=== 新春随筆 ===
年 男 の つ ぶ や き |
(昭和8年生)
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北区・上町支部
(八反丸リハビリテーション病院) 長野 芳幸
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昭和8年生まれ,馬齢を重ね,この1月17日に84歳になる。75歳にして,整形外科医としてのメスを捨て,現在,八反丸リハビリテーション病院で診療に当たっているが,外来患者に「先生お大事に」「元気にしていてくださいね」等と言われている昨今である。
ところで曾野綾子著「老いの才覚」に「その人の生涯が豊かであったかどうかは,その人がどれだけこの世で“会ったか”によって,はかられるように私は感じています。人間にだけではなく,自然や出来事や,もっと抽象的な魂や精神や思想にふれることだと思うのです。何も見ず,誰にも会わず,何事にも魂を揺さぶられることがなかったら,その人は,人間として生きてなかったことになるのではないか,という気さえします」とある。曾野綾子らしい辛口の手厳しい言葉である。さてこの83年間,何に心を揺さぶられて生きてきたかと問われ,堂々と胸を張って列挙できるか甚だ心許ないが,2・3出会いについて触れさせてもらう。
まず山登りのことである。昭和33年7月鹿大病院でインターンをしている時,鹿大第一生理学教室 栗山助教授をリーダーとして,医学部の学生数名と北アルプス登山を計画した。まず北穂高岳に登り,条件がよければ槍ヶ岳へ向けて少々足を延ばしてみる程度の緩やかなものであったと記憶している。初日は天候に恵まれ,横尾を経て,まず一日目の泊まりの涸沢小屋を目指した。急な岩道の登り,ナナカマドやダケカンバの林の中の道を進み,展望が開けると,所々に高山植物の群に出会い,涸沢カールが見え出すと,初めての北アルプスの眺めにただただ興奮を覚えた。雪渓が残り,鋭くとがった岩が並ぶ独特の涸沢の眺めは,今でも眼に焼き付いて離れない。涸沢小屋で一泊したが,台風が接近しつつあり,天候が崩れるとの予報で,北穂高岳へ進むのをあきらめて,二日目は,曇り空の下,涸沢の雪渓でスキーの真似事を楽しんだり,ピッケル使いの訓練をした後,下山し横尾にもどった。横尾で梓川の河畔にテントを張り,夕食をとったが,雨が激しくなり,リーダーの栗山助教授は川の増水をいち早く察知し,撤退を決断,深夜に上高地に向けて下った。逃げ遅れた数組のグループは,激流に飲み込まれてしまった。リーダー栗山助教授の決断力,統率力に改めて尊敬の念を篤くした次第であった。山では一瞬の判断が生死を分けることを実感した。
数日間,上高地に留まり,崖崩れで不通となっていた上高地と松本電鉄の終点新島々駅の間もようやく仮復旧し,どうにか通れるようになり,雨で濡れて未だ乾かない重いテントを交代で担ぎながら,崖の仮設の道を,一歩間違えると谷川に転落する恐れを感じながら下山した。残念ながら,カメラ店がこの登山の一式のフィルムの現像に失敗してしまい,記録の写真が一枚も残っていない。
次に,武藤芳照教授との出会いである。先生は名古屋大学医学部卒の整形外科医であるが,東京大学教育学部身体教育学講座助教授より教授に就任,教育学部長を経て,平成23年東大理事・副学長,平成25年より日体大総合研究所長を務めている。先生との出会いは昭和63年6月,日本水泳ドクター会議の創立の時である。当時,私は鹿児島県水泳連盟医・科学委員長をしていたが,日本水泳連盟より同会議への参加の呼び掛けがあり,メンバーの中に一人の知人もなく,心細い思いをしながら参加した。しかし,発起人の一人である武藤先生は長年の知己のごとく温かく迎えてくれ,その後,様々な役割を与えてもらい,日本水泳連盟の主催する会議のシンポジスト,講習会の講師,水泳ドクター会議主催の医学生セミナーの講師等を次々と依頼された。平成15年には,日本水泳ドクター会議の会長として鹿児島県医師会館で総会を開催することができた。名誉であり,感謝の気持ちで一杯である。そして,本会議メンバーの多くの知己を得られたことは,私の大きな財産である。
