=== 新春随筆 ===

     鹿児島市医師会三十年史・五十年史




元鹿児島市医師会事務局長
   土橋 一正

 『鹿児島市医師会三十年史』は,昭和53年3月,新制鹿児島市医師会設立30周年記念事業の一つとして発刊された。
編集委員は,執行部から小川幸男(編集長),沖野秀一郎・永吉 浩先生の3人の理事。会員から有馬 巌・石塚元徳・内宮禮一郎・尾辻達志・島本 保・外山寛樹・森重 孝先生(50音順)が委嘱された。
事務局の担当となった私と生駒君は早速資料の収集に取り掛かった。医師会の倉庫の古い書類を調べていたところ,昭和22年の新制医師会設立時の書類が出てきた。
・鹿児島市医師会設立委員会記録
・鹿児島市医師会会則(参考案)
・鹿児島市医師会設立総会記録
・第2回臨時総会記録(旧新役員退職指令による役員再選挙記録)
・新制医師会の登記簿謄本
これらの資料が残されていた。
これを見つけたときの感動は今でも忘れない。全文をそのまま『三十年史』に収録した。
新制鹿児島市医師会の設立は,昭和22年11月1日,初代会長は平安山長義先生である。しかしスムースに決まったわけではない。
上記の諸記録からその経緯をかいつまんで述べると,次のようなことになる。
昭和22年6月18日,新制鹿児島市医師会の設立委員会が開催され,設立手続き,会則(定款)案の審議がなされた。
同年8月23日,鹿児島市医師会設立総会が市役所会議室で開催され,定款の制定が承認された。
ついで役員選挙が実施され,会長に佐々木武男先生,副会長に広瀬平次先生,理事5人,監事2人,裁定委員11人,その他が決定した。出席会員は96人と記録にある。

これで新制鹿児島市医師会設立の運びとなったのであるが,その後9月になって日本医師会から,GHQ(連合軍総司令部)の指示により,旧国民医療法が施行されてから以後医師会の運営に関係した者は,新旧を問わず総退任するようにとの通知が出された。
これにより先に選出された佐々木会長以下全役員は11月1日付で辞任することとなり,改めて新役員の選挙を行うこととなったのである。
この役員等選挙(鹿児島市医師会第2回総会)は,12月10日山下町の大正会館で開催された。
この総会記録には,出席会員140人,委任状提出会員13人の氏名が記載されている。
会長選挙の結果は,田平栄造54票,平安山長義47票,有馬純任38票,ほか4票であった。
第一位の田平先生の得票が有効投票の2分の1に達しないため,規定により高点者2人による決選投票が行われることとなった。
その結果は,田平栄造70票,平安山長義70票と,奇しくも同数となった。
このため再度決選投票が行われ,平安山長義79票,田平栄造67票となり,平安山先生が当選と決定した。
副会長選挙:今村源一郎先生当選
理事選挙:納 利隆・井上 潔・岡谷良武・野尻靖敞・土橋英男先生当選
かくして8月23日の医師会設立総会で選出された佐々木会長,広瀬副会長,大礒理事は,この日(12月10日)をもって退任し,同日平安山長義会長,今村源一郎副会長以下上記理事5人が就任したのである。
法務局への役員変更登記は12月13日に行われた。
一方当会では,8月23日の医師会設立総会終了後,鹿児島県に社団法人鹿児島市医師会設立の認可申請を行い,昭和22年11月1日付で県知事から認可されていた。
この法人設立の登記は12月6日に行われた。したがってこの登記時点では,会長は佐々木武男先生であったが,その後GHQ指示の公職追放により改めて12月10日に役員の再選挙が行われ,同日をもって平安山会長以下の新役員が就任となったものである。
この昭和22年12月13日の役員変更の登記簿謄本が,新制医師会設立の諸記録とともに保存されていたという次第である。

佐々木武男先生は当時県医師会長・市医師会長を兼務されておられたが,公職追放令により両会長を辞任され,後任に平安山会長が就任(県・市医会長兼務)された。
平安山会長は,昭和24年3月に市医会長を辞任,4月から県医会長専任となり,市医師会の第2代会長には広瀬平次先生が就任された。
その7カ月後の11月,平安山県医会長は60歳で急逝,後任に田平栄造先生が就任された。
新制医師会誕生の前後2年間に,このような大きな動きがあったということが分かる。

