第一次世界大戦(1914〜1918年)中の1918年(大正7年),アメリカのウィルソン大統領は講和の為の14カ条の原則を発表し,その中で「民族自決」と「国際平和機構(国際連盟)」を提唱しました。「民族自決」とは,各民族が自らの事は自ら決定できるということで,民族の平等,人種の平等が前提とされるはずのものでありました。
そこで日本もこれに呼応し,第一次大戦の講和会議に全権団を派遣し,国際連盟委員会に対して人権平等案を提出したのです。それはいかなる国も人種や国籍の別を理由に法律上あるいは事実上何らの差別を設けないことを約束するというもので,今日から見れば当然の内容でした。しかし,植民地を支配する欧米諸国にとっては,はなはだ都合の悪い提案で,強硬な反対がありました。日本の粘り強い説得で,国際連盟委員会の最終票決は12対5の多数で人種平等案は支持票が多かったのですが,議長を務めたウィルソンは,「全会一致」の原則を盾に,これを否決するという,今では考えられないような決定をくだしたのです。
結局,ウィルソンが提唱した「民族自決」は欧米人(白人)の間にだけ適用され,黄色人種や黒人はその範疇には入らないという現実が暴露されたのです。そしてさらに欧米人によるアジアの植民地化は強化され,日本に対してもハルノートの提示へと強硬姿勢が続くことになりました。
人種の平等が国際社会の原則になったのは,日本が欧米列強によるアジアの植民地主義を破ろうとして戦った大東亜戦争終結後,3年経った1948年(昭和23年12月10日),第3回国連総会で「世界人権宣言」としてやっと日の目を見ることができたのです。
空爆による日本内地の焼け野原化,さらに原爆投下によって,日本は「無条件降伏」というポツダム宣言を受諾することになりました。歴史は勝者によって書かれると言われておりますが,日本が先頭に立って世界に誇るべき人種差別撤廃への働きかけをしていた事実や,貿易立国の日本に,石油や鉄鉱石等資源の輸出を禁じる経済封鎖や海外資産の凍結を行った事実を隠し,ひたすらに軍部の独走,侵略と批判して,戦勝国の立場だけを美化したのが,東京裁判でありました。疑問のある方は,インターネットGoogle(グーグル)で「大東亜戦争,東京裁判」と検索すれば色々な史実が明らかにされています。
歴史書から日本の良さを削除してきた教育行政に対し,腹立たしい思いをしている爺児医であります。

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