横行なタイトルになったが,妹が幼い時から私が面倒を見たということではない。ある事をきっかけに高校生になっていた妹の世話をすることになったのだ。
戦後,引揚者に旧飛行場跡の土地を国が貸した。中学5年の私と女学校2年の妹とクワを担いで学校が終わった3時から5km歩いて日暮れまで開墾した。8月やっと終わったが私は肺結核になり2年間休学した。昭和26年高校を卒業したが,なかなか就職できない。就職係のH先生のご尽力で7月山村の小学校の代用教員になれた。8月初め,下宿のおばさんが「葉書が来ていますよ」と持ってきた。父からで,「R子が家出した。そちらへ来ていないか」と。来ていないが事情を知るため翌日自転車で人吉へ走った。幸い姉1人がいた。R子が家庭教師に行っている時,父が本棚を漁り,R子の日記を見つけ,「高校を出たら私は家にいない」とR子が書いているのを読み,ひどく怒り「殺してやる」とナタを持って部屋で待っていた。姉は共同井戸で米を洗いながら妹を待った。道に妹の姿が見えたのですぐ道へ出て「すぐ友人の所へ逃げなさい。家に入ったら殺される」と言って逃がしたのだそうだ。
私は大体の友人の家の場所を聞いて,その足で友人の家へ走った。父はその方面へは行商に行かないのが幸いだった。「H先生に相談してくるから暫くここにお世話になっていなさい。悪いようにはしないから」と妹に言って私はH先生のお寺へ行った。自転車で20分。夏休みで先生は家にいらした。私の話を聞いて「君の所へ連れて行きなさい。学校も移しなさい。必要な手続きは全部自分がするから君は何もしなくてよい。9月から新しい学校へ行かせなさい」と言ってくださった。私はR子の所へ帰り,H先生のおっしゃった事を伝え「2人で住む部屋を見つけに下宿へ行ってくるからあと2〜3日お世話になっていなさい」とI部落へ帰った。私は下宿のおばさんに,「妹と2人で生活する事になったから部屋を探してください」と頼んだ。おばさんはある程度感じていたのか,3時間ぐらい経つと,「いいところがありましたよ」と帰って来られた。
妹を人吉駅で汽車に乗せ,「途中まで頭を上げなさんな。父に見つかるといけないから。終点の湯前駅で待っていなさい。私は自転車で来るから2.5時間くらいかかるから」と言って送った。
R子は自転車に乗れない。住まいから裏道を通って学校まで40分かかる。住まいの上に村が造ったグラウンドがあるがほとんど使われていない。残り20日間で猛訓練して何とか乗れるようになった。それでも最初の1カ月で2人の若い男性の自転車にぶつかって,相手のガラス瓶を数本割ったそうだ。でも相手は許してくれたそうだ。
R子は父からかなりDVを受けていたと思われる。男性不信が強く一生結婚しないだろう。一人で人並に生活し,定年後それなりの年金が貰えるようにしてやらねばならない。国家資格を持っていた方が良い。そしたら看護師だ。その頃は高看の学校は少なかった。福岡県2校,熊本県2校,いずれも国公立を受けるように勧めた。これらは自分の小遣い2〜3千円あれば他は不要。熊本市には母の弟が家庭を持っているので宿を甘える手紙を出した。福岡市は無いと思っていたら,台湾から引き揚げてきた田中さんが「叔母が住んでいるから西橋さんも一緒に泊まろう」と言ってくれたそうだ。2人とも九大が第一志望だ。試験3日後,合否発表があるのでそれを確かめて,合格なら電報を打つと妹は言っていたが,3日目夜になっても電報がこない。4日目,しょんぼりして帰ってきた。他の3校は合格通知がきていた。「熊大にしようね」と言って入学届を出した。それから一週間後九大から手紙が来て(胸写を大角で撮ってみたい。よかったら出てきなさい。)とある。「どうしよう」と妹は旅費を心配している。「九大が第一志望だろう。行っといで」と旅費を渡した。大角では瘢痕と分かり「よかったら入学してよい」と言われたと。それで九大へ入学することにして福岡市へ発った。そしたら落ちた田中さんも来ていたと。補欠入学になったそうだ。
それから2週間後,人吉のH先生から「西橋,熊大が怒って,もう人高生は今後採らぬと言ってきた。『イサイフミ』と電報を打って詫びの手紙を出しておけ」と電話があった。私は教えられた通りにした。詫びて今後も人高生をよろしくと書いた。後年,熊大に入学した学生と妹は同じ職場で働く機会があり,「貴女が西橋さんなのね。貴女が熊大で一番で,私が二番で部屋も隣同士だったのよ」と教えたそうだ。
卒後の就職先について妹から相談があった。「九大に残るか,成績の良い人は別府温泉研究所,東京日赤と3カ所あるの」とのこと。「東京日赤にしなさい。若いうちは東京で勉強しなさい。職・宿・食事・給与が保証されて東京へ出られるのだからこんな幸福なことはない。自分で出掛けて行ってこれをするのは大変な苦労だよ」妹は私の勧め通り東京へ出た。
