=== 新春随筆 ===
昭和ひと桁生まれの生きざま |
(昭和4年生)
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中央区・城山支部
(高見馬場リハビリテーション病院)
林 敏雄
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平成25年は巳年で私は7回目の年男となり,6月の誕生日を迎えると満84歳になる。毎年いただく年賀状にはその年の干支(えと)の図柄を入れたものが多く,色々面白いのがあって楽しい。
“巳午男に卯辰の女房”の言葉があり,巳年男は運に恵まれるといわれる。しかし昭和4年(1929年)己巳(きし)(つちのと・み)に生まれた我々戦中派は,時代の波に揉まれ,戦後生まれには想像も出来ないような波乱万丈の人生を送ってきたのが多い。
東京生まれで青山の青南小学校を卒業したが,6年生の時,太平洋戦争が勃発して腰を抜かさんばかりに驚いた。青南小のクラス会では,終戦時の東京大空襲で猛火の中を逃げ回り,明治神宮表参道には焼死体が山のように積まれていた,という話になることが多いが,その時私は東京にいなかったのでこの話には加われない。その代わり姫路で突然急降下してきたグラマン戦闘機にロケット弾を発射されて,死の恐怖を味わった話をする。
中学は難関といわれた東京府立一中(現・都立日比谷高校)に合格出来てよかった。この学校は一中・一高・東大のお決まりコースを目指すのが普通なのに,私は1年修了後,なんとしても戦争に勝たねばという思いから,陸軍幼年学校(陸幼)に進学したので型破りと思われた。全国で6つの陸幼のうち大阪に配属され,初めて親元を離れたのでホームシックにかかり悲しかった。学校は大阪・河内長野市の千代田台と呼ばれたところにあり,冬は眼前に聳える金剛山から寒風が吹き下ろし,2年半の将校生徒としての厳しい教育・訓練を受けて辛かった。
終戦の玉音放送は真夏の暑い日,運動場に集合して直立不動の姿勢で聞いたが,勝利を信じていたので凄いショックで,生徒達の心の動揺は激しかった。校長の大野少将は対策協議のため直ちに東京に飛び不在で,翌日,和歌山に上陸してくる米軍と戦闘になるかもしれない,という情報に驚いた校長代行の堀尾中佐は,生徒達を死なせてはならんと独断で生徒達に帰郷を命じた。1人東京に残っていた母は郷里の鹿児島に疎開していたので,失意に打ちひしがれたまま鹿児島に向かった。
途中広島駅で汽車を降ろされ,翌朝まで数人の同期生と野宿することになった。原爆投下後10日目の広島は見渡す限り焼野が原で,75年間は草木も生えないといわれた。駅前広場の盛土に寄りかかって寝ようとしたが,目が冴えて一睡も出来なかった。後に写真集「原爆をみつめる」(岩波書店1981年刊)に,ボロボロになった駅舎の前に防空壕の盛土が写っているのを発見して驚いた。黒い死の雨が降ったあとだし,残留放射能も相当あったと思うのだが,今日まで無事に生きられたのは有難いことだ。やっとの思いで鹿児島にたどり着くと,戦闘参加の件は誤報だったので直ちに帰校せよ,と電報がきていたのでほっとした。
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写真 1 原爆資料館より見た慰霊碑とドーム
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写真 2 原爆死没者慰霊碑
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平成24年の9月,広島県三原市の家内の両親の墓参りの帰り,久し振りに広島平和記念公園を訪ねた。丹下健三の設計で世界遺産の原爆ドーム,死没者慰霊碑,資料館が一直線に並び(写真1),白人の観光客も結構いるようで記念写真を撮ったりしていた。慰霊碑に参拝しながら,やはり気になるのは,「安らかに眠ってください,過ちは繰返しませぬから」の碑文だ(写真2)。東京裁判で唯一人日本無罪論を唱えたインドのパル判事は,原爆を落としたのはアメリカなのに,これほど愚かな言葉はないと酷評した。筆者の雑賀(さいか)忠義・広島大教授(英文学)は,省略された主語は“我々全人類は”のつもりだったと弁解しているが,それもやはりおかしいと思う。
資料館に向かって歩いていたら,大型のテレビカメラを担いだ広島テレビだという2人に呼び止められた。アメリカがまた核実験をしたらしいが,意見を聞かせて欲しいという。「核を保有している以上,その性能を確かめておくのは当然かもしれない。米英仏露中の5カ国以外は核保有してはならないというのは理不尽な話だ。核に対しては核しか抑止力がないので,中国や北朝鮮から3発目の原爆を落とされたくなければ,日本は原爆の悲惨さを知っている世界で唯一の被爆国であるから自ら核武装すべきだ。アメリカの核の傘に守られていると思うのは妄想に過ぎない。」というとビックリしていた。予想外のコメントで多分放映されなかったと思う。インタビューのあと資料館に寄り,数多い展示物を見て原爆の悲惨さを再認識して鹿児島に帰った。原子力の平和利用として日本は多数の原発を保有してきた。不幸にして福島原発事故で脱原発の方向に進んでいるが,使用済み核燃料にはプルトニウムが沢山残っている。技術的には核兵器製造は不可能でないという。
昔,非核三原則を唱えた佐藤栄作首相は,有事の際は沖縄に核持ち込みOKの密約をニクソン大統領と結んでいた。沖縄を取り返したのはよかったが,ウソを言ってノーベル平和賞を貰ったのはよくない。核廃絶の演説をしただけで,まだ実績がないのにオバマ大統領に平和賞が与えられたのもおかしい。ハル・ノートを突き付けられて日米開戦になったのに,ハル国務長官に平和賞が与えられているなど,兎角,平和賞には問題が多い。山中伸弥教授が医学・生理学賞を貰ったような場合は文句なしに大歓迎だ。
