私ごときが今更言うことでもないのだが,音楽には不思議な力がある。楽しい気分をいっそう盛り上げ,つらいときには励まし,悲しいときには慰めてくれる。想えば人生の節目節目で,この瞬間にはこのテーマ曲,みたいなものが誰にでもあるのではなかろうか。
大学生時代,特別講義で来られたどこかの解剖学の教授がキスなんて(恋人と手を繋ぐだったか?)所詮,重層扁平上皮の擦り合いに過ぎないのに,どうして心はときめくのかなんてロマンティックな考察をしていたが,同じような言い回しをすれば,音楽だって小さな物音を積み重ねた結果に過ぎないのである。しかし…。
平成25年7月中旬のある日。新聞を何気なく読んでいると,ふと小さな記事に目が留まった。「ポール・マッカートニー来日公演決定」。ビビビビビっときた。胸が高鳴るとはこのことか。あのビートルズのポール・マッカートニーがやって来るのである。
ビートルズを知らない,という人はまずいないであろう。今の時代はさすがに音楽の教科書に「イエスタデイ」が載っているとは思わないし,若い人なら楽曲名を挙げられないかもしれない。それでも最近はCMで「オブ・ラ・ディ,オブ・ラ・ダ」のカバーが流れていたりしたので,一度も彼らの楽曲とすれ違ったことがないという人はいないのではないか。
かくいう私も子どもの頃から「イエスタデイ」くらいは聞き知っていたと思うし,記憶を辿ると小学生の頃に「悪霊島」という金田一耕助シリーズの映画があって主題歌が「レット・イット・ビー」であった。テレビCMで流れる「鵺の鳴く夜は恐ろしい…」というキャッチフレーズと共に引き裂くような間奏のギターフレーズが子ども心に強い印象を残した。今思えばなぜその映画の主題歌に選ばれたのか全く分からないけれど。
ビートルズを本格的に聞き出したのは高校から。1987年にビートルズの音源のCD化がスタートして全作品の半ばまで進んだところで,深夜のFM放送で初期作品が連夜放送されたのである。まだCDプレーヤーなど持たず,ラジカセが音楽生活の主流であった私は,FMステーション(とうの昔に廃刊)という雑誌で番組情報を知り,せっかくだから録ってみようと思って,遅くまで頑張って起きた。番組開始と同時に録音ボタンを押し,そのまま就寝。翌日にカセットテープに入った楽曲を聞いてガツンとやられた。ノリノリのロックンロールナンバーから,リズム&ブルース,果てはバラード調の楽曲など非常にバラエティに富んでどの曲も文句のつけようがない。シャウトするかと思えば息のあったハーモニーを見せ,聞いていると身震いしてしまう。作品ごとの進化もすさまじく,中期以降の作品になると曲の良さだけでなく,イマジネーションの宝庫である。現代の音楽にどれだけ影響を与えていることか。
人物像に焦点を当てると皆々個性的でユーモアとウイットに溢れる人々であることが分かる。ジョン・レノン,ポール・マッカートニー,ジョージ・ハリスン,リンゴ・スターと4人のメンバーがいて,推しメンは誰かというのがファンなら必ずあるのだが,当初私はジョン派であった。ポールも当然悪くはないのだが,バラードソングのイメージが何となく強くて,トンがった感じのジョンの方に惹かれた。「根本的な才能とは自分に何かできると信じることである」なんてジョンの発言,格好いいではないか。実際にはポールだってハードな曲も歌うし,ジョンだって秀逸なバラード曲がある。これもかなりステレオタイプ的な解釈だったと今になって思うが,解散してソロになってから求道者的なジョン・レノンに対して商業的なポール・マッカートニーというイメージを持っていたように思う。
だがそれもずいぶん変わってきた。年を重ねて円熟味が増してきたというか,五十にして天命を知る,七十にして心の欲するところに従えども矩を超えず,というのはポールのための言葉ではなかろうか。今年のグラミー賞では30歳近く離れた若手と組んで最優秀ロック・ソング賞を取ってしまうし,一昨年はブルース・スプリングスティーンと共演して「ツイスト・アンド・シャウト」とか歌ってしまうのである。ここ10年,還暦を過ぎてからの間にライブ映像作品も複数出ているが,ビートルズナンバーと新曲を巧みに織り交ぜてどれも非常に充実している。
ポールの来日公演はこれまで3度あった。1990年,1993年,2002年で,1980年にも来日したが成田空港で大麻不法所持にて逮捕の憂き目に遭っている。日本人記者がポールを取材すると必ず「オッス」と挨拶してくるので,どこでその日本語を覚えたか尋ねると「jail(拘置所)」と答えたとか。90年の初来日公演(ビートルズ時代を入れれば2回目)は大層盛り上がっていたが,自分は一浪して受験生の身であった。93年は大学試験中。親の脛をかじる身でありまたまた涙をのんだ。2002年は国内留学先の滋賀から戻ったばかりで,かつ長女が生まれた直後でもあり行き出せなかった。しかし今回は…なんと福岡で金曜日の夜公演!ちょっと早く仕事を切り上げれば十分間に合う。九州新幹線全線開通に感謝!である。