三十年史編集委員の島本 保先生(第3代市医会長)は,この新制医師会設立総会に出席されていて,その頃の医師会の状況や,日本医師会とGHQサムス准将との関係,対立のことなどについて何度も話をされた。
サムス准将は,マッカーサーGHQ最高司令官の腹心と言われた人で,終戦後の日本の公衆衛生,医療福祉政策を進めた人物である。
絶対的な権力を持つGHQにあって,サムス准将が一つだけ実現できなかったことがあった。
「それは医薬分業であった」と,三十年史編集委員会のティータイムに島本先生の熱い話が始まるのだった。
医薬分業には,日本医師会が頑強に反対した。その指導者が当時日医副会長であった武見太郎氏であったとのこと。日医(武見副会長)の猛反発によりサムス准将は医薬分業を実現できなかった。
サムス准将はアメリカに帰り,武見副会長もGHQの政策に抵抗したとして日医の役職を辞任させられた。
島本 保先生は,このあたりのいきさつを熱っぽく語られた。先生は非常な熱弁家で,先生の話は何回聞いても興味深く,飽きることがなかった。
その後武見太郎先生は,昭和32年4月に日医会長に就任,以後昭和57年3月まで連続13期25年の長期にわたり日本医師会に君臨されたことは周知のとおりである。

武見会長は,何回も鹿児島に来ておられる。その多くは県医師会主催の大会や協議会における特別公演等のための来鹿であるが,当市医師会館にも2回来られた。
初回は昭和45年12月5日の鹿児島市医師会館落成式に出席され,祝辞を述べられた。
 武見会長は,かねがね医師会が地域医療を進め地域医療に責任を持つためには,医師会立検査センター,病院が必要であることを力説されていた。
 そしてこのたび鹿児島市医師会館が臨床検査センター・成人病センターを併設(看護婦学校も併設)していることを称賛され,「この会館を拝見いたしまして私が感じましたことは,会の幹部と会員諸君とが完全に近代医療を理解しているということであります。私は,この理解なしにはこの会館はできなかっただろうと思います。(中略)
 鹿児島市医師会のこの壮挙を,本当に今年の最後の問題として心から祝福いたしたいと存じます」と述べられた。
 武見会長の権勢・威光が全盛期の頃で,このとき先生にお茶を出した女子職員は,ただならぬ威圧感に身のすくむ思いがしたと語っている。
 この半年後に日本医師会は,医政史上空前絶後の全国保険医総辞退を断行したのであった。
 臨床検査センターはその後,小園検査部長のもとで,世界で初めての全自動臨床検査システムを開発,さらに365日24時間緊急検査,集配体制を構築。日本一の迅速検査・報告ならびに低料金のシステムを作り上げ,全国に冠たる臨床検査センターへと発展していった。
 この間の経緯や実績・成果については,歴代の検査センター担当理事,小園検査部長の講演録や報告書が数多くあるが,会長をはじめとする執行部のご苦労,苦心,決断に至るまでの経緯については,当時の太原会長(現顧問)の『回顧録』中の『全自動臨床検査システムが生まれるまで』(五十年史556頁)に詳しい。

2回目は昭和58年2月3日,鹿児島市医師会病院の建設現場と臨床検査センターを見学された。肝属郡医師会立病院での講演を終えて,その帰りに寄られたものである。武見先生はその1年前に日医会長を退任されていた。
医師会病院の建設工事は4カ月前に着工したばかりで,地下の掘削工事が行われているような状況だった。
武見先生を,横小路会長,久留副会長が現場に案内し,そのあと建設現場事務所で銭高組の設計士が設計図面を示しながら概要を説明した。
武見先生は興味なさそうな顔で聞いておられた。そして帰られる間際に「病院建築の専門家でない素人の設計だ」というようなことを述べられて席を立たれた。あとには気まずい空気が残った。
この1週間後に,思いもよらない衝撃的なことが起きた。横小路会長が,深夜帰宅途中に自宅前の横断歩道で暴走してきた車にはねられて急逝されたのだ。不慮の交通事故死だった。