昭和21年,旧制七高に入学したが,鶴丸城祉の校舎は空襲で焼失しており,出水の航空隊跡の兵舎を改造して授業が始まった。寮生活は食べ物はなかったが最高に面白かった。2年生の時,鹿児島に復帰したが,卒業前に当時流行していた肺結核で倒れ,長期の療養生活に入った。まだストマイなど特効薬はなく,大気・安静・栄養療法が主で,唯一の人工気胸療法を始めたら胸水が大量に溜まってひどい目に遭った。食糧難で栄養は不十分で,ひたすら寝ることしか出来なかった。本を読みたかったが買う金は無く,専ら地図帳を眺めて世界中を空想旅行して時間を潰し,これが将来海外旅行を楽しむ切っ掛けになった。
時に再起不能かなという絶望感に襲われて悩んだが,10年に及ぶ辛抱強い療養で健康を取り戻し,国立に移管されて間がない鹿児島大医学部に進学出来た。卒業1年前に学生結婚したが,結婚式には担任教授の佐藤八郎先生が主賓で出席してくださり嬉しかった。家内は料理好きのグルメで,栄養管理がよかったのかほとんど病気をしなくなった。
卒業後は必然的に佐藤内科に入局し,ソテツ毒が非常に強い発がん性物質であるという研究で学位を頂き,国立鹿児島病院(現・鹿児島医療センター)に就職した。昭和62年に阿久根病院院長として転勤になったが,当時厚生大臣は小泉純一郎さんで,院長会議の挨拶ではポケットから小さな紙切れを出して,ちょこっと読みあげただけで消えたので,何か頼りなかった。しかし首相になったら北朝鮮に乗り込んで,拉致家族を5人取り戻した勇気には感服した。
全国に250程あった国立病院は統廃合や移譲で再編成して75減らすことになり,阿久根病院は出水郡医師会に経営移譲することになった。思いがけないことにトップバッターになったので職員組合の全国的猛反対を受けて苦しかったが,なんとかやり遂げた。その後は組合も諦めたのか抵抗もなく再編成がうまくいった。最後は指宿病院で定年を迎え,30年の公務員ドクター生活を無事終えることが出来た。移譲を受けた阿久根市民病院は,現在8階建ての素晴らしい病院となって活躍しているのは嬉しいことだ。
定年後は有難いことにクラスメートの大勝洋祐先生の病院や老健施設で仕事をさせて頂いて今日に至っている。連休などを利用して世界遺産めぐりと称して,念願だった海外旅行を,37年前のハワイ旅行から始まり昨年のハワイ旅行を最後に,5大陸43カ国を回ることが出来て満足している。アフリカ南端の希望峰で大西洋とインド洋を同時に眺めたり,南米アマゾンに昆虫採集に行ったことなど,思い出は尽きないが,つたない旅行記を鹿児島県及び市の医師会報に沢山載せて頂いて感謝している。
性格的に巳年生まれは一見柔和温順だが,反面剛毅の気性で,よく艱難に堪え,職業的には公務員や医療関係に向いているという。また好奇心旺盛で読書や旅行好きが多いという。これまでの人生を振り返って何か当たっているような気がする。
家内が「貴方は学校を色々変わっているようだけど,卒業したのは小学校と大学だけなのね」と言って冷やかす。しかしいい友達が沢山いて幸せだ。東京からは小学校のクラス会の案内が毎年くるが,いける時は出席している。陸幼は2年毎に東京と大阪と交代で同期会があったが,平成22年で終了した。平成25年の5月に入校70周年を記念して,現在は国立病院機構大阪南医療センターになっている母校近くのホテルで,同期会を開く予定になっている。2年半同じ釜の飯を食って,戦死した時は靖国で会おうと誓った仲なので絆は強い。しかし180人の同期生のうち,既に半数は鬼籍に入っている。旧制七高の同窓会は不定期に行われていたが,大先輩の佐藤八郎先生が一緒で楽しかった。平成12年秋に全国から旧制高校OBが集い,寮歌祭で開校100周年を祝ったのが最後になった。医学部クラス会は10月に福岡で行われたが,一次会が終わったら新幹線で鹿児島に帰る級友もおり,便利になったもんだ。平成26年は卒後50周年なので,鹿児島で盛大にやりたい。
長生きすれば3・11のように千年に一度という大震災に遭遇したりする。個人的には間もなく結婚後50年で金婚式を迎えるが,毎日仲良くケンカしながら,長くもったものだと思う。家内は丑年で巳年とは相性がいいのだそうだ。子供2人と孫5人に恵まれ,家内の内助の功には感謝している。楽しかったこと,苦しかったことなど色々あったが,“七転八起”の座右の銘のお蔭か,終わり良ければ全て良しで,なんとか合格点の貰える人生だった気がする。
12年前,市医報新年号に「21世紀を年男で迎えて」というのを書いたが,12年後,8回目の年男は残念ながら回ってきそうもない。自民党から政権交代した民主党は公約をほとんど果たすことが出来ず,野田佳彦首相は突然衆議院解散を宣言して12月16日総選挙が決まった。石原慎太郎都知事は「暴走老人の最後のご奉公だ」といって橋下 徹大阪市長が立ち上げた日本維新の会の代表となり,国政に参加することになった。自民党は阿倍晋三元首相が総裁に返り咲き,中国が露骨に尖閣を奪いにくるなど内憂外患が多い時に,大小12の政党が乱立して政局は混迷を極めている。総選挙直前なので誰が政権を担うのかわからないが,願わくばアメリカ占領軍が作った即製日本国憲法を改正して強い国防軍を作り,アメリカに頼らなくても自分で自分の国を守れる真の独立国になった日本を見てから,あの世に旅立ちたいものだと思っている。

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