=== 随筆・その他 ===

サ ハ リ ン



西区・武岡支部
(西橋内科)       西橋 弘成

 本誌第51巻第10号の表紙で「サハリン紀行」という題目が目に付いた。何故なら,私は昭和16年8月(小学5年生)から昭和17年8月(小学6年生)までの1年間をサハリンで暮らしたからだ。
 著者は最近ツアーで,サハリンの南東部の一部を見られたようだ。大泊港に上陸され,豊原を通って北上し,東海岸を南下して大泊へ帰って来られたようだ。
 その土地をよく知るには,暫くそこへ住んでみることだ。私は西海岸,間宮海峡に面する側へ住んだ。サハリンは中央を樺太山脈が北から南へ縦走している。高さは2,000m級か。特に名のついた山はなさそうだ。私が住む西側からみた山脈はきびしく,年中8合目あたりまでは残雪がある。西向きだから冷たい風がよく当たるのだろう。
 終戦までは飛行場はなかった。戦後,観光用に日本が作ったのか。戦前から終戦までのサハリンについては三浦綾子氏の小説(天北原野)に詳しい。山脈の東側は平で松林が広く,漁業と林業を主としていたようだ。アイヌ人,トナカイも東側に住んでいて,西側ではみなかった。外国人も,日本人に組み入れられた朝鮮人以外みなかった。山脈の西側は鉱山があり,父の働く塔路町の会社も炭坑であった。サハリンへは,大泊港か,西海岸の恵須取港を使った。東海岸その他には大きな船がつける港はなかったようだ。
 鉄道は,東海岸のみにあったと思っていたが,三浦氏の説明では,大泊から豊平を経て,北の国境地まで東海岸を走るのと,豊平から西へサハリンを横切り,真岡へ出て,それから南へ30qばかり,北へ80qばかり延びている。しかし,西海岸は恵須取市までも延びていない。
 内地との交通は,大泊への船と西海岸唯一の港で,また唯一の不凍港といわれる恵須取港である。雪のない間は,定期バスも走っているが,引越し等はソリを使う。人も荷物も同時に運べるからだ。
 西側は峨々とした山肌や荒れた土地とツンドラで炭鉱,製紙以外さしたる産業はない。だから農家という姿をみない。それでも数軒は野菜を作るのだろう。どの家でも冬の野菜に,キャベツ,大根,白菜,カボチャ,ジャガイモ等は,ムロという地下室に貯える。そういえば,5月に海岸へ押し寄せるシシャモ。流れつく昆布も干したり焼いたりして貯えておいた。
 面白いのは便所の使い方だ。冬になると,父は,おしりをあちこちに動かして,便をまくようにしなさいという。子供の私達は,一ヵ所めがけて便を落とす。真冬,半日もすれば便は凍る。だんだん竹の子のように伸びてくる。人夫がツルハシで砕いて庭へ捨てる。
 4月に雪が溶けると人夫が畝をつくって野菜の苗を植える。1ヵ月もすると,青々と芽が出てどんどん大きくなる。柔らかくておいしそうだ。キャベツ,白菜,ジャガイモ,カボチャ,大根など。7月には,もう収穫できそうになる。8月初旬,中学受験のため内地へ帰った私は,それらの野菜は食べられなかったがおいしかっただろうと思った。野地ではもう,草の芽も出なかった。
 父が手配した石炭船(8,000t)で従兄弟・姉妹と私の3人は,日本海を1週間で南下し,九州,佐賀に上陸した。2人は祖母が留守番をする家へ,私は伯母の家へ向かった。
 9月から元のクラスへ入った。もう受験勉強をはじめていた。毎日算数の計算問題が宿題として出た。私は9月は55人中40番であったが,11月に4番までもどれた。
 3月初旬の人吉中学校(以下,人中)のテストは,紙がない(昭和18年)ので模型飛行機の主翼のまわりの長さを暗算で出す問題だった。私のクラスはそんな問題を毎回やっていたので得したと思う。
 3月末級友と3人で合格発表をみに行った。1組から5組まで50人ずつ5クラスに分けてある。1組からみていった。級友のはみつかったが,私のは4組までみてもない。5組の上1行・2行にもない。落ちたか!胸がドキドキした。3行目,中央にあった。5組36番だ。級友と一緒に担任のところへ行った。他の級友も来ていた。人中へは30人受け,25人通ったそうだ。農学校へ5人受けて2人通った。人中へは学力と金がないと通らないらしい。
 4月2日,入学式へ伯父と行った。楽しみにしていた白線1本入りの黒の制帽も,黒の制服も,革の靴もカバンもなかった。すべて代用品だけだった。でもあこがれの人中へ入れたことは嬉しかった。それから母親達が帰ってくるまでの3年間,伯母の家に下宿して,人中生活を楽しんだ。
 サハリンから帰って来た意義があってよかった。
 1個1屯はあろうか流氷がぶつかりあってきしる音,春,海からやってくる霞,それらが私の身体を包むのだ。



このサイトの文章、画像などを許可なく保存、転載する事を禁止します。
(C)Kagoshima City Medical Association 2012