=== 新春随筆 ===
明 石, 舞 子 の 浜 紀 行
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写真 1 平 敦盛と熊谷次郎直実
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写真 2 清盛塚
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写真 3 福原京史跡
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写真 4 楠木正成の墓
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写真 5 光圀の頌徳碑「嗚呼忠臣楠子之墓」
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写真 6 神戸事件(切腹の場)
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写真 7 勝 海舟の操練所
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写真 8 船上(飛鳥U号)から見上げる明石海峡大橋
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写真 9 明石海峡大橋
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写真 10 明石海峡大橋下の遊歩道
(舞子海上プロムナード)
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私は船の旅が好きでよく利用している。特に瀬戸内海は好きで明石海峡はもう5〜6回は通過している(鹿児島市医報 第47巻第7号2008年「船旅の楽しさ」)。私は中学時代に読んだ「島かと見れば岬なり,岬かと見れば島なり,一島未だ去らざるに,島更にあらわれ,水路きわまるが如くにして,また忽ちに開く,かくして島転じ海めぐりて,その尽くる所を知らず」の名文句を忘れない。瀬戸内海を夜間航海すると,行く手の島々の灯台の青色・赤色の点滅を眺めた景色は一段の趣がある。この美しさは日本三景に数えられ,世界においても海上の一大公園と賞賛されている。舞子の浜は六甲の山並みを背景にした白砂青松(はくしゃせいしょう),磯馴れ松の並びが美しい。その姿が踊りを舞う舞子の姿に似るということで「舞子の浜」と名付けられたという。淡路島に渡る明石海峡大橋を大型客船で静かに潜るのは気持ちのよいものだった。かねてこの美しい景色を逆に陸上から眺めてみたいと思っていた。
今回神戸に行く機会があり念願の須磨,明石の散歩を試みた。
舞子の浜にはまず菅原道真が大宰府左遷の時,舞子の浜に休憩したとして現在天満宮がある。
舞子の浜は千年の昔,奈良時代に万葉集にも詠われている。現在の垂水(たるみ)の名称は当時からのものであるし,関守町(せきもりちょう)という名も残されている。
「石(いわ)ばしる垂水(たるみ)の上のさ蕨(わらび)の
萌え出ずる春になりにけるかも」
源氏物語の遺跡も多い。光源氏が派閥闘争に敗れて須磨で蟄居していた頃に付き合った姉妹の名を取った謡曲「松風」の「松風村雨堂」がある。
「わくらはに問う人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつ侘ぶと答えよ」
子供の頃に覚えた百人一首も懐かしい。
「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身も焦がれつつ」
「淡路島かよふ千鳥のなく声に幾夜寝覚めぬ須磨の関守」
平家物語やテレビドラマに釣られてまず須磨寺に行くと,境内の正面に熊谷直実と平 敦盛の合戦の銅像が建っている(写真1)。つい小学校時代に学んだ「青葉の笛」を思い出す。名将敦盛が後鳥羽院から賜った,名笛(小枝)の音が聞えるようだ。
「一の谷の 軍(いくさ)破れ 討たれし平家の 公達あわれ
暁寒き 須磨の嵐に 聞えしはこれか 青葉の笛」
源 義経の鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし作戦の奇襲に敗れた平家軍の遺跡は舞子公園の裏手にあり,現在はロープウェイが通っている。源平合戦の激しさを残して「戦の浜」ともいわれて,青葉町・一ノ谷町の名が残って入る。
平 重盛が父清盛と後白河法皇との間の義理人情に挟まり,万策尽きて「忠ならんと欲すれば孝ならず 孝ならんと欲すれば忠ならず」……と嘆いた大河ドラマの映像を思い出す。
隆盛を誇った清盛塚は福原京跡の近くにある(写真2・3)。福原遷都に関する清盛の執念をしみじみと感ずる。
少し脚を伸ばせば湊川神社があるが,神社は壮大で人をひきつけるが肝心の楠木正成(くすのき まさしげ)の墓は神社の手前の森の中にあり,墓には水戸光圀が建てた「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑がある(写真4・5)。ここは昭和10年頃にも行ったことがあるが,当時は全く静かな森だったのが現在周囲は物凄く変わって広い道路と車の洪水になっていた。
江戸時代,松尾芭蕉は明石海峡をみて,
「蝸牛(かたつむり) 角振り分けて 須磨明石」
「見渡せば ながむれば見れば 須磨の秋」
と詠み,与謝蕪村は,
「春の海 ひねもすのたり のたりかな」
と詠んでいる。
浮世絵の歌川広重も明石を訪ねて波間に飛ぶ群鳥の絵を書き残している。
幕末に攘夷浪士による神戸事件の場所も近くにあるが,その斬首の光景は外人たちを震い上がらせたという。これが将来神戸開港の礎になったことを考えると感無量となる(写真6)。
幕末に勝 海舟が活躍した海軍操練所は咸臨丸の技術を育て後に海軍兵学校の礎となり,日本海軍発祥の基礎となったとの碑文は非常に印象的だった(写真7)。すぐ隣に明治3年神戸電信発祥の地の碑もある。
明治天皇は特に淡路・明石の景色を好まれ6回も行幸されたそうだ。
明治天皇御製
「はりまがた 舞子の浜に 旅寝して 見し夜こひしき 月の影かな」
明石海峡大橋に到着。今まで客船から橋を見上げた立場が今回,客船を見下ろしたのだから愉快だった(写真8・9・10)。橋の足元に明治時代に造られた鉄鋼造りで本州最古の「赤灯台」が残されて青い松林の中に際立っていた。
舞子の浜には大会社の別荘・保養所があり,中国の孫文も住んでいたそうだし,それに舞子カントリークラブも有名だ。明石海峡大橋は,阪神・淡路大震災の時に地盤がずれたため,主橋脚が数センチずれ,橋の全長が1メートルほど伸びたそうだ。橋の工事により折角の白砂青松が大分埋め立てられて道路が拡張され,松林もすっかり蚕食されて昔の面影が無くなっている。
大都会神戸も海を埋め立てて700床の大病院を造るし,近くには空港も建設した。地震の際の液化現象の心配はないのだろうか。そのうえ,山を削り,二重三重に高い橋を架け,海中にまでトンネルを伸ばして背後の六甲の山にも何本も掘り進んでいる。街全体が非常に騒々しい。
今より1300年の昔,奈良時代からの永い歴史的な遺産が次々に無くなりつつあるのは非常に寂しい気がする。

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