日本で花と聞けば大方の日本人は桜を思い浮かべるだろう。日本の殆どの学校には桜の木が植えてあり,新一年生は桜の花のトンネルを潜り抜けて入学式場へ向かう。卒業生も桜に見送られて校門を出てそれぞれの道へ歩いて行く。
私が人吉に住んでいる時に見た花は,桜・梅・椿・菜の花・蓮華草・菫・木蓮・野菊・蒲公英まれに白百合ぐらいのものである。武士の家では椿を植えなかったそうだ。椿の花は割と長く枝で咲いているが,散る時は花の根っこからポトンと落ちる。その落ちた花が斬首に見えるので忌み嫌ったらしい。
人吉には花専門の店はなく,野菜店が花も置いていたり,雑貨店が野菜と花も置いているので花の種類は少なかった。
桜は芽吹くと次々に開いて満開となり,その美しさを誇示する。やがて2〜3週間すると花びらが一枚ずつ紙吹雪のように宙を舞って飛んでいく。林芙美子の「花の命は短くて…」である。そして,その有り様は日本人の心情,生きざまそのものと言われる。先の大戦で多勢の敵艦に特攻機で体当たりして戦ったのも日本人なるが故に出来たことで,他国の軍人には出来る事ではない。
諺に「花より団子」というのがある。私はこの意味を,花は美しく心を恵めてくれるが,腹を満たしてはくれぬ。空腹を満たしてくれるのは団子だ。生きていくには団子を選ぶべきだと解釈していた。「衣食住」と言うが「食衣住」が本当ではないかとも思った。南洋の土人は,たいした衣なくして元気に生きている。それは食があるからだ。
「花より団子」とは「名声より実利を尊ぶ心を表したもの」と或る本に説明してあるのを読んだのは後年であるが,私が考えていたことと大きい差はないと思った。
満州の石炭会社に転勤になって,単身赴任している父が,家族の満州転居の日の打ち合わせに昭和20年3月人吉へやって来た。7月社宅が完成するので,8月私達は転居する事に決まった。その時,私達は商店街にある元魚店をしていた造りの貸家を借りていた。日本の周りは米軍機と潜水艦で取り囲まれており,漁船といえど狙われ,魚が入って来ないので店をやめて田舎へ移ったらしい。
父は「こういう街中に住んで居たら米機に狙われやすいので郊外へ移りなさい。そうだKの家の一間を借りればよかろう。」と言って交渉に行ってOKを得て来た。Kは私の従兄である。Kの家は球磨川を渡り,人吉城跡の前を通り,暫く歩き,人家が疎らになり出した所にある。細い道路にK側は12〜13軒の家が並び後ろは球磨川の支流がすぐ傍を流れている。向かいは10軒ぐらい家が並び,裏には小さな森が連なって迫っていた。米機はこんな所には目もくれないから安全だからというのが父の考えであった。
3月中旬,私達は引っ越した。
4月私は中学3年生になった。と同時に市内の3年生男子は郊外の丘の横穴掘りの手伝いに動員された。日本兵として組み込まれた朝鮮の青年達が掘る横穴の土をモッコにのせて2人で湿地に捨てるのだ。秋に米軍は志布志湾,吹上浜に上陸すると軍部は考えて陣地を構築したのだ。
国民が期待した神風は遂に吹かなかった。8月15日天皇陛下の詔の放送によって大戦は終わった。敗戦であるが,明治時代二大国と戦って勝利した歴史を持つ日本人は,敗戦という言葉を口にせず,終戦と言った。戦争が終ったのだから終戦で良いのではないかと私も考えた。
敗戦と引き換えに我々は米国から自由を貰った。従兄の家の真向いの家に2級下の中学1年生がいた。戦前・戦中なら人前で歌うのは憚られる歌を家の前で唄い出した。よほど気に入った歌なのか毎日のように4度〜5度と唄った。聞こえてくる歌声で私も自然と覚えてしまった。
〔大阪兄きょう妹だい心中〕
(1)略
(2)兄は十郎で 妹はお清
お清姿を譬えてみれば
(3)立てば芍薬 座れば牡丹
歩く姿は 白百合の花
(4)兄の十郎が妹に惚れ
恋しい恋しが病となりぬ
(5)以下略
白百合は墓参りに行って,幾つかの他家のお墓に供えてあるのを見たことがあり知っていた。しかし,芍薬,牡丹という花の名は初めて聞いたし見たことも無かった。
私は日本の国花は菊と思っていた。それは旧日本海軍の軍艦の舳先には菊の御紋が着いていたからである。全ての軍需品は天皇陛下からの借り物であると軍部は考えていた。軍器の手入れ中,誰かが捻子一個失くしたならその小隊全員の責任として夜通し探さねばならなかったそうだ。日本の国花は桜であり,菊の御紋は天皇家の御紋だと後日知った。
