9月の末,午前中部屋で本を読んだり書きものをしたりしていた私は,外の空気を吸いたくなって道路端へ出た。ふと空を見上げると空には雲ひとつ無く埃も霧もなく,宇宙の果てまで見通せるように薄青く澄んでいた。
空は秋の季節が最も美しいと聞いていたが,こんなに綺麗な空は久し振りに見たと思った。小学生の頃,こんな空を見上げると,皆で「今日は,日本晴れだ」と叫んで,その日は何か良い事があると思ったものだった。
私は,高橋三千綱氏が30代で書かれた「九月の空」という小説で芥川賞を受賞された事を思い出した。小説であるから空の物理的・化学的評論ではないとは考えていた。
「九月の空」という単純な題名で,小説家はどのような文章を書くものだろうか,読んでみたくなった。街へ下りて大きな本屋を二軒尋ねた。両社共「その本絶版です。」と言った。県立図書館になら置いてあるだろうと考えてそこへ行ったら置いてあった。それを借りて帰ったが,21日間の貸し出し期間だと言われたのに,もうとっくに期日は過ぎている。でも下まで下りていくのが面倒でいまだ手元に置いてある。
「九月の空」は小説だから,主人公を立て,その人の人生模様を描いてあるのだろうと思った。
主人公・小林 勇は高校生で部活は剣道部に加入している。毎日放課後体育館で練習しているが,その姿を体育館の入口に立ってじっと見詰めている女生徒がいた。ある日その女生徒が練習中の小林の所へ近づいてきた。
「私,一年生の松山ですが,私を剣道部に入れてください。」と小林へ言った。
「女生徒は今はいないんだ。以前二人程いたけどね。剣道って思ったより体力を要する武術だぜ。女生徒には無理だと思うよ。」と勇は答えた。しかし翌日松山は剣道道具一式をそろえて放課後体育館へやってきた。勇の近くに座ると,勇が道具を着けるのを見ながら,その通りにした。剣道着は女子の衣替えの部屋で着替えてきていた。勇は手伝ってやるべきかどうか迷っていた。その時,上級生の布施がやってきた。
「おや,女生徒が入部するのか。俺が面倒みてやろう。」勇はその言葉を聞いてほっとした。自分は面倒見切れないと思っていたからだ。松山は翌日からも続けて練習にきた。勇の傍で熱心に稽古する。女性剣士の姿は格好よく艶やかで勇ましくもある。勇の横で練習できるのが松山にとっては楽しく嬉しいもののようである。
私は芥川賞が発表され文藝春秋という雑誌に載ると一応目を通す。しかし芥川賞の作品は純文学で私のような素人には難解で,面白いとか楽しいとか思って読んだことはほとんどない。
プロの小説家がその小説から受ける感銘と私のような素人が感じる楽しさとは異質のものといつも感じる。
「九月の空」という題名だが,空に関する事象は全く触れていない。「空」の文字がひとつだけ書いてあるが,それも自然の空について使ったものではない。勇と松山を包む環境・心境が九月の空のように明るく澄んでいて,無限に広がっている生活を描いたものと思った。
その二人の生活は,相手を信頼し,相手の心情を読み取り得る心境に達しているものと推測できよう。恋ではない。友人愛だ。
作者は,清らかな澄みきった思いやりに満ちた人間像を書きたかったのだろう。一年中で最も美しく無限に広がる大空を借りて人類愛を説こうと考えたのだろう。人々に対する思いやり・優しさ・奉仕を自分なりに果たそうと心掛けた生き方を続けていくと決意して毎日を送っている人だろうと思われる。
勇の県では,秋に剣道部のトーナメント式試合が行われる。7人一組の出場で,勇の高校も毎年参加している。今年は勇も選手に選ばれた。勇は試合場で大学生を相手に猛練習をした。その甲斐あって準決勝まで進んだ。
決勝の相手校は優勝常連のT大学付属高校だ。決勝戦が始まった。勇は副将だ。正座して,いつも使っている手ぬぐいを頭に巻き始めた。その時松山が勇に寄ってきて「その手ぬぐいやめて,私のこの手ぬぐい使って」と真新しい手ぬぐいを差し出した。勇は松山に言われる通りにした。勇は6人目の副将,布施が大将だ。既に5人終わった勇のチームは2対3で負けている。勇と布施が勝たなければ優勝はない。剣道は三本勝負で,先に二本取った方が勝ちだ。
勇は心を落ち着けて立った。最初の一本は勇が面を決めた。二本目,相手に胴を取られた。もう打たれたら駄目だ。自分と布施とで優勝を決めたかった。延長戦にはもちこみたくなかった。三本目,勇の小手が決まった。あとは大将の布施の出来だ。
布施は厳しい顔で相手に面していた。防具の中の眼が光っていた。勇は祈る気持ちで試合を凝視した。布施はさすがに先輩だった。立て続けに面を決めた。勇の高校が初めての優勝を勝ち得た瞬間だった。松山の新しい手ぬぐいが優勝をもたらしたと勇は感謝した。
空を見上げることは普段はあまりない。翌日が運動会だ,遠足だ,旅行に出掛けるのだというような前日,明日の天気が気になって眺めたようだ。
