=== 新春随筆 ===
「未年にちなんで」 |
(昭和30年生)
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西区・武岡支部
(こしゃクリニック) 古謝将一郎
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新年あけましておめでとうございます。
「未年にちなんで」という内容での原稿依頼がありました。文章が大の苦手で,またこれといった趣味も持たないため大変困惑しておりましたが,私の生い立ちから今日まで,未年を中心とした出来事について思い出すままに書いてみました。そして今年は私にとって5回目の未年であると同時に還暦を迎える年になります。人生における大きな節目を迎えるにあたり,これからの抱負についても述べてさせていただきました。
1.出生
私は昭和30年9月30日に,今村病院の近く(いづろ)で真昼に生まれました。「この子は夜中ではなく昼間に生まれてきて本当に感心だった」とよく言われていたようです。ただ小学校に入っても寝小便ばかりで,小便太郎と言われていました。
幼稚園の年少組の時は,西本願寺の幼稚園に通い,毎朝お経を唱えていたような気がします。それが年長組になるとザビエル幼稚園に転向となり,毎日のようにミサを唱えていました。おそらく宗教を重んじる外国人が聞いたらビックリするような話だと思いますが,私のいい加減な性格はこの辺からきているのかもしれません。
2.12歳
私は12歳頃までは,忍者になろうと真剣に考えていました。おそらく当時のテレビや漫画に影響をうけたのでしょう。絶対に忍者になってみせるということで,よく自宅の庭で手裏剣にみたてて小石を投げる練習をやっていました。城山や照國神社の境内では,よく犬を相手に走り回っていました。城山は登山道と反対側に頂上までつながる石段がありますが,頂上から石段を駆け下りていく訓練をしていたときでした。勢い余って側溝にはまり込んでしまいました。「ああーもうダメだ,死んでしまう」と思いましたが,しばらく気を失っただけのようでかすり傷程度ですみました。よく死ななかったと思いますが,これを機に忍者の夢はあきらめました。今思えば,12歳の頃はろくに勉強もせず馬鹿なことばかりやっていたようです。
3.24歳
24歳の時は,まだ医学部生をやっていました。なんといっても目前に迫った国家試験のプレッシャーからか,自分でも不思議なくらい勉強ばかりやっていました。ただ学生生活を思い起こせば,楽しいことも多いでした。大学入学祝いということで先輩であるD園先生とH丸先生に「東洋ショー」に連れて行ってもらいました。「こんな世界が世の中にあったとは・・・」,私は天にも昇る想いでした。本当に最高の入学祝いでした。
麻雀を始めたのも大学に入ってからでした。これまた先輩であるT原先生の豪邸でみんな集まりよく麻雀をやっていました。私はルールを全く知らなかったので先輩の後ろで見ているだけでしたが,ある時,お父様に「今どき,麻雀を知らない学生がいるもんだ。珍しいねえ〜」と言われました。これはいかん,と思い必死に麻雀の勉強をはじめました。いざはじめてみると麻雀の面白さに完全にはまってしまい,メンツがそろわない時は下宿で一人麻雀をやったりしていました。T原先生の豪邸では,よく徹マンになりましたが,徹マンの後,海水浴に行ったのを覚えています。メチャクチャなことばかりやっていたようですが,今では学生時代の大変楽しい想い出です。
4.36歳
36歳の頃は,鹿児島大学産婦人科医局で更年期障害や骨粗鬆症を中心に勉強させてもらっていました。閉経により骨粗鬆症の危険性が増してくるということが1941年,Albrightらによって初めて指摘されたのですが,国内では1980年代に入りやっと婦人科領域でも閉経後の骨粗鬆症や骨密度減少といった概念が浸透しはじめてきたところでした。そして従来のX線による診断ではなく,より簡便でかつ高い再現性をもった骨密度測定というやり方が登場してきました。腰椎骨密度を正確に測定する方法が何かないか苦慮しておりましたが,大学の先輩であるH高先生や当時鹿児島大学放射線科講師であったI田先生のおかげで全国でもいち早く婦人科領域における腰椎骨密度測定値なるものを報告することができました。またこれによって多くの論文を発表することができました。大学の永田教授はじめ共同研究の先生方には大変お世話になりました。ありがとうございました。
ホルモン補充療法(HRT)が世界的にも脚光をあびていたのは1980年代中盤頃だったと思います。米国ではがん死亡よりも心血管系疾患による死亡が深刻な問題であり,なんとか問題解決できないかと試行錯誤していましたが,そのとき注目されたのがHRTでありました。HRTならコレステロールも低下作用があるし重篤な心血管系疾患の救世主になれるだろう,との思惑で始まったのがHERS(Heart and Estrogen/progestin Replacement Study)でした。ただ結果は予想に反しイベントまで増えてきたため,HRTは疾病をもった患者に対する二次予防効果は全くないと結論づけられました。それですぐに始まったのが一次予防を期待したWHI(Women's Health Initiative:女性の健康イニシアチブ)の研究でした。しかし結果は惨憺たるものでHRTによる副作用のみ強調される結果となり,研究途中で中止となりました。
恋人に振られた時と同じような感情だと思いますが,それまで熱愛していたHRTに完全に裏切られたため,その想いはHRTに対する激しい怒りへと変わり,バッシングの嵐が吹き荒れました。これが世界中を震撼させた「WHIの中間報告」(2002年)でした。WHIの報告自体いくつか問題点がありましたが,WHI以降,多くのサブ解析が行われ,HRTの有効性・安全性が改めて再確認されたのも事実でありました。
