昭和26年12月約60年前,その頃はまだえびの高原の名は全く知られていなかった。ただ旅行案内書に小さく耳慣れない「国民宿舎」という記事を見掛けた私はつい思い立って,えびのに出掛けることにした。えびのに行くには昭和33年頃に林田からと小林からの立派な自動車道が開通するまでは京町からの小さな原生林そのままの山道だけだった。今から考えるとどうしてこんな山奥に行こうという気になったのだろうかと不思議に思う。
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| えびの近郊略図 |
とにかく,京町からの山道をおんぼろバスが登って行く。乗客は家内と二人きり,バスはヤマトタケルノミコトを祭ってある歴史ある白鳥神社を過ぎる。ここの神杉が霧島の山を越え加治木の港から海を渡って奈良の都に到着,東大寺建立に献納されたと言う。バスは深山に潜む白鳥温泉で休憩,ここは征韓論に敗れた西郷隆盛が暫く湯治したことがあるそうだ。木肌に累々と瘤の隆起した巨木の間を紆余曲折しながらさらに険しい山道を登る。時折見返ると京町の盆地を通して北側に熊本県の九州脊梁の山波が雄大だった。
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写真 韓国岳頂上にて
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夕暮れになってやっとの思いで,えびの国民宿舎に到着。当時の宿舎は現在のものより1キロぐらい下った山間にあり,巨大なスギ,タブ,モミの密林に囲まれたとても小さい建物だった。宿舎が一棟で本館は50メートルぐらい離れた所にある。部屋数は10ぐらいあっただろうか。湯船は一つ。誠に寂しい所だった。
バスは帰ってしまった。その日泊まったのは我々だけ。朝になると女中が炭火を持って来て火鉢に入れて,食事も運んでくれた。誠に珍しい情景だった。
翌日天気もよかったし散歩という軽い気持ちで宿舎を出掛けた。60年前のえびのはただススキの繁る原野で僅かな獣道を辿るばかりだった。エビノの語源はススキの穂先が風に揺れる姿が海老の色に見えるからだと言う。かえってこんな神秘的な光景が好きな我々は興の乗るまま広い原野をトレッキング気分で歩き回った。当ても無く歩くうちにいつの間にか韓国の頂上に来ていた。全くの普段着姿だ(写真)。誠に乱暴な事だった。しかし天気はいいしはるばると桜島や大隅半島の連山を見下ろし,錦江湾,薩摩半島を越えて遥かに開聞岳(薩摩富士)がくっきりと見えてまさに天下の絶景,誠に壮大な気分になった。私は学生時代,紀元節の日に高千穂峰に登ったことがある。その時無限に広がる雲海の遥か彼方にポツンと赤く際立つ薩摩富士を見て大いに感激したことがある。その事を思い出して感慨無量だった。
スッカリいい気分になって,下山したが,えびのに来たとき未だ日は高かったので火山湖として有名な不動池から六観音御池,そして白紫池を回る。ミズナラ,アカマツなどの針葉樹林に囲まれ,静かな神秘的な池だ。その雰囲気から私は学生時代ドイツ語の時間に「一人の老人が山奥の湖の別荘の窓辺に静かに佇んで昔の恋人の思い出に耽る」という年寄りの呟きの物語を習った事を思い出した。また別に昭和16年頃に群馬榛名湖を背景にした高峰三枝子の「湖畔の宿」の歌が大流行し,「山の静かな湖に・・・」と学生時代に好んで歌った事を思い出した。えびのの湖畔で澄み切った青空を眺めながらしばし野鳥の森の休憩を楽しんだ。時に野生の鹿が啼く声も聞いた。我々はまだ若かったのだ。懐かしい。
さて帰ろうと下山してみるとその途中,営林署の担当区の近くで国民宿舎から我々を心配して提灯を下げて探しに来てくれた人々に出会った。もうそんなに遅くなっていたのか気付かなかった。そして宿の人には心配掛けて申し訳ないことだった。
すっかり疲れたので温泉で温まり,翌朝目覚めると知らぬ間に周囲は真っ白な銀世界,驚いてしまった。ようこそ昨日は無事に帰れたものだとひやりとする。それから1週間,全く閉じこもりの生活が始まったのだ。
朝早く,本館から女中が庭の雪に二の字二の字の足跡を残して炭火と食事を運んでくれる。毎朝の事だ。それっきり一日中顔を見せない。今考えると不思議な情景だった。ほかに宿泊者はいない。勿論部屋に暖房はない。火鉢を抱いて炬燵に脚を突っ込んで一日することが無い。テレビもラジオもない。一晩泊まりの予定だったのでラジオなど持ってこなかった。もちろんテレビなど無い時代だった。トランプ,花札など遊び道具も持って来なかった。物音一つしない。誠に静かな一日で針一本落ちても聞こえる程というのも難儀なものだった。不思議な事にこの宿には電話が無い。丁度故障だったのか? 雪の山道を1キロ離れた営林署の担当区までこの雪道を電話を借りに行かねばならないという始末。この雪道では帰りのバスもとても見込めない。家との連絡もできない。こんな国民宿舎がよく許可できたものだ。携帯だスマホだと溢れる今の時代に想像もできない事態だった。
裏窓からは亭々と聳える杉の大木が密生している。やっと日が暮れる。えびの原野のそこかしこに温泉がシューッ,シューッと自噴する音と湯煙の柱が見える。全くの静寂そのものだ。丁度満月の夜だった。非常に大きなまんまるい精白の塊みたいな月が深々と,しかも静かに昇ってゆく。山の空気が無垢なだけに月の澄み切った美しさは例えようがなかった。下界ではとても考えられない神々しさだった。私は小学生の頃受け持ちの先生にベートーヴェンの「月光の曲」の由来を習い教室に持ち込んだ蓄音器で音を聴かせてもらった事を懐かしく思い出した。
家との連絡も全くできないまま日数が過ぎた。さすがに家のことが気になる。ある朝,静かな朝の空気を震わせてやっと山道を喘ぎ喘ぎバスが登って来るエンジンの音が聞こえた。これで帰れる。本当にほっとした。傍目もなく嬉しかった。
近年再びえびのを訪れてみた。すべてががらりと変わっている。小さかった国民宿舎は広い所に大きく移っていた。高原ホテルもできていた。ススキの原野はバス停や土産品店,ビジターセンターなどが立ち並び大規模の管理棟まである。観光客がザワザワと歩き回ってまるで都会並みだった。その際は私一人の旅だったのも今昔の感に堪えなかった。韓国岳頂上まで同道した家内は今では,物の言えない,流動食だけの人間になって10年になっている。当時の事を考えると,若いうちは乱暴な事をしたものだ「若気の至りだった」とつくづく思っている。

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