公演は11月15日。新聞の速報から約4カ月後だ。居ても立ってもいられず,チケットはプレイガイドで抽選販売となっていたが,そんな運だけに任せられない。そこで閃いた。ビートルズのファンクラブに入るのである。大学生の頃まで入会していて90年の時もファンクラブでの優先座席確保があった。社会人になってから会費の支払いが面倒になって脱会していたが,即入り直すことにした。ネットで検索すると既にファンクラブ側よりS席一人\16,500と1年間の会費のセットが販売されている。せっかくなので妻と二人分購入。子ども達は妻の親に預かってもらうことにした。他にもリハーサル見学を含めたバックステージツアーというのが8〜9万円くらいであったのだが,土日ではないので断念した。
ホテルは直前でよいかと高をくくっていたら,10月に旅行代理店で当日はポールが来るため福岡のホテルはどこも混んでいる,ホテル日航くらいしか空いていないと言われて,ちょっと危なかった。一般販売でチケットがsold outになるのもかなり早かったし,さすがに71歳なのでこれが最後の来日ではないかと皆に思われていた節もある。しかし…しかしである。
当日のヤフオクドームでの公演は大変に充実した素晴らしいものであった。福岡での公演は1993年以来,実に20年ぶり。ビートルズナンバーの「エイト・デイズ・ア・ウィーク」で幕を開け,ニューアルバムの「NEW」から新曲を一曲。そしてMCに移り「コンバンワ,フクオカ。カエッテキタバイ」と日本語かつ博多弁で挨拶。会場は爆笑とともに大喜びであった。その後「キョウハ,ニホンゴガンバリマス。バッテン,エイゴノホウガウマカトヨ」と続く。サービス精神旺盛,さすが世界を制覇した稀代のエンターテイナーである。その後もソロになってからの楽曲とビートルズナンバーを織り交ぜて休憩なしにグイグイと観客を引っ張る。時に亡くなった前妻やジョン・レノンに捧げるとか,これはジョージ(・ハリソン)の曲です,作品を残したジョージに拍手をとか,彼のさまざまな絆を思わせる言葉を紡いで歌が流れていく。
全ての楽曲を共に口ずさんで熱狂している私と違って,「イエスタデイ」くらいしか知らない妻は「全然水飲まないで歌い続けているよね」と違う観点から驚嘆していた。確かに日頃外来で見る70歳代の人とは桁が違う。ずっとベジタリアンを続けているというがそれが秘訣か?
震災の被害者の方々へと「レット・イット・ビー」を捧げ,舞台は佳境へ向かっていく。ロンドン五輪開会式でも歌った「ヘイ・ジュード」の場内大合唱で本編を一旦閉じると,程なくアンコールの舞台に立ち「モットキキタイ?」と観客を煽る。1回目のアンコールはビートルズデビューアルバムのオープニングを飾った「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」で締めた。間髪入れず2回目のアンコール。ギター1本で弾き語り。「イエスタデイ」だ!あの伝説の歌を生歌で聞けた。これはもう大興奮である。
3時間近くぶっ続けで歌い続けたことに加えて,もう一つすごかったのはほぼ同年代に活躍したエルトン・ジョンとかが近年はキーを下げて歌っているのに対して,ポールはキーを下げないで歌ったことである。曲を聴くと,かつてその曲と出会った瞬間にタイムトラベルしてしまうような感覚に襲われ,過ぎ去ってきた年が嘘のように思えてしまった。自分の聴いてきた音楽がそのままそこに存在するということが,凄まじい感動なのである。
最後の曲の後,前日に念願叶って観戦した相撲の四股を踏む動作を茶目っ気たっぷりに真似してポールは舞台袖に下がった。「See you next time!」という言葉も残して。本当にまた来日できそうである。
一言,ただただ凄かった。これほどの充足感を味わったことは他のライブではなかった。仕事の上でのささいな悩みとかストレスはその場では全て消し飛んでしまった。71歳であれだけやっているのだからと自分もとかではなく,ただただ音楽の与える力を浴びて,心が洗われたかのごとくであった。
ポールを肉眼で見て,生音を聞き,一緒にその空間を共有した。私にとって一生ものの体験であった。そして本当に次もまた日本のファンのために来てくれるのなら,今度はバックステージツアーから参戦してみたいと心から願ってやまないのである。音楽の不思議な,そしてポール・マッカートニーという人の偉大な力に酔いしれた一夜であった。
| 次号は,三州脇田丘病院の富永雅孝先生のご執筆です。(編集委員会) |

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