随筆・その他
や が て 哀 し き 英 語
|
鹿児島大学医学部・歯学部附属病院 血液・膠原病内科 吉満 誠
|
|
小学生の頃にはインディ・ジョーンズに夢中になった。ロスオリンピックではロケットマンとアメリカ女子体操のレットンの演技が衝撃的だった。中学生になるとWHAM!,a-ha,マドンナ,シンディ・ローパーをちょっと背伸びして好きになった。でも同じぐらいおニャン子クラブも好きだったと思う。ベストヒットUSAと夕やけニャンニャンととんねるずのオールナイトニッポンが楽しみだった。まだ英語文化に触れる機会はその程度。英語というものが私にとって理科や国語と同じ教科でしかないときである。高校になってもさほど変わらない。下宿の先輩がプリンスのパープル・レインを音程外して口ずさんだり,デフ・レパードのHysteriaを大音量で毎朝かけている後輩がいたぐらいである。
大学4年生の12月に突然米国留学を決意し,5年生の8月から1年間マイアミで生活した。留学前に友人が,村上春樹の「やがて哀しき外国語」という本をプレゼントしてくれた。何年もアメリカで生活している作者が,今でも英語でしゃべるのは得意ではないというくだりがある。日本語でもしゃべるのが得意ではないのだから当たり前であるという。日本語で歌がうまくない人が英語でうまく歌えるはずがないと。そんなこと気にもとめず,英語の準備,医学の勉強もそこそこに,いけばなんとかなるかもというかなり根拠のない自信で飛び込んだ。そんな状況でなんとかなるはずもなく,講義・実習でかなり苦戦した。言葉の壁だけが絶望的にそこに立ちはだかっていると思っていた。親切な人もたくさんいたが,健全な有機的な交流がなかなかできずに孤独を感じ,シカゴブルズのジョーダン,マイアミヒートのモーニング,マイアミドルフィンズのダン・マリーノに逃避していた。留学終盤6月にアムトラック30日乗り放題パスでワシントン,フィラデルフィア,ニューヨーク,ボストン,バッファロー,シカゴ,ニューオーリンズを旅した。一切予約なしで駅におりてから宿を探す1カ月である。ワシントンではスミソニアン博物館群に圧倒され,ホワイトハウス,アーリントン墓地,ジョージタウン大学でアメリカの香りを感じた。ユースホステルのメンバーとシェイクスピアの野外ミュージカルを観にいった。寝ていた。フィラデルフィアではチーズバーガー片手に映画ロッキーで有名なフィラデルフィア美術館を訪れた。ユースホステルでは酒を飲み,ビリヤードを楽しんだ。ニューヨークではメトロポリタン美術館,自由の女神,セントラルパークの定番に加え,ブロードウェイのミュージカルをはしごして興奮した。ユースホステルでは初めての火災を経験し,口元を押さえながら避難した。朝のニューヨークに消防車のサイレンが響き渡っていた。屋上にはいろいろな国の連中が集まり,煙草を吸いながらいろいろな話をした。東欧などから切実に仕事を求めてきている者もいて,自分があまり将来について考えていないなあ,多分恵まれているんだろうなあと感じた。その後もボストン,バッファロー(ナイアガラの滝ぐらいしかありません),シカゴを訪れ,ニューオーリンズでは留学生たちとジャズ,ケイジャン料理を楽しみながらとりとめのない話をした。出会った人達はそれぞれ伝えたい切実なコンテンツを持っていた。いろいろなことを感じた1カ月の旅を終え,最後の実習に取り組んだときにはかなり熱心に吸収しようとしていた。血液内科医になりたいと,また海外で挑戦しないといけないなあと決心した時だ。結局1年間で学んだことは,英語ができないこと,自分の中に伝えたいコンテンツがいかに少ないか,ということだった。帰国後は臨床実習,国家試験と淡々と時間が過ぎ卒業した。卒後4年目にカナダのトロントに留学する機会をもらった。小さな研究室で一生懸命実験した。これが重要なコンテンツになった。実験などを助け合いながら,プライベートでもラボの仲間とお互いを行き来し,濃厚なコミュニケーションができた。なんて幸運な環境だろうと,留学中から実感できた。日常生活,仕事の内容や学会発表などは英語でほどほどはできるようにはなったと思う。帰国後数年し,2011年に5週間トロントに再度滞在する機会を得た。懐かしい仲間と再会し,懐かしい研究室でやっぱり実験した。休日にはナイアガラマラソンに参加したり,妻とクラシックコンサートやミュージカル,ジャズ,そして毎日のようにハンバーガーを楽しんだ。そのとき大学時代から大好きだったOASISのNoel Gallagherが新しくバンドを結成しトロントにやってきた。狭い会場でNoelとのあまりの近さに感動した。ところがである。まわりの観客が爆笑するMCにまったくついていけないのです。はー,留学を2回経験して,英語の勉強をそこそこしても,大好きなバンドのライブのMCにまったく反応できない。これってずいぶん哀しいですよね。人生には多くのスパイス(滋養)が必要ですよ。英語でこれらを得ようとしたらもっと英語に触れないといけないのでしょう。でももう語学の習得に割くための時間が惜しくなってきました。村上春樹いわく「自分にとってもっと切実に必要な作業があるのではないかという気持ちが先にたってくる」状態です。「やがて哀しき外国語」,知人の20年越しのメッセージをようやく実感しています。
| 次号は,鹿児島大学医学部・歯学部附属病院 血液・膠原病内科の鎌田勇平先生のご執筆です。(編集委員会) |

|
|
このサイトの文章、画像などを許可なく保存、転載する事を禁止します。
(C)Kagoshima City Medical Association 2016 |