5.48歳
48歳の時,4回目の未年のときに相良病院に就職させていただきました。HRTを診療の柱にしていると,どうしても乳腺との関わりがでてきました。私は主に乳がん術後の婦人科検診を中心に診療を行っていきましたが,術後に不定愁訴で悩んでいる患者さんの多さには驚かされました。
2002年のWHIの中間報告以来,多くのサブ解析がなされHRTの開始年齢(なるべく閉経後早期),投与方法(経口よりも経皮投与),子宮摘出された患者にはエストロゲン単独投与(子宮内膜がんの抑制目的で併用される黄体ホルモンにより乳がんのリスクが若干上昇することや脂質代謝においてはエストロゲンのメリットを相殺してしまう)を行うといったような工夫でHRTはより安全に施行できるということがわかってきました。ただどうしても乳がん術後の患者さんにはHRTができません。手も足も出ない状況のなかで,大豆イソフラボンを利用したサプリメントやプラセンタ療法などは効果がないだろうかと常々思い悩んでおりました。
相良病院に就職して2年目の4月から鹿児島市医師会の理事を拝命いたしました。医師会のことはなにもわからない状態でしたので,先輩理事や事務局の方々には本当にお世話になりました。また何よりも会員の先生方には,力不足のためご迷惑をおかけしたことと思います。ただ理事をやらせてもらって,多くのことを勉強させていただきました。今後は理事の経験を生かし,少しでも医師会発展に貢献できるよう努力していきたいと思います。
執行部の仕事は,常に多くの難問・難題との戦いでありました。私の中で特に印象深く残っている出来事に,夜間急病センターの産婦人科出向を1年で中止にしたという大仕事がありますが,今でもあの時の苦労が鮮明に思い起こされます。
夜間急病センターは公設民営の形で平成18年4月1日に鴨池のダイエー前にオープンしました。しかし自院で分娩を抱える産婦人科医が一晩でも自院を離れるということは不可能なことでした。早急に問題解決すべく毎月のように市保健所と粘り強く交渉を重ねていきましたが,なんとか平成19年度から産婦人科はオンコール体制に変更できました。行政が一度決定した事業内容をたった1年で変更するということは,通常ありえないことだと思います。最後まで粘り強く交渉を続けることの重要性をこの時に教えられました。当時の福元副会長,有村理事,年永理事には大変お世話になりました。
6.60歳(還暦)と今後の抱負
乳がん術後で不定愁訴に悩む多くの患者さんにもっとQOL(Quality of Life)を高めるための治療ができないか?高齢社会を迎えるにあたって中高年医療にもっと重きを置くことで将来の医療費抑制に少しでも貢献できるのではないか?などいろいろと思いたつことがあり,平成26年7月に婦人科クリニックを開業いたしました。
大学医局時代から研究してきた中高年医療(更年期障害,骨粗鬆症など)を中心に子宮がん検診の普及,月経困難や婦人科腫瘍などへの対応に力を注いでいきたいと考えています。
今,一番の気がかりは,平成25年の春頃に子宮頸がん予防ワクチンの有害事象(ワクチン接種後の頭痛,嘔吐,意識障害など脳神経障害や激しい痛み,末梢神経障害や歩行障害など)が報道されてから,ワクチンの接種がピタッとなくなりました。他科の先生方はいかがでしょうか?ワクチン被害者の会は,直ちにワクチンは中止するよう国に訴え,これにより厚労省もワクチン接種に関しては,「積極的な推奨は控えるように」との勧告が平成25年6月に出され,以降今日まで明確な結論が出ていない状況です。
副反応で苦しむ患者さんは大変つらいと思いますが,ワクチンの有効性が国内外で証明されているのも事実です。子宮頸がんの予防は,女性の生命を守るだけでなく妊孕性の温存にも繋がり,他のがん予防とは大きく異なる特徴があります。少子高齢社会の今こそ子宮頸がん予防ワクチンの意義を再認識すべきと思います。そしてなるべく早く厚労省から「子宮頸がん予防ワクチンを積極的に推奨するように」という勧告が出されることを望んでいます。
還暦を迎える頃に開業したために,自分の健康には人一倍,気をつけなければならないと思っています。かといって普段から何か運動をするかといえば,何もやっていません。これまでジムに入会しても,三日坊主ですぐに幽霊会員になりました。大学医局時代から通算すると,セイカスポーツセンターで5,6回ほど入退会を繰り返しています。今度こそはと妻と一緒に入会の手続きに行ったときでした。ジムのスタッフが丁寧に入会の案内をしていると,しびれをきらした妻が「もうこの人は,入会に関しては何でもわかっているから早くしろ」と苛立っていましたが,おかげで私は大恥をかいてしまいました。
いくら効果的な運動であっても長続きしなければ何にもなりません。これまでの失敗で学んだことは,とにかく長続きする運動でないと駄目だということです。それならということで,自分のクリニックまでの通勤手段は歩くことにしようと決めました(以前からもよく歩いていました)。紫原の自宅から中央駅西口まで,交差点での小走りを含めて約50分です。大雨や降灰の日以外はなるべく歩くようにしています。紫原に新しくできたバイパス(東紫原陸橋)を通勤に利用していますが,天気がいい日など最高の気分になります。歩きながら税金を少しでも取り戻せているという満足感にもひたれます。通勤におけるこの最高の贅沢(帰りは紫原登山となりややきついです)は,これからも味わっていきたいです。
私たちの仕事はとにかく体力勝負だと思います。日頃から体力維持,健康維持には十分気をつけながら,1年でも長く患者さんのためにクリニックを継続していけるよう努力していきたいと思います。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

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