=== 随筆・その他 ===

「作     文


西区・武岡支部
西橋 弘成

1.開 業
 12年間医局にお世話になった。1〜2年その前から,勤務医を続けることだろうか,開業すべきだろうかと考えていた。事情がいろいろあって,小学校の同級生より13年遅れて大学へ入ったので,すぐ定年がやってくる。そしたら次を探さなければならない。
 開業すれば,元気な限り続けられる。そこで開業することを選んだ。
 昭和56年1月8日を開業とした。49歳12カ月の年齢だ。「8日」にしたのは,私の誕生日が1月17日であるのと「8は末広がりと言って事業が発展していく」と聞いていたからだ。
 市・県の医師会に加入させていただいた。

2.還 暦
 ある年の12月の初めだったろう。市医師会から一通の手紙が届いた。「何の用事だろう」封を切って読むと,「還暦を迎えられるので何か感想を書いてください」という依頼であった。
 私は当惑した。これまで文章など書いたことはない。小学生の『夏休みの友』の日記に,「今日も昼から球磨川に泳ぎに行った」と一行書いたくらいのものだ。その時ふと思い出したことがあった。

3.戦争ごっこ
 人吉東小学校4年生の秋だ。担任は人吉市から70kmは離れている熊本県の西海岸に近い鏡(かがみ)村から1時間半かけて通勤しておられる40代と思う“鏡”という男の先生だった。テストも宿題も全く出されない先生だったがある日「日曜日つづり方を書いてきなさい」と言われた。秋だったということは,母の兄(伯父)の家に小作人から千俵の米が入る時であったからだ。伯父は身体が弱く勤労意欲も無かった。その米を従兄に売って暮らしていた。従兄はその米で焼酎を作り売った。だから従兄の方が儲けた。
 10月になると,杜氏が2人毎日通ってきて,麹(こうじ)作りから始める。焼酎になるのは次の年の3月頃で,時期を失すれば,酢になってしまう。一人は町に住む人であったが,一人は田舎から通われた。その方が,ある日,細めの竹と太めのはりがねで,私に剣を作ってくださった。
 私はその剣を使ってみたくてしようがなく,次の日曜日お寺の庭で遊んでいる下級生を集めて「戦争ごっこ」を始めたのだ。たまたま同学年の二従兄(ふたいとこ)もいたので,彼を赤組の大将にし家来4〜5人とお寺の高い床下を陣にさせ,私は鐘つき堂に白組の大将として家来4人を引き連れて陣どった。あとは適当に戦いくさの真似ごとをした。
 私はそのことを書いて出した。一週間後の国語の時間だった。先生は黒板にいつも書く月・日・曜日などすべて消して,右端から板書(ばんしょ)を始められた。二行目までは何かよく分からなかったが,三行目になって「何だ,こりゃ俺の作文たい」と分かった。先日出した「戦争ごっこ」だ。左端まででおさまった。「皆,この作文を二回読みなさい」とおっしゃった。誰の作文とは言われなかった。
 還暦へ戻ろう。私はこのことを思い出して,「そうだ,自分の60年の生活を書けばよいのだ」と考え,『思い出の歌でつづる私の60年』と題して文を書いた。毎年歌ひとつ取り上げても60になるので,2〜3年ごとに拾い上げて,その歌にまつわる自分の思い出を書いた。
 「戦争ごっこ」は原稿用紙4枚ぐらい書いたと思う。一番長く書いていたので取り上げられたのだろう。

4.「母の日」の作文
 「母の日」が5月の第2日曜日と定められたのはいつからだったろうか。母の存在は空気のようなもので,無くては子どもは生きてゆけないが,その存在を意識することはほとんどない。だから母に対して「ありがとう」と言ったことはない。言う事が照れくさいということもあったろう。下の妹が小学4年生になった年,私は山村の小学校の職員室で「母の日」の作文を文部省が募集している張り紙を見た。担任をしている2年生の児童に書かせてみよう,そして下の妹にも我々兄弟の代弁者として書かせてみようと考えた。
 「Yちゃん,母の日の作文書いてみんね。送るのは兄ちゃんが送ってあげるから。難しく考えなくてもいいよ。母(かあ)ちゃんがしていること,あなたが母ちゃんに感じている気持ちを正直に書けばいいんだよ」。2週間後人吉の家へ帰ったら妹は原稿用紙3枚に書いていた。私はそれを預かって山村へ帰った。2〜3回読み返してみた。手を入れるところはない。封筒に妹の学校名,学年,氏名,学校の住所を記入して郵送した。担任する児童の分は,2人だけ別に郵送した。
 母の日が過ぎても私の学校へは何の連絡もなかった。他の学年で出した先生はいなかったようだ。
 妹が通う人吉東小学校では,妹の作文が入賞し,講堂で全校児童に披露されたそうだ。人吉東小学校は全校生徒1,200人。職員は少なくとも30人はいる。それでもこんな作文の募集に気づかない先生,気づいても児童に書かせようとする先生が少ない。

