手不足の時期に,あれだけのことが言える先生の器の大きさが伝わってきて,この人ならばどこまでもついていこうと決めた。昭和44年1月吉武潤一教授によって鹿児島大学医学部麻酔学教室が開設され,それまで3年間手術部での限定された麻酔から本格的な講座主体の麻酔システムへ移行した。この時期に教授のお許しを得て,半年という短期間ではあったが,徳島大学医学部酵素研究所の勝沼信彦教授の下で酵素化学の勉強をさせていただくことになった。この間,勝沼教授および教授の弟さんの恒彦先生からいただいた研究者としての心構えの言葉は,その後ずっと私の脳裏に焼き付いている。いわく,“将来大を成す者は必ずや明るくて爽やかでなければならない”とか“現時点で何を最優先すべきかをいつも考えること”等々。ただちょうどその頃,全国的に燃え上がった学園紛争は徳大でも激化して,予定より早く鹿児島に帰ることになったのは残念であった。
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写真3 マイアミ大学麻酔科Holaday教授夫妻とASAにて
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写真4 鹿大麻酔科開講10周年記念会
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写真5 鹿大医学部附属病院の大規模消防訓練実施
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写真6 日本麻酔学会総会(鹿児島にて)
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写真7 定年退官(麻酔科医局にて)
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写真8 金婚式(家族全員集合,大阪)
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写真9 西伊豆海岸より富士山を望む
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翌年九大麻酔科の古川哲二教授のご推薦により,マイアミ大学麻酔科にレジデントとして留学することになった。それまでには,米国で臨床に関連した研究が許されるために必要なECFMG(Educational
Commission for Foreign Medical Graduates)の資格を取得するのに何度か試験を受けざるを得なかった。マイアミ大学では,直接の上司Duncan
A.Holaday教授は吸入麻酔薬の代謝の研究の権威で,私もその研究班の一員となった。教授はとても気さくな人柄で帰国後も親しく交流した(写真3)。
昭和52年吉武教授が九大教授として転出され,後任教授として不肖私が教室の責任者となった。先生が鹿児島を去られる直前に私ども教室員に下された言葉,それは“どんなに忙しくても教育に手を抜いてはいけない,診療の面で他科の信頼を失わないこと,そして片時でも研究の灯を消してはならない”であった。私はこの言葉を教室の建学の精神とした。
昭和54年麻酔学教室開講10周年記念会には,大変光栄なことに三宅先生,古川先生,吉武先生お揃いで出席してくださり,教室の発展を共に祝ってくださった(写真4)。数年後に不幸にして起こった医療事故は,管理責任者としての私の不徳の致すところとして誠に申し訳なく思っている,その折,学内では第三内科の井形昭弘教授,学外から熊本大学麻酔科の森岡
亨教授からいただいた励ましのお言葉が未だに忘れられない。
平成5年還暦を迎えたが,それからの数年は病院長や日本麻酔学会長等を務め(写真5,6),小田助教授をはじめ教室員全員に支えられて,多忙ではあったが悔いなく仕事を全うした。定年退官の日,感謝の気持ち一杯で教室を後にした(写真7)。
定年退官後は植村病院の長柄先生ご夫妻のご厚意で週4日働いている。その勤務内容は,月火水午前中のペインクリニック,午後は病院関連の養護老人ホームの回診,そして主として外科と整形外科の手術の麻酔を担当している。最近の高齢化に伴って手術患者も70%以上が高齢者である。自らの学会活動としては,老年麻酔学会での発表など,できる限り積極的に関与するように努めている。
ところで,最近高齢者の生き甲斐について,自分なりに次のように考えるようになった。まず,高齢者の生き甲斐にとって必要なものは「キョウヨウ」と「キョウイク」であると何かの本で読んだことがあるが,それはいわゆる教養と教育ではなくて,それぞれ「今日用事があり,今日行く所がある」と考えてみると面白い。そして,私はさらに次のようなフレーズを付け加えることにしている。「そして,そこには自分を必要としている仲間が待ってくれている。そこで何がしかの仕事を終えた時の充実感,達成感,これこそ,まさに生き甲斐と言えるのではなかろうか」
平成23年我々夫婦は金婚式を迎え,子供,孫が全員揃って祝ってくれたが,このことは定年後に我々が享受した最も嬉しいことであった(写真8)。
7年前から趣味というほどの代物ではないが,ふとしたご縁で「75歳の手習い」として水彩画を習い始めた。一向に上達の気配はないが,これまでとは違った非日常的な時間の使い方を覚えて楽しんでいる。10月末,修猷館無線部OB会で西伊豆を訪れた時の作品を添える(写真9)。
もう少し長く生きておれば,私と同じ年男でもあった永 六輔さんの詩「生きているということは」には心を揺さぶられるものがある。“人はひとりでは生きてゆけない,誰かとつないだ手の温もりを忘れずに,これまでにたくさん借りた借りを少しでも返すべく,生きていきたい。”

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