=== 新春随筆 ===

自 由 人 閑 話



                      
前鹿児島市医師会事務局長
                      馬原 文雄
*青春の甲子園
 その日,甲子園は超満員の観衆で溢れていた。特に三塁側アルプススタンドはヒマワリ畑のような一面の黄色い波がうねっていた。平成24年第94回全国高校野球大会8月13日の第二試合,私はその大観衆の中にいた。
 第一試合で鹿児島代表の神村学園が勝った後の第二試合,熊本の「濟々黌高校」対徳島の「鳴門高校」の試合で,母黌・濟々黌を応援するために初めて甲子園に行ったのである。
 昭和33年,第30回春の選抜大会では全国制覇をした母黌も,18年ぶりの甲子園出場とあって,現役の生徒父兄はもとより全国の卒業生ОBが母黌愛に燃え結集したのである。
甲子園三塁側アルプススタンドの大応援団


 試合の前日(12日),私は,熊本から出る応援列車に乗るために,濟々黌時代の友人と久しぶりに焼酎を酌み交わしながら青春時代の思い出を語り合い,自分の心の中から消えかけていた青春の熱い思いがよみがえってくるのを感じた。その夜は友人の家に泊めてもらい,翌朝3時に起床,熊本駅を4時過ぎ発の臨時列車(以前のつばめ号)で博多まで行き,そこから新幹線で新神戸へ,続いて電車で甲子園までという行程であった。
 熊本駅は,早朝にもかかわらず黄色いシャツに黄色い団扇といったスクールカラーをまとった若い女の子・青年,こども,自分と同年配もしくはそれ以上の“おじさん”・“おばさん”など黄色い色をした老若男女が続々とつめかけていた。この時私は,その一員であるということに改めて喜びを感じた。
 初めての甲子園は,大きなスタンド,グリーンの芝生,内野の土の色と本当にきれいで,テレビではわからない素晴らしいものであった。加えて,アルプススタンドでは黄色いうねりの波が一球一球大声援を送り,見も知らぬ者同士が同窓生という一心で繋がりあい,肩を組み合っての「ワッショイ・ワッショイ」は,本当に青春そのものであった。
 このような大声援に応え,選手たちは事前の予想を覆し見事に勝利してくれた。

*「悠然として南山を見る」
 朝6時半に起きて,洗顔・トイレ・新聞・朝ドラと一通りの流れはそれまでと変わらない。が,そこから先が一変する。それまでは,8時10分のJRに乗って出勤し,夜7時頃(会議のときは10時頃)帰宅し,それからお風呂と食事という日課の繰り返しであった。当然のこととして職場中心の,時間に拘束された生活であり,それが当たり前であった。それが朝8時からフリーとなるのである。これで,やりたいことがいっぱいできる,あれをしたい,これもしたいと色んなことを考えていた。
 まず朝の涼しいうちに農作業,午後はギターの練習や写真撮り・本読み,そしてたまには旅行にも等々……。

(農作業)
我が家の畑

 我が家には隣地に50坪程の畑があり,これまでは妻がボツボツと季節野菜を作っており,私は土・日に畑を耕したり草取りの手伝いを行う程度であった。これからは自分が中心になって作ろうと張り切って作業にかかる。7月・8月といえば一番暑いときで,しかも雑草の勢いのいいこと。まずは草取りからと取りかかる。腰をかがめた慣れない姿勢で始めるが,すぐに汗びっしょりで,また腰も痛くなって休憩。半日作業しても一坪ぐらいしかできない。しかもこの時期せっかく草を取ってきれいになったと喜んでいると,しばらくするとまた新しい草が生えてくる。これも自然の摂理で腹を立てても仕方がないとのんびりと構え,とにかく今日はできただけでいいのだ。明日もある。
 このようにしてのんびりと作業を繰り返しているうちに収穫の時期がやってくる。これらの作業の苦労も,トマト・なす・きゅうり・ニガウリなどの夏野菜を収穫するときすべて吹き飛んでしまう。おかげ様でこの時期,我が家の食卓には野菜が絶えることはなく,健康作りにも大いに寄与しているのではないだろうか。無論,これらの野菜は時期的に一斉にできるので,自宅だけで食べきれるものではなく隣近所に少しずつおすそ分けとなる。このことは隣近所との深いコミュニティー作りにも繋がっている。
 夏野菜が終わると今度は次の作物を植える準備だ。たくさんの野菜を実らせてくれた木々を抜き,畑の耕うん作業を行う。農業で最も大切なのが土作りで,耕すことから始まる。これなしには良い作物は育たないので十二分に耕す必要がある。耕すのは大変で,それまで“土・日だけ”の手伝いは鍬を持ってやっていたがそれでもすぐ腰にくる。そこで退職前に,これからは“土・日だけ”ではないとミニ耕耘機を仕入れた。おかげ様で随分と楽でしかも早く耕せるとあって,もっと土地が広ければいいのにと思うほどである。ところが調子に乗って作業を続け,耕耘機の方向転換をするため耕耘機を持ち上げたその時,腰にグキッときた。
 慣れない作業を調子に乗ってしたらいけないと思い知らされた。それから整骨院でマッサージを受け(これがまた悲鳴を上げたくなるほどで随分といじめられた),家では横になっていないと痛くて1ヵ月は作業どころではなかった。
 このように私の農作業はまだまだ大したこともできなくて,結局妻に“おんぶにだっこ”の状態で推移している。
 でも何も急ぐ必要はない。自然体でいこう。明日もあるのだから……。