5.鉄道記念日
 山村の小学校に勤めて2年目,2年生の受けもちとなった。その頃は1クラス61人までで,61人を超えると2クラスになった。1年目は60人の児童のクラスを持たされたが,2年目は35人でだいぶ楽であった。
 秋,9月さわやかな日,4時間目の授業を終えて職員室へ戻ってくると,黒板に一枚用紙が貼ってあるのに気づいた。何だろうと見ると,熊本鉄道管理局が鉄道記念日の作文を募集するという案内だった。こんな記念日があったのか,知らなかったと思った。駄目で元々,書かせてみるかと考えた。
 翌日帰りしな,「あした国語の時間に『鉄道記念日』の作文を書いてもらうから,おうちでどんな事を書こうか考えておきなさいね」と話した。
 翌日と翌々日,提出された作文を2回読んだ。そして,2人の女子児童の作文を選び,放課後2人を残して,一部訂正させたり,書き加えさせたりして局へ郵送した。その事を忘れかけた3週間後,局から私宛に封書が届いた。開けてみると「2人とも入賞しました。記念日に近い日曜日,2人の児童さんと担任を熊本市の見学へ招待いたします。お昼の食事も当方で持ちます。子どもさんは,お土産を買う程度のお小遣いを持ってこられるくらいでよいでしょう。10日後までにご返事ください」と,あった。私は校長,教頭に報告し,2人のお母さんに学校へ来てもらって,その事を伝えた。2人のお母さんは,参加させてくださいとおっしゃった。校長,教頭も日曜日だし,担任のあなたが引率していくのだから差し支えないと言ってくれた。人吉駅午前9時発の急行(くま川号)で出発するから,それに間に合うように人吉駅へ集まってくださいということだ。岩野から始発駅の湯前駅までバスで15分,湯前駅から人吉駅まで汽車で40分。私は逆算して何時のバスに岩野で乗ればよいか計算した。
 当日,天気良好。2人のお母さんは湯前駅まで見送ってくださった。1人は内科クリニックの娘さんで,夕べ38℃の熱が出たそうだが,先生が点滴をなさって今朝は平熱になったそうだ。Dr.ってすごいなと思った。もう1人は農協の会長の娘さん。
 湯前駅では,我々と同行するような大人も子どもも乗ってこなかった。湯前駅から3つ目の駅で,中学時代の同級生のU君が,3年生ぐらいの女の子を1人連れて乗ってきた。話をしていて,私達と同行の旅と分かった。それ以後は球磨郡,人吉市の駅からそれらしい連れは乗り込んでこなかった。
 熊本駅に着くと,駅前にバスが一台待っていた。児童,引率者を含めて40人が座れる。40人に厳選したらしい。若い女性のバスガイドさんが付いて車内案内,車外案内をしてくれる。熊本市で観る所といえば,熊本城,水前寺公園,熊本市の天文館上かみ通とおり,そして人吉・球磨には無い七階建てのデパート,動物園,子どもの興味を引きそうな物は,こんな物か。デパートでは子どもが好みそうな食事を出してくれた。2人とも笑顔で食べていたから口に合ったのだろう。熱を出したN子ちゃんも疲れた様子なく行動をともにできた。
 午後5時前湯前駅に帰り着いた。2人のお母さんは,駅に迎えに来てくださっていた。N子ちゃんのお母さんは,「N子は大丈夫でしたか」と尋ねられた。「大丈夫でしたよ。食欲もありましたし,皆と一緒に行動できましたよ」と,私は無事責任が果たせた安心感を持って答えた。
 私は,代用教員から正教員の資格を取るため,熊大教育学部にペーパーテストや実技テストを受けに時々行っていた。テストが終わると,熊本市出身で岩野小で同僚となっているM君の案内で熊本市内の主な所は見ている。私の関心を引いたひとつに,赤煉瓦づくりの旧ナンバースクールの五高の建物である。この学び舎で勉強したかったな,でもナンバースクールに合格する学力は無かった。私たちの学年がナンバースクールを受験する最後の学年だったが,私達の学年からナンバースクールへ進級できた者は一人もいない。

終 章
 市医師会に加入させていただいて,還暦をきっかけに文章を書く機会を与えられた。「エッセイ」と銘打って提出しているが,他人(ひと)様がお読みになれば,「小学生の作文」と思われるだろう。
 上の妹の親友がご存命なら,この方を師として,本物のエッセイが書けたはずだ。この方は,詩の芥川賞といわれる『H氏賞』をもらわれた方で,ご存命中は在京であられたので郵送して指導を受けていた。
 最初は小学生の作文程度であっても継続して数多く書いているうちに,少しはましになっていくだろう。諦(あきら)めないことが肝要だと自分に言い聞かせている。何事もそうらしい。「継続は力(ちから)なり」と言うではないか。
 嫌いなことでもやっているうちに好きになってくるものらしい。好きになれば上達する。



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