三十年史編集委員会は,昭和51年8月から毎月1回,1年半にわたり延べ18回開催された。
島本先生は,ほとんど毎回出席されていたが,53年1月末に開かれた最終回(第18回)の編集委員会は,大学病院に入院中で欠席された。
ご容体が思わしくないようで皆さんが心配されていたが,残念なことに2月4日に逝去された。三十年史の発刊を目前にしてのご逝去だった。

松村第4代会長には,原稿を持参して校閲をお願いするとともに,会長時代のことについて原稿をいただきたい旨お願いした。
何日か後に先生から電話があったので,お伺いすると「これでよい」と言われた。
会長時代の思い出とか,何か書いていただけませんでしょうかと改めてお願いしたが,書くことは何もない,と言われた。それから「書いても1枚だ」と。
帰るときに,ご苦労だったと言われて,カティサークを1本くださった。
その1枚は結局書いていただけなかったが,私は松村先生のこの言葉を,その後もずっと思っていた。
先生が昭和56年1月逝去され,鹿児島葬祭橘会館で医師会葬が行われたときも,先生のご遺影を仰ぎながらこの言葉を思い出していた。
尾辻第5代会長からは「任期4カ年間を偲ぶ」と題する玉稿をいただくことができた。

三十年史発行から20年後の平成10年3月に『鹿児島市医師会五十年史』が発行された。編集長は,医報広報担当理事の服部行麗先生である。
五十年史は,三十年史にその後の20年を追加する形がとられた。
三十年史の編集は,特に前半の時代については,文献が少なく,資料探しに多くの時間を割いたが,五十年史(三十年史以降の20年間)の編集については,資料は幾らでもあった。その膨大な資料の中から何を選び,何を省いて,まとめていくかという作業になった。
何度も打ち合わせを行いながら進めたが,それでも原稿は相当な量となった。
製本されてみるとB5版で1,247頁,重さ約3キロの分厚い本となった。
あまりの厚さ,重さに,簡単に手に取って読めない,と不評の向きもあった。2分冊にすればよかった,との声も聞いた。
私も同じ思いがするが,それはそれとしてこの一書には医師会の50年の歴史が凝縮されている。年数が経つごとに本書の資料的価値は高まるであろう。

この五十年史では,私は「50年史年表」の作成を担当した。
三十年史の年表も作成したのだが,これには反省があった。
30年史年表は,いつ,何があったという事項だけを記載した簡略な年表だった。内容の記載がないので,無味乾燥なものだった。
50年史年表は,内容が分かり,読んで面白く,役に立つ年表にしようと思った。
この年表を見れば,鹿児島市医師会の50年の歴史が概観できる,そのような年表の作成である。
新制医師会設立の昭和22年から五十年史発行時点の平成9年までの50年間に,代議員会が170回,総会が73回開催されていた。
この代議員会議事録,総会議事録を全て読み返し,その中から主要な議案を全てあげて,その案件がどのような内容であったか,どのように議決されたか分かるようにした。
古い受発信簿冊,鹿児島市医報(昭和37年3月創刊号から平成9年12月号までの430冊)全てに目を通して,要点を書き抜いていった。
「鹿児島県医師会報」,「日本医師会設立記念誌・戦後五十年のあゆみ」,「医政百年史(厚生省医務局)」,「鹿児島医学雑誌」から医師会の動き,医事医政に関する事項を拾って補完した。
このほか毎日新聞社の「20世紀年表」,南日本新聞社の「かごしま戦後五十年」から政治,社会一般の主な出来事を拾い,時代背景が分かるようにした。

五十年史のあとがきに,服部行麗理事(編集長)が「医師会はいま100周年に向けての第一歩を踏み出しましたが,この後の50年がどのように発展していくか楽しみであり,また一世紀後の姿など見てみたい気持ちで一杯です」と書いておられる。
旧医師会館が落成してから44年,その跡に,このたび新会館が落成した。
3年後の平成29年11月には新制医師会設立70周年を迎える。その30年後は,まさしく100周年である。




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