(ギター・写真など)
 ギターは小さなオーケストラといわれる。ギターが一本あればオーケストラで演奏するような音楽も演奏できる。このギターと私のかかわりは学生時代にさかのぼる。古賀メロディーの「影を慕いて」やイエペスの「禁じられた遊び」を弾いてみたくて,夏休みにアルバイトをして当時7千円くらいのクラシックギターを買った。それからはもう楽譜と首っ引きで,時には講義をさぼって朝から晩まで必死に弾いたものである。もちろん自己流であったが,1〜2ヵ月すると何とか曲を弾いていると解る程度まで弾けるようになったのを覚えている。そうなるといろんな曲が弾きたくなってギターピース(楽譜)を次々に買って練習した。今思うとそれだけギター漬けの毎日であったが,きつくてやめようと思った記憶はない。毎日が楽しかったのである。
 大学卒業後就職すると,職場にギターを弾ける人が何人かいることがわかり,一緒に同好会を作ることになった。1960年代後半から70年代にかけて世はギターブームで,テレビでもギター教室がさかんに放映されていたこともあってか,同好会を作るとたくさんの職員が入会してきた。特に若い女子職員が多かったためか,練習会場にはたくさんの職員が見学に詰めかけてきたものであった。同好会では当然プロの講師をお願いしたので,自分自身も基礎からやりなすことになったのはいうまでもない。そして年に1回は定期演奏会を開けるまでになった。演奏会は二重奏や三重奏など合奏が中心で,そのための練習や,楽譜の写譜(便利なコピー機などない時代)・チケット作りなどの準備は,休日も返上してのものだったが,これも楽しかった思い出として鮮明に残っている。
 このように一生懸命だったギターであったが,年を経るに連れみんな仕事も忙しくなり,だんだんと同好会の活動もできなくなっていった。私自身,ギターを握る機会も少なくなり,いつの間にか30年以上になってしまった。
 近年,リタイア後ピアノなど楽器を始める人も多いと聞く。長い人生で音楽とのかかわりの無い人はほとんどいないと思うが,特にどんな楽器でも自分で弾ける楽しみというものは,何事にも代えがたいものだと思う。私には幸いにしてギターがあったのだ。今,改めて一から始めようと,ボツボツと練習している。左手の指先が痛くなくなるころは,少しは昔に近づけるようになれるかもしれない。
 でも急ぐ必要はない。自然体でいこう。明日もあるのだから……。

 一昨年,私は医師会事務局の水口君と一緒に全日写連(全日本写真連盟)の写真教室を受講した。これまでは趣味として写真を撮ることが好きで,我が家には大量の写真が残っている。ほとんどは記録写真・記念写真である。いつかは本格的な勉強をしてみたいと思っていたが,たまたまこの教室があることを知り受講することとした。そのとき事務局の水口君が写真を撮っていることを知り,一緒に受講することにしたのである。半年にわたり基礎的なことを学んだが知らないことがいっぱいで,現在大いに役に立っている。実践で鍛えることが大事だと思うので,これからどんどん写真撮りに行きたいと思っている。なお写真教室では講師が,水口君には素晴らしいセンスがあると評価されていた。これから大いに上達するものと楽しみにしている。
 
 ほかにも旅行や地域活動などやりたいことはいっぱいあるが,何にしても急ぐ必要はない。自然体でいこう。明日もあるのだから……。




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