=== 随筆・その他 ===

日本の灯台あれこれ


中央区・中央支部
(鮫島病院)        鮫島  潤

 旅行が好きな私は主な用件を済ませるとその帰途,わざわざ交通不便な灯台を訪れて灯台守のよもやま話を聞くのを楽しみにしている【(灯台雑感:市医報,昭和47年8号),(怒涛を越えて:市医報,平成9年1号),(船旅の楽しさ:市医報,平成20年7号)】。
 私は小学生のとき灯台守の少女が難破船を救った話とか,または長い旅の末やっと辿りついたが灯台のレンズの明かりに衝突して死亡した渡り鳥の群れの話も聞いた。また若い頃,木下恵介監督のもと佐田啓二,高峰秀子主演の映画「喜びも悲しみも幾歳月」をみて感動したこともある。広い海原に向かってロラン,レーダー,人工衛星等を使い船舶の進路安全に重要な任務に励んでいる灯台守(海上保安庁,灯台局,灯台員)の姿は美しい。しかし,現在ではほとんど自動化して無人化されていると聞いている。
 そもそも灯台の起源を辿ると,2000年前ローマ王国時代には既にスペインに設置されて,ヘラクレスの塔として世界遺産になっている。しかも現存しているそうだ。日本では倭寇とか遣隋使の1000年昔から航路が広がってくると,初めは狼煙を上げて船人達の指標としていた。例えば,祇園之洲の琉球人松の灯明台のように大島方面の南西諸島から鹿児島に入港する船人の目標だったというし,現在の靖国神社の階段にある石灯籠も地方から江戸に入港する船頭達の目標だったという。明治になってペリー来航以来,捕鯨船や外国船が日本に集まるようになって,その要請により洋式灯台が各地に建設された(通商条約灯台)。灯台の建設工事に際しては,海面が明るくなるから魚が逃げると漁民達の反対運動があったそうだから,何時の世も民衆の反対の声は深刻だ。
 私も海路で九州から樺太まで日本列島一周を西回り東回りで2回ほど行ったことがあるが,灯台の明かりは太平洋側に数多く,日本海側には少ないように思われた。通行する船舶の多少によるのだろう。その遍歴の中から印象に残る幾つか思い出してみよう。

佐多岬灯台
写真 1 佐多岬灯台


 九州最南端の灯台で明治4年条約灯台として設置された(写真1)。光達距離39km。私が子どもの頃から故郷種子島への往復に佐多岬灯台の下をよく通過した。岬の直下,荒い波の中で黒潮の流れに沿って方向転換するに際し,頭上の灯台の明かりを船窓越しに見上げたものだ。ある大晦日の夜,陸路を通って佐多に向かった。夜明けに際し広い太平洋の向かい側に開聞岳が見え,北に霊峰霧島が聳える。灯台は車を降りて長いジャングルを抜けた岬の先に建っている。日の出が雄大で荘厳なお正月だった。

屋久島永田灯台
 本州から口永良部と屋久島の間を抜けて,遠く南方に向かう船舶に重要な役割を持っている灯台だ。光達距離40km。屋久島一周の西部林道に添って白く映えている。海亀産卵の名所として有名な永田いなか浜の近くだ。私が屋久島の営林署に勤めていた頃,巨大な屋久杉を積んで鹿児島に向かう運搬船が台風などの風待ちをするのにこの灯台の近くに仮泊するものだった,懐かしく思い出す。

足摺岬灯台
写真 2 足摺岬灯台


 大正3年に設置,光達距離38km。鹿児島から東京への海路,空路で常に見掛ける灯台だ。ある年,高知,四万十川から陸路でここを訪れたことがある。南の島に特有な椿,ビロウ,蘇鉄などの熱帯樹林のトンネルを抜けて絶壁の突端に達する(写真2)。灯台の宿舎などもあるが,大分荒らされていて数奇な運命に寂しさを感じた。
 むしろ同じ場所にある四国八十八カ所霊場巡り,三十八番所の金剛福寺の池に備わる巨石銘石の壮大さに感じ入った。また寺の前にあるジョン(中濱)万次郎の大きな銅像が印象に残った。万次郎は漁の最中,台風にあい無人島に流されるなど数奇の運命の末,米国から帰国の途中,薩摩に護送され島津斉彬の信頼を受けて藩校の英語教師を務めたり,日本最初の蒸気汽船として運行丸を造船したり,幕末の薩摩藩での活躍が記憶に残る。

室戸岬灯台
 明治32年建設,日本を代表する第一級灯台。光達距離56km。広い高原に白亜の殿堂として際立っている。第二次大戦中,米軍のサイパンからのB29大編隊の阪神空襲の進路にあたり,昭和20年頃大戦末期,ラジオでまるで悲鳴を上げるように「空襲警報・・・!!敵機大編隊数十機,本土,阪神方面接近中」と叫び立てるアナウンサーの悲痛な声を思い出す。岬の灯台そのものもロッキード,グラマンの反復爆撃,機銃掃射,または艦砲射撃を受けていた。現在灯台のある場所は自衛隊のレーダー基地があり,船から双眼鏡で覗くと物々しい雰囲気だ。隣の足摺岬と並んでさまざまなことを思い出す。