武藤先生は,細かい目配り・気配り・心配りをし,また面倒見が非常によい。一方,人使いが実に上手である。優れた企画力,行動力の持ち主で,人をぐんぐん引っ張り込んでいくし,人間的に魅力に溢れており,どんどんついていきたくなる。日本水泳ドクター会議のことに限っても,平成8年には他の学会に先駆けて「医学生のためのスポーツ医学・健康医学セミナー」を立ち上げて,岡山市を皮切りに全国各地で開催し,現在でも姿を変えて続いている。また会議が発足して10年目,平成10年には水泳医事のみならず学術集団としての飛躍を図り,「水と健康医学研究会」を発足させた。
また,日本水泳連盟は他の競技団体に先駆けて,アンチ・ドーピング活動を開始しており,本会議は平成元年には,選手・指導者向けの「ドーピングってなに?Q&A」を発刊した。武藤先生の面目躍如たるものは何と言っても,平成6年広島で開催されたアジア競技大会でのドーピング検査の働きである。国際水泳連盟の医事委員としてその任に当たっていたが,中国の選手に大量のドーピング陽性者が出て,大変に難しい局面に立った。様々な重圧,トラブルに,持ち前の強い正義感と熱血漢ぶりを発揮し,問題に対処していった。この間の詳細は,松瀬 学著「汚れた金メダル−中国ドーピング疑惑を追う」(文藝春秋刊1996年)に記載されている。発刊直後,武藤先生から頂戴したが,息詰まる思いで一気に読み上げたのを記憶している。
平成25年3月,東京大学理事,副学長の任期が終了し,退官最終講義そして祝賀会があったが,文字通り会場からあふれんばかりの参加者で,先生のすばらしい人脈に改めて敬服した次第である。今でも先生は時々来鹿され,歓談の時をつくってもらっているが,話題豊富で,薩摩の歴史にも詳しく,逆に私が教えられることが多い。
もう一人,恩師との出会いである。昭和36年,鹿大整形外科医局入局3年目のことである。宮崎淳弘教授より広島赤十字病院整形外科 岸直人部長の下へ,当時整形外科では未だ新しい領域の「手の外科」の勉強のため,国内留学を命ぜられた。岸先生は米国留学で手の外科の研鑽を積まれ,帰国されたばかりで,新しい学問を研修するチャンスに恵まれ,医局退局後も手の外科の診療を中心に診療を続けられたことは,非常に幸せであった。広島赤十字病院整形外科は,九州大学整形外科の関連病院であり,九州大学より多数の出張者がいたが,手の外科の手術の際は何時も第一助手をさせてもらい,直々に手の外科の神髄を教えていただいた。感謝して余りあるものがある。一般診療に当たっても,医の心をそして,患者への接し方を身を持って示された。また,私の出張期間が終了し帰鹿する際も,早朝わざわざ広島駅まで見送っていただき,感激ひとしおであった。
さて,今後の生き方である。サムエル・ウルマンの「青春とは人生のある期間ではなく,心の持ちかたを言う」など,口幅ったいことを言う気持ちは毛頭ない。この言葉はいささか弱者への配慮を欠いた勝ち組の雄叫びに聞こえてならない。夏目漱石は「運命は神の考えるものだ。人間は人間らしく働けばそれで結構だ」と述べている。今はただひたすら天命に逆らうことなく,与えられた境遇に粛々と対処していくのみの境地である。人生なるようにしかならないのだ。しかし欲を言わせてもらうなら,両親は2人共,89歳で他界しているので,その頃までは何が何でも元気でいたいものである。

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