=== 随筆・その他 ===

若きウイリアム・ウイリスの足跡散歩
−グラスゴー・エデインバラ・ロンドン−

西区・武岡支部
松下 敏夫

 今年(2013)は薩英戦争から150年に当たり,これを記念した鹿児島日英協会主催の英国旅行が行われた。私は,これとは別に,気心の知れた友人夫妻と,来日前の若きウイリアム・ウイリス(William Willis,1837-1894)の英国での足跡などを訪ねる旅を計画した。時間的制約で訪問先は限られたので,ここでは,彼が学んだグラスゴー大学(University of Glasgow),エデインバラ大学(University of Edinburgh)及びロンドン・ミドルセックス病院(London Middlesex Hospital)に関して若干記してみたい。

ウイリアム・ウイリスの出生から来日まで
 ウイリスは,1837年,北アイルランド・ファマーナ州エニスキレン郊外の片田舎で生まれた。この頃の英国は,1760年〜1830年の産業革命を経て労働問題や環境衛生問題,社会不安などが深刻化し,エンゲルスの「イギリスにおける労働者階級の実態」の発表(1845),労働災害防止と雇用者の責任問題への初めての対策と評される「1844年工場法」や,大気汚染対策を含む「鉄道条項統合法」(1845),世界初の「公衆衛生法」(1848)の制定などが行われていた時代である。
 ウイリスは,産業革命により工業化が進み,当時,大英帝国第二の大都市と評されたグラスゴーへ移り,1855年,グラスゴー大学医学部に入学して,予科の課程(解剖学,博物学などを含む)を修了した。
 その後,エデインバラ大学医学部に入学し,最終学年の1858年にはエデインバラ・王立外科医学会会員にもなり,1859年5月に卒業して同大学の医学士の称号を取得した。
 卒業論文は,「潰瘍形成論“Theory of Ulceration”」であった。
 エデインバラ大学卒業後,1746年設立のロンドンで最も大きな医師養成病院の一つであるミドルセックス病院の医員となり,ここで外科と医学の実践的技術を修得し,ロンドン・王立内科医学会会員となり,ロンドン薬剤師協会からも免許を得た。
 ウイリスは,その後,1861年11月,江戸駐在英国公使館の補助官兼医官に発令され,翌年5月に長崎へ到着し,さらに横浜へ移動した。時に若干25歳であった。同年9月には生麦事件の負傷者の介護にも当たり,1863年の薩英戦争では,軍艦に乗船して従軍した。

グラスゴーとグラスゴー大学
 グラスゴーは,現在,人口約60万を擁するスコットランド最大の都市で,産業都市であるとともに,文化,芸術,若者の街として知られ,ロンドン,エデインバラに次いで英国第3の観光客を迎えている。
 グラスゴー大学は,1451年に設立された英国で4番目に古い大学で,蒸気機関発明家ジェームズ・ワット,国富論のアダム・スミス,滅菌法のジョゼフ・リスター,化学者・発明家のチャールズ・マッキントッシュなど歴史上重要な人物を輩出し,日本人では薬学者高峰譲吉,三菱財閥の岩崎隆弥などが名前を連ねている。
 この大学は,教会により神学の大学としてグラスゴー大聖堂に隣接して設立されたが,1460年,当時グラスゴー随一の繁華街であったハイ・ストリートへ移転した。しかし,産業革命後にこの地域はスラム化が進み,1870年に現在のウエストエンドの丘陵地の敷地へ再度移転した。従って,ウイリスが在学していた頃の大学は,スラム化が進んでいたハイ・ストリートにあったことになる。その跡地は,現在,国鉄が通るだけの更地になっているとのことであり,その場所を訪れて彼の学生時代に想いを馳せることは出来なかった。
 現在のグラスゴー大学は,人文科学,医学,獣医学,理工学,社会科学など多数の学部・学科を擁し,構内には博物館や美術館もあり,その中心には,1870年に新設された高い塔が聳えるゴシック様式の素晴らしい校舎(写真1)があり,その門扉には,アダム・スミス,ジョゼフ・リスターなどこの大学に所縁のある著名人の名前が刻まれていた(写真2)。

