| === 随筆・その他 === 徳 之 島 の 戦 跡 A |
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中央区・中央支部 (鮫島病院) 鮫島 潤 |
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戦艦大和の轟沈を遠望
4月7日は戦艦大和(写真1)がトカラ列島の沖合で援護駆逐艦数隻とともに米軍機の猛烈な魚雷攻撃を受け遂に力尽きて345mの深海に沈没した日である。私は沈没の際の爆音と高さ1,000mに達した爆煙を見たという枕崎,火の神公園に行った(写真2)。忠魂碑の周辺の石燈籠の道は綺麗に清掃されてみずみずしい。私は一人,あの丘に立ち遙かに南の海を見渡して「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の辺にこそ死なめ 顧みはせじ」の大伴家持の詩を戦時中何回か詠ったのを思い出した。 また,私は十数年前に徳之島,犬田布岬の戦艦大和の慰霊塔を見に行ったことがある。アダン,ガジュマルの茂る広い公園に戦艦大和の司令塔と同じだと言う24mの高い塔が建っている。それを取り巻く太い鉄の鎖が非常に錆びついてボロボロになり痛ましく,戦死者の皆さんには申し訳ない事だと思ったものだった。しかし昨年再び同所に行った時,公園は綺麗に整備してあって更に拡大工事中だった。心からほっとしたものだ(写真3)。 徳之島島民の皆さんはここから西の空に聞こえる轟音と高さ1,000mの爆煙を,時を同じくして枕崎の人々と双方約220km(大体同距離)離れた皆さんとともに敵機空襲の合間に恐怖の念でただ恐れ慄いて眺めていたことだろう(図1)。当時,戦争末期の頃,軍部の厳しい報道管制のため,何ら情報も知らされない時代で,多くの戦死者の事実も全く極秘のままだった。戦争とは何と酷いものかと痛感する。 若き特攻隊員の心情 同時に徳之島の特攻基地に行った事を述べておきたい。航続距離の短い戦闘機が沖縄特攻に行くまでの中継基地として徳之島その他の島々にも臨時の飛行場が設けられていた。徳之島天城町の海岸近くの滑走路は海岸線に一直線で約1キロぐらい伸びており,周りにいわゆる特攻花というコスモスに似たような花が一杯咲いていた。その滑走路は現在自動車道として使われている。その外れに特攻隊兵士の慰霊碑が厳粛に建っていた。しかし現在ではその意味を知る人が何人いるだろうか? 私は一夜をこの海岸で過ごしたことがある。海岸に寝そべって眺めた夜の星は誠に美しく,私が80年前,子どもの頃,市内西千石町の自宅の庭で眺めた頃そのままに底知れず深く綺麗だった。天の川が大きく見えていたものだ。その昔の星空を今でも思い出す。若い特攻隊員諸君はこの星空の中を沖縄に向けひたすらに飛んで行ったことだろう。その心情を思って感慨無量のものがあった。 ここで思い出すのは知覧の特攻の母,富屋食堂の鳥浜トメさんの事である(写真4)。富屋食堂は現在も当時の隊員の遺品の展示がしてあるそうだ。トメさんの事はあまりに有名だが,一方徳之島にも多賀屋旅館の神田タカさんと言ってトミさんと同様に若い特攻隊員を親身に世話して沖縄に送り出していた女性がおられた(写真5)。このように銃後の国民の努力があってこそ隊員の非常な癒やしになっていたのだ。多賀屋旅館には当時の隊員の宿帳が残っているそうだ。ただし旅館は戦後,道路の拡張により消滅している。 日本中の銃後の日本国民は官民を問わず国家防衛のため,身の危険を顧みず必死の活動を続けていたのだ。そのあげく米軍機により爆死,焼死,原爆死など犠牲者は全国の総計は幾十万だっただろうか。私は逃げ惑う国民の惨状を目にした当時を残念に思い出す。 一部の政治家たちは戦死者を慰霊すると称して周囲の反対を押しきって大挙して靖国神社に詣でているが,銃後にありながら戦災で命を失った一般国民については何か考えているのだろうか。私は国民全体の英霊を同様に祭る社があるべきだと考える。 現在米寿を超えた私は常々このことを考え続けている。そして戦争を知らない若い諸君が昔の我々のようにいつの間にか教育勅語とか軍人勅諭により真っ赤に洗脳されて国の大事という時に率先して赴くか,または自由の民として無感動な人間になって残っていくことになっていくのだろうか,いずれの道を取るのだろうかと思っている。戦争の悲惨さを痛感した我々は,今後の国民はいかに生きるべきかを考え続けている。 |
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