昭和26年3月,人吉高校を卒業した。家計の都合で,すぐ大学へ進学とはいかなかった。その頃は今以上に就職難で,私を待っていたのは行商だった。満州引き揚げの父に職がなかったように。
4月初め,あまり気のりしない小学校代用教員の試験を受けてはおいた。他人(ヒト)に教えるという仕事には自信がなかったからだ。行商は働く時間も収入も不安定で,大学進学の準備には全くならなかった。3月,4月と職が決まっていない級友はほかにもいた。
5月初め,代用教員採用の面接があった。250人程の受験者から50人くらいが呼ばれていた。その日人高生の仲間が,5人くらい採用が決まった。私はその日は決まらなかった。肺病の既往がまた邪魔したと考えた。7月,高校の就職係の先生のご尽力で,女先生が結婚のため急に退職された小学校に採用されることになった。球磨川の水源がある人吉盆地の東の果てで水上村という熊本県で2番目に広い村であった。小学校が4校ある山村だ。しかし,私が赴任する岩野小学校は,村の入口を占める岩野地区で最も人吉市(西方向)に近く,平地だった。村役場の村長・助役・収入役,3者岩野地区の方々だった。岩野地区には交番・郵便局,お寺,神社,焼酎製造工場2つ,内科クリニック2つ,農協,床屋,魚屋などがあったが,ほとんどは農家で,米を作り,その収入も生活内容もなべて均一でほぼ生活は良好であった。
8年間を岩野小学校に勤め,昭和34年免田町立免田小学校に転勤となった。人吉市の自宅から汽車で30分。小学校を中心に商店が立ち並び岩野に比して賑やかであった。商店街を取り巻くように農家が散在していた。私はそこで,6年生,3年生,4年生と一年ずつ担任したが,4年生を担任している時,最も遠い家から通学してくる女の子がいた。背が高く痩せ気味だった。生活保護がある今なら,生活保護を受けられると思うが,当時は教科代・給食代・学用品代を町役場が負担してくれた。学校行事の遠足,運動会など,行事そのものも楽しいが,特別に母親が作ってくれるお昼のお弁当が,より楽しいものであった。家族や級友とおしゃべりしながら食べる弁当。私も小学生の時代が甦ってくる。
私は運動会の前日の昼休み,その子をそっと職員室へ呼んだ。10月初めで9月の空の青さがいまだ残っている。
「明日の運動会のあなたのお弁当は先生が持ってきてあげるから,あなたは持ってこなくていいから。」「明日の朝,先生が職員室へ着いた頃そっといらっしゃい。」と言った。
私はその日家へ帰り着くと母へ頼んだ。「巻き寿司一本作っておいてね。卵焼きも少し入れといて。小ミカンでいいから2個。」「明日運動会なので4年生の女の子にあげるのだよ。」「私の弁当はいつもの弁当でいいから。」
翌日朝,女の子は職員室へ来てくれた。私は周りの教員にも分からぬように新聞の包みを女の子に渡した。
「これにお昼のお弁当が包んであるから。遠慮なく食べなさい。誰かに聞かれたら『近所のおばさんにもらった。』と言っておきなさい。」と私は話した。「飲み物は学校の水道の水で我慢してね。」
10歳と30歳。私の気持ちが伝わっただろうか。弁当を喜んで,楽しんで食べてくれただろうか。そうだっただろうという自己満足だったかもしれない。翌年,昭和37年4月,私が鹿大に入学したので,そこでこの子との絆は終わった。
この子は思春期を,青春期を楽しく豊かに過ごしたであろうか。壮年期,中年期をどこでどのように暮らしたのか。もう60代を迎えているはずだ。
本人の努力と周りの人々の思いやりとで,人並みの生活を送っていて欲しいと祈る心で思い出す。名前はでてこない。面影が,かすかに浮かぶ。
「九月の空」という小説で作者は何を言いたかったのか。「友情」だろうか。友情=愛だろう。
この本を読み終わって,また別のことも思い浮かべた。
@小学生時代,8月球磨川に泳ぎに行っていて,夕立がくると大木の下にかくれた。川でパンツは,体は濡れているのに,帰りのパンツとシャツが濡れないようにと気遣ったのだ。
A女の子の姿を全く見なかった。プールは無い時代だ。女の子は泳ぐ場所を遠くへ見付けたのだろうか。脱衣場も無い時代だ。
B米国が原爆を落とす月を9月にしていたら,長崎の市民は原爆の被害を受けなかった。8月,小倉に落とすつもりでやってきたが,雲で目標が見えず長崎へ変えたのだそうだ。原爆を落とされる前に日本の指導者達が終戦を受け入れておけばよかったのだ。
長崎はキリスト教会の多い街だ。米国人はキリスト教信者が多いはずだ。
人間の一生には「運命」というものが付きまとう。運命は一生不変のものではなく,変えていけるものだそうだ。作者は,この本の中で,その答えを書いているかもしれぬ。今一度読み返して,その答えを見付けるのが私に残された課題だろう。(了)

|