  
写真1 グラスゴー大学 写真2 グラスゴー大学門扉


エデインバラとエデインバラ大学
 エデインバラは,人口約47万のスコットランドの首都で,ロンドンに次ぐ多くの観光客で賑わい,旧市街と新市街の美しい町並みは,ユネスコの世界遺産に登録されている。
 エデインバラ大学は,1583年に設立されたスコットランドにある最高学府で,国富論のアダム・スミス,哲学者デイヴィッド・ヒューム,自然科学者チャールス・ダーウィン,発明家アレキサンダー・グラハム・ベル,医学者ジェームズ・シンプソン,ジョゼフ・リスター,詩人サー・ウォルター・スコット,作家アーサー・コナン・ドイル,ロバート・ルイス・ステイヴンソンなど著名人を輩出している。旧市街の19世紀前半に建設されたオールド・カレッジをはじめ多くの建物はこの大学の所有物であり,市内のあちらこちらに彼らに所縁のある建物や胸像・記念碑などを見ることが出来る。
 私が最初にこの大学を訪れたのは,1994年,鹿児島大学医学部教授会を中心にして行われた「英医ウイリアム・ウイリス没後100年記念顕彰事業」の一環として企画した「エデインバラ大学と英日協会との文化交流の旅」の機会であった。
 この時には,エデインバラ大学国際交流部長のトム・バロン教授のお世話で,故尾辻省悟鹿大名誉教授が詳細に紹介されたウイリスに関する資料(学籍簿や科目別履修年表など履修関係の種々の資料や卒業論文)が図書館に保存されていることや,履修関係資料から,彼の下宿先が大学近くのセント・パトリック街17番地(17 St. Patrick Square)に現存する建物(写真3)であったことなどを再確認した。素晴らしい装飾を擁する学内の建物やリスターなどの特別展示を見学しながら,ウイリスの学生時代にあれこれ想いを馳せたことであった。
 彼が在学していた頃のエデインバラ大学は,最高の外科医と評された外科学教授で医学部長のジェームズ・サイム,麻酔使用の開拓者で産科学教授のジェームズ・ヤング・シンプソン,サイムの助手で滅菌法の開拓者のジョゼフ・リスターなどが教鞭をとって活躍しており,ウイリスは,彼らの影響を受けて,来日中の様々な場での患者の手術や医学教育などの面で大きな成果を上げたものと思われる。
写真3 ウイリスの下宿の建物

写真4 エデインバラ・王立内科医学会

写真5 セント・トーマス病院


 ところで,今回訪問した時期は,折悪しく大学の卒業式シーズンで,予め訪問のアポイントをとっていなかった関係もあり,残念ながら大学への表敬訪問や,学内の見学は諦めざるを得なかった。
 代わりに,ガイドのウド・ミツコさんのお世話で,クイーン・ストリートにある17世紀創立のエデインバラ・王立内科医学会(Royal College of Physicians of Edinburgh,RCPE)を訪問することが出来た。1844年設立の素晴らしい建物の正面には,左側にギリシャ神話の医神アスクレピオス,中央上には健康の神ハイジエア,右側にはヒポクラテスの誓いを持つヒポクラテスの立像があった(写真4)。
 この組織は会員組織で,英国内科医学会の試験をめでたく修了した医師は会員になる資格があり,医師のための教育と専門的サポートを提供するほか,政府やその他の組織に対して健康や福祉・医学教育・公衆衛生に関する様々な助言を行っている。場所はエデインバラにあるが,7,700人の会員,フェロー,準会員,外郭団体の半数はスコットランド以外のもので,86カ国,55専門分野をカバーしているという。
 この建物は,内装・外装ともに18世紀のジョージ王朝時代の荘厳な様式をよく保存しており,メインホールや,スコットランドで最初に設立された医学図書館(1682年設立,Sir Robert Sibbald収集に因む「Sibbald図書館」),エデインバラ大学で最も高名な教授のウイリアム・カレン(William Cullen, 1710-1790)の部屋,階段などの壁面を飾る著名人の肖像画等々の見学では,参観者一同,目を見張り,感嘆の声を上げるばかりであった。
 ところで,この図書館の司書に調べてもらったが,ここにはウイリスに関する記録は何もなかった。彼がエデインバラ大学の最終学年で会員になったと記録されている1505年に創立されたエデインバラ・王立外科医学会(Royal College of Surgeons of Edinburgh)に関しては,時間的制約もあり,今回は訪れることは出来なかった。

ロンドン・ミドルセックス病院
 記録によると,この病院は有名な医師教育病院で,1745年,ロンドン中心街近くのフィッツロヴィア地区ウィンドミル・ストリートで開院した。しかし,1757年にはモーテイメル・ストリートへ移転し,2005年に閉院するまではここにあった。閉院後は,この病院のスタッフとサービスは,National Health Service Trusutのロンドン大学病院の関係部門へ移されたという。
 従って,ウイリスが在籍していた頃のこの病院は,モーテイメル・ストリートにあったことになる。いずれにせよ,現在はこの病院は存在しないので,私たちはその場所を訪ねて,彼の病院やロンドンでの生活のあれこれに想いをめぐらすことは出来なかった。
 そこで,代わりに,鹿児島医学校時代のウイリスに師事した高木兼寛が留学していたセント・トーマス病院(写真5)と,看護教育導入の重要性に関して示唆を得たナイチンゲールの博物館をカメラに収めた。

終わりに
 18歳から24歳の若きウイリスの来日前の足跡を管見してみた。彼が学んでいた時期の建物は,エデインバラ大学を除いて現存しなかった。しかし,彼の足跡の一端を訪れ,われわれのこの年齢頃の生活や喜怒哀楽などと重ね合わせ,誠に感慨深い旅であった。

≪参考資料≫
1.ヒュー・コータッツイ(中須賀哲朗訳).ある英人医師の幕末維新.東京:中央公論社,1985.
2.ウイリアム・ウイリス没後100年追悼特集号.鹿児島大学医学雑誌47巻補刷1,1995.
3.http://www.gla.ac.uk,, http://www.ed.ac.uk, from Wikipedia, the free encyclopedia:Middlesex Hospital.





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