時を経て第二内科胃カメラグループに入局した。昭和45年胃精検のため4人で沖永良部島に出張した。我々新人2人は先輩の助手である。同島は山も川もない平らな低い島である。そこで見た物が本物の白百合だった。すくっと70cmぐらいに真っすぐ伸びた茎の頂に純白の大きな花が未だ開かずについている。それは和服を着て背筋を伸ばして,しとやかに歩くお清の姿そのものだった。島の南端に小高い小さな丘があり米軍の通信基地になっていた。日本人は限られた人だけが入所を許されていた。我々が仕事のため借りた部屋の院長先生は,その中のお一人だった。4人を基地へ案内して下さった。酒保があった数人の米軍人が飲んだり食べたりしている。先生は片手の拳に塩をのせ,片手にバーボンの入ったグラスを持ち,バーボンを少し口に入れ塩を舐めるという飲み方を教えて下さった。
翌年福岡市で学会があった。学会が終わって箱崎宮へお参りに同僚と行った。私が4歳頃父は久留米市の製糖工場に勤めていた。正月の3社参りの一つに箱崎宮が入っていた。最後に海辺に近い箱崎宮に行ったのだが,丁度玉入れの行事が行われていた。褌一つの男衆が木で作った大きな玉を,我が手で社殿に運ぼうと争っている。熱気がむんむんとして周りからバケツで水を掛けるが直ぐ水蒸気になって水はなくなる。私は父の肩車で見ていたので最後まで良く見えた。私は同僚と歩きながら,その時の事を思い出していた。箱崎宮の傍らに九大の校舎があった。塀で囲まれていて中へは入れなかった。あんな勇壮な行事をするのだから箱崎宮には武の神様が祀ってあるのだろうと思いながら歩いていると,同僚が,近くに花園があるから見に行こうと言った。道路側はビニールが張ってあり,無断で中へ入れぬ。しかしビニールの切れ目で中の花が見えた。牡丹だ。高さ60cmぐらいの太めの茎にピンク色した花びらの重なる大きな花だ。若い女性が和服で背筋を伸ばして正座しているようだ。座れば牡丹の歌詞だ。
あとは芍薬だけ。これは本邦では北方に自生するらしい。一種の高山植物だ。それなら見る機会がなかなかないだろうと思っていたが,思ったより早くやって来た。8年位前だったろうか,私が小学校代用教員として初めて勤めた球磨川水源を含む水上村の岩野地区に住む中学校の先輩を久しぶりに訪ねることにした。この方からは本を読む楽しさ,物を書く面白さ,クラシックを聴く喜び等を教えてもらった。
先輩の家に着いてお茶を一服御馳走になっていると,「花を観に行こうか」と言われる。「ハイ」と答えながら何処に何の花が在るのだろうと考えた。8年間も勤めた学校だから広い村だが大体の事は耳に入っていた筈だ。先輩(Tさん)は自分の車を出してきた。球磨川を右手に見ながら上流へ向う。3km程で川は南と北に分かれ,道もそれに沿って左右へ分かれる。右へ行けばすぐ湯山という温泉部落へ入り宿もある。Tさんは左へ進んだ。行き着く先は古屋敷という部落。私はこちらへ行ったことはないが,人家も少なく平地も狭く林業が主業である。走る事1時間,細い道に入った。曲がりくねった道を20分。Tさんは車を停めた。歩いて20歩右に一区画の平らな土地があって20本程の木が立っている。「これだよ」とTさんが言われた。見上げるとピンクの大きな花が,首が重たいのか下向きに咲いている。芍薬だ。手を伸ばしても花に届かない。(立てば芍薬)だ。あでやかながら清楚な花である。東西から山は迫り,東側には谷川の流れの音がする。球磨川の水源が近いのだろう。標高何mか。300m近いだろう。冬は寒く夏は霧が立ちこめ寒冷地と同じような気温だろう。家は2〜3軒しか見えない。30人位の人が花を観に来ていた。誰に,この花の存在を何処で聞いて何処から見えたのか。車はTさんの車以外には一台しか見なかったが,どうやって来たのか。ツアーで,バスでやって来たのか。北方に咲くという芍薬を思ったより早く観られて私はTさんに感謝した。
岩野小時代,若手2人が新任で赴任して来た。
以前から一度登ってみたいと思っていた,人吉盆地を囲む山々で一番高い球磨川の水源をつくる1700m級の市房山に若手2人と,私が担任する5年生の男子3人とで或る年に春登山した。湯山の終点までバスで行きそこから歩いた。200mぐらい歩くと細い谷川がある。それが球磨川の水源だ。短い橋を渡るといよいよ登山道だ。橋の手前で2m程の細い木に小さいピンクの花がいっぱい咲いてるのを見た。その時は誰かが一本持ってきて植えたのかなと思った。大学に入局して霧島の労災病院に出張させられた時,高千穂河原に同じ花が広く咲きほこっているのを見た。ミヤマキリシマというつつじだと教えてもらった。そうしたらあの市房のつつじは霧島から仲間と共に風にのって球磨盆地へ飛んで来て,仲間は途中でダウンしたが,彼は運よく市房へ辿りついたのだろうと想像した。菅原道真の梅の木が京から大宰府まで飛んで来たという故事もあるので「花より団子」が「花も団子も」と思えるようになったのは50代になってからだった。

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