高看時代最も仲良くしてもらったMさん,この女(ヒト)は門司高から一浪で入学したらしいが,聖路加Hosp.へ勤めた。門司高でMさんと同級生だったTさんが,広大国文科を出てお兄さんが部長をしている東京の大手教科書会社の国語部で働いていた。この女(ヒト)はプロの詩人が教科書に載せるため出した詩でも添削する程の実力者であったらしい。ある日MさんがTさんを妹に紹介してくれたそうだ。
Tさんは今までMさんと仲良く付き合っていたが,妹と数回会ううちに妹と意気投合し,やがて2人で共同生活をするようになった。
かの田中嬢はどうなったか。彼女は九大に残れた。精神科のナースとして働いていた時,その科のある先生に見染められて結婚した。その先生は他の国立大学医学部の同科の教授にまでなられたそうだ。
妹はナースとして働いていて,ナースは先生の小使いに過ぎないと感じだしたそうだ。4年目,夜間の予備校へ通い,翌春お茶大へ合格した。お茶大で教養2年を学び,東北大医学部へ入学した。東京から仙台へは通学できないので寮へ入ったが,Tさんが寂しがるので長い休みは東京へ帰ってアルバイトをしたそうだ。東北大で専門4年を学ぶと,インターンは慶應大学病院で受けた。昭和39年のことだ。私は遅ればせながら鹿大教養2年になっていた。秋の試験休みの時,妹から手紙がきた。(インターンの教室へ行く途中,構内で急にバックしてきた軽トラに倒され左下腿を骨折し同病院へ入院中)と。私は補償等ちゃんとしてもらったか,怪我の程度はどうか等気になって,上京することにした。急行の座り座席。新幹線は無い時代。何時間かかったのだったか。妹とTさんは中野に一階,二階と借りていたし,食事はTさんが作ってくれたので助かった。骨折は複雑ではなく治りは良いと言われたそうだ。私は初めての上京で32歳だった。妹は見舞いを喜んだ。他の姉弟は来ないと言った。彼等は休みが取れないし旅費も都合つかぬのだから許してあげなさいと話した。
妹はインターンを終わり,東大の精神科に入局し両国の公的総合病院の精神科へ派遣され定年まで務めた。マンションを千葉県船橋に買った。2人で。
話が前後するが,小学校代用教員の採用試験は,昭和26年4月上旬,私が卒業した人吉市の東小学校の講堂で,ペーパーテストで行われた。私を含む人吉高校生(人高生)が30人くらい,球磨農業高校,多良木高校から各10人くらい,それに大人の人も多く来ていた。大人の人は引揚者か再就職したい人達だろうと考えた。全員で200人近い。
5月10日,同講堂で午前10時から面接を行うので,採用を希望するなら出席するようにという通知を5月初めもらった。私は教員をするのは余り好みではなかったが,学校が推薦してくださった8つの職業も面接で落とされ,魚の行商をしていたので,行商では大学へ行く金も貯まらぬし,勉強の時間もないので面接を受けることにした。約50人が参加していた。大人の人は少なかった。私より早く面接を受けた人高生のうち5人くらいが「5月1日付で△△小学校に採用すると言われた」と喜んで面接室から出てきた。私には「今日来てもらったからと言って必ず採用になるとは限りません」とおっしゃった。だめか,一生行商かと思いながら行商を続けた。身体が余り強くない私は,生きているより死んだ方が楽だろうとさえ考えた。
7月初め,高3になった妹を通じて「夜8時頃私の家へ来い」とH先生から伝言があった。何事かと思って自転車で行った。球磨川を渡って約20分。「西橋,君は中学校の英語か数学の教員を希望していたが,中学校は今,空きがない。球磨川上流の水上村の岩野小学校の女の先生が結婚のため急に退やめられたので,教頭さんが,西橋をくれと私に電話がきたのでOKしたぞ」とおっしゃった。私はありがたかった。嬉しかった。「一学期も残り少ないので一日でも早く行けよ」と言ってくださった。
7月10日私は布団袋と柳行李を母と持って終点湯前駅まで行きバスに乗り換えて小学校へ行った。私の下宿は人高生の先輩で同僚となる方と,同じ村の助役さんの二階での同居であった。
そこへ,妹が家を逃げることになったので,1カ月で下宿を出た。私の初任給は4,750円でそれから所得税,健康保険料,厚生年金など引かれると手取り4,000円,下宿代が月3,000円,私は酒も煙草も遊びもしないので何とかやっていけるし,年2回400円ぐらい昇給し,ボーナスもでる。しかしそれは来年からだ。
昭和26年は未だ米は配給制度で,転居する時は役場の証明証が要る。しかし妹は着のみ着のままで逃げたのだ。証明証などもらったら父に行き先が分かるかもしれぬ。水上村は山村だが岩野地区は平地で農家も多い。それに,私が初めて担任させられた2年生に米屋の男の子がいて,私がそのお店へ行って妹は米の通帳を持たないのだがと話すと,岩野はサラリーマンが少ないので米は余るくらいですよ。欲しいだけ買ってくださいと言ってくださった。