潮岬灯台
 明治6年建設(条約灯台),光達距離36km。ペリーの日米条約の時に建設された。本土最南端に位置しており,日本に来襲する室戸台風(昭和9年9月),伊勢湾台風(昭和34年9月)が此処を通過して甚大な豪風被害を受けたことも記憶に生々しい。戦時中は足摺,室戸の灯台とともに米軍空襲の矢面に立って苦戦した灯台である。

観音埼灯台
 明治2年点灯,日本初の洋式の条約灯台。光達距離38km。戦前は帝都防衛のため日本で一番重要視された灯台である。戦時中は厳重な要塞地帯で立ち入り禁止だった。敗戦直後,どさくさ紛れに三浦半島から陸路伝いに険しい山道を辿って岬まで行ったことがある。
 第一砲台跡といって24p口径の大要塞砲が据えられていたし,地下に弾薬庫などもあった。散々荒れた姿は何とも切ない感じだった。この灯台のレンズの大きさと光源の小さいのには驚いた。
 灯台の階段の空気抜きに数羽の小雀が餌をねだって鳴いていた。職員の皆さんが,食糧難の時代に自分達の生活の二の次にこの小雀を大切に護っていた姿が誠に印象的だった。
 不運にもその日はスモッグが酷く,日本一船舶交通量の多い浦賀水道の船舶の姿を見ることができず,ただリズミカルな船舶のエンジンの響き,時折聞こえてくるむせび泣くような霧笛で霧の向こうの交通の多さを推定するのみであった。しかし心は満足して帰路についた。

犬吠埼灯台
 明治7年,日本初期の洋式灯台として完成している。光達距離36km。敗戦直後犬吠崎に行き灯台に登ったが,前方はアメリカ大陸まで届く太平洋の怒濤を見下ろし,後ろは無限に続く松林で何も遮るものはない。遥か彼方に筑波山が霞んで見えた。地球は大きいなあ,丸いなあ,日本は小さかったのだなあと大いに感心したのを覚えている。今では開発されて多分高層ホテルが連なっているだろう。

龍飛埼灯台
 昭和7年建設,光達距離44km。日本海側から空路函館への途中で青森上空を通過したが,石川さゆりの「津軽海峡冬景色」の歌にも表現されるような,猛烈な北風に吹かれて歯をむくような白波に喘ぐように,風に抵抗して飛ぶ渡り鳥の群れの壮烈な光景を見下ろしていた。遥かに北海道の山を望み,眼下には本土最北端の有名な青函トンネルの両方の入り口を見下ろす雄大な光景だった。

鹿児島南港(現 新港)の保存赤灯台
写真 3 赤灯台


 敗戦直後,私は進駐軍(米軍)の指揮により,城南小学校の引き揚げ援護局で検疫業務にあたっていた。ある日,すぐ近くの防波堤の突端の赤灯台まで行って休憩した。見渡すと街の方は焼け野原で,山形屋,高島屋を残すのみ。遠く西駅(現 中央駅)を歩く人々がそのまま丸見えだった。今まで連日の空襲で必死に逃げ惑っていた鹿児島は,嘘のように静寂の空間で,そして灼熱の夏だった。沖合には米軍の巡洋艦,駆逐艦数隻が威圧するように停泊していた。突然,軍艦のラウドスピーカーからジャズが流れてきた。しかもその曲が私の好きなグレン・ミラーの「真珠の首飾り」だったのだ。戦中,敵性音楽を聴くことは厳重に禁止だったが,私は隠れて聴いていたのだ。思わず涙しながらしみじみと敗戦を感じた。
現在,その赤灯台は鹿児島新港ウォーターフロントの芝生の中に昔ながらの真っ赤な姿で建っている(写真3)。70年前,敗戦直後の思い出だ。

 遠い岬の頂上に白亜の殿堂として立っている多くの灯台は,いずれも戦前,戦後を通じ日本の航海を護り続けていたのだ。特に戦時中は米軍の猛烈な空襲に晒されて満身創痍になりながら,日本の海を照らし続けたという思い出に浸りながら感無量の一時だった。

*映画(喜びも悲しみも幾年月)歌詞
 夫婦の愛情のこもった曲だ。
               木下恵介 監督
               佐田啓二・高峰秀子 主演
  1)俺ら岬の 灯台守は
   妻と二人で 沖行く船の
   無事を祈って 灯をかざす
   灯をかざす
  2)星を数えて 波の音きいて
   共に過ごした 幾歳月の
   よろこび悲しみ 目に浮かぶ
   目に浮かぶ



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