妹が高看に入っても,外出を白衣でする訳にはいかぬだろう。安物でも外出用の服の2枚くらい,下着の2〜3枚,男に分からぬ物も要るだろう。(腹が減っては戦はできぬ)と言う。米飯にゴマ塩や梅干をそえて米を腹一杯食べればよいのだ。来年(昭和27年)3月までの辛抱ではないか。私は人吉へ帰った時,高校の同級生が,その兄達とやっている食品店に行って,コンブの佃煮と小魚の佃煮とを一箱ずつ,卸値で売ってもらった。「あと8カ月の辛抱だ。おかずは2種だが,米飯はいくらでもあるから腹を空かさないようにして勉強しなさい」と妹に言った。風呂は2軒隣に,これも私が担任している2年生の女の子がいる家に,一日おきに入れてもらいに行った。
昭和27年3月,先に書いたように,妹は九大の高看へ進学した。それを待っていたかのように教頭さんから「私の家へ下宿して中学生・高校生の家庭教師をして欲しい」と頼まれた。月3,000円の貯金は大きい。しかし10年間で貯めた金は,両親2人だけを借家のボロ家に残して大学へ行く訳にもいかず,地主が売りたいと言うので土地を買って,家は狭いけど両親が住むだけの間取りがあればよいと考え,6畳間2つ,4畳半1つ,台所,風呂,水洗トイレ,小さな物小屋,狭い玄関を原則とした設計図を設計士に描いてもらって建てることにした。大工の棟梁は従兄の知り合いに上手でいい人がいると聞いてその方にお願いした。
妹が高看に行った3年間,私は毎月3千円妹へ送った。妹が高看を卒業して東京で就職して,やっと私の番が回ってきた。私は小学校卒業するまで,父と顔を合わすと「お前は大学へ行くのだ」と言われていた。父は家が傾いて大学へ行けず,高専へ,それも叔母(父の妹)から学費を借りて出たらしい。高専卒業と大学卒業とでは,いろんな面で高専出は不利らしい。
サラリーマンという仕事から行商に変わった。父は子どもの将来について考える気力も体力も無くしたようだった。高校生になった長男の私は,自分が弟妹の今後の生き様について,アドバイスすべきだと思うようになった。
自分の大学進学は多少遅れてもよい。その気迫さえ持ち続ければ,必ず思いは実現する。私は3年間,妹へ小遣いを3千円送った。
私が5月の面接で代用教員に採用されなかったのは,肺結核の既往歴があったためである。昭和26年は未だ抗結核剤は日本にはなく,米軍のSM(ストレプトマイシン)をヤミで買って治す人もいた。しかしそれは1g6,000円で,60本打つ必要があったらしい。私の7人家族の1カ月の食事代が3,000円だったから,私などに手が出るものではなかった。私が5月採用されず7月採用されたのは,私が採用試験で一番の成績であったからだそうだ。二番以下では採用されていなかっただろう。金メダルを取った事が幸いした。試験問題も高2修了程度で,高校3年を卒業していた私には難しいものではなかった。ただ,地理で「流域」という言葉が出ていて,この意味が初めてで,川の長さのことではない筈だが,「利根川」と「信濃川」とどちらが広いかという問題に迷った。同期生の大半は大学進学し,コネで就職した人もいるので,代用教員になったのは6人くらいだった。岩野小に赴任してみると,農業高校卒が一人赴任していた。農校からの赴任はまれである。この人は一番で卒業したのだろうと思った。3年間岩野小で同勤したが,やはり人高生より学力は落ちると思った。別紙に書いたように,一人の米国人が小学校に顔を出し,私が授業を終わって職員室へ帰ると,教頭が「西橋先生,大石焼酎屋へ行ってくれんな。さっきの外国人が訪ねてきているが,これからどこへ行きたいのか,奥さんにはさっぱり分からんで困っているそうだから」と言われた。人高の先輩も,その農校卒の新人もいたが,教頭は私に命じた。
上の妹が東北大医学部の上学年になり,昭和36年人高を卒業した妹へも国立高看へ進学するようアドバイスし,私も大学進学の勉強を始めた。昭和26年人高を卒業し,8年経っていたので1からのやり直しであった。教科書だけの勉強では入試は解けない。旺文社の添削問題も受けた。28歳になってからの大学進学なので医者を目指した。末っ子の妹も現役では高看を落ち,新しく作った小さい家で2人とも勉強した。予定通り,私は鹿大へ合格できた。妹も一浪の末,国立大阪病院へ合格した。妹は高看を出て(3K)を避けて2年間大阪府立の保健学校へ行った。保健師は口が達者であればよい。
大阪府の保健所に勤めながら,私達の母の同級生の家族が長く住んだ人吉から大阪府へ転居し,そこへ遊びに行っているうちに2歳年上の青年と仲良くなり,結婚して大阪府で家庭を持った。
私はそこを足場として,京都,奈良,神戸等へ遊びに行くことができた。
私が20歳で高校を卒業した妹も70歳近くなって私の良い話し相手になってくれる。
次は伊勢神宮へお参りに行こうと話している。伊勢神宮には,日本を1つにまとめ,国として発足させた天照大御神が祭ってある。
(続く)

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