
1.衛生教育の実際
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写真 1 保健所にて人工気胸療法
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写真 2 衛生教育の現場
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先の大戦の惨禍が漸く薄れ始めた昭和25年の秋,私は初めて公衆衛生の門をたたいた。最初の任地は南薩地区を管轄する鹿児島県加世田保健所であった。
当時の保健所は,所謂行政業務の他に,その頃国民病として猛威を奮っていた結核の診断・治療も担当していた。治療の対象は早期の結核患者に限られてはいたが,管内では最新鋭と評価されていたレントゲン機器を備えており,結核診断と人工気胸療法とで忙しく過ごすことになった数年間(加世田から伊集院・隼人の保健所等に異動)は,学校卒業後,インターンなどの研修を国立の結核療養所で過ごしてきた私にとっては,保健所が結核対策のメッカとして輝いていた頃の,多忙を極めた懐かしい回想でもある(写真1)。
保健所に勤務していたそんな頃,遭遇した衛生教育(今なら健康教育というべきだろうが)の実際は,意に反して難しく,自己嫌悪に落ち込まざるを得ない体験だった。
衛生教育とは,難しい公衆衛生学を分かり易く国民に翻訳することである。とか,衛生教育とは,健康について学問上分かっている事柄を,教育という手段によって,個人と社会の行動に変えることである。等の理念は一応理解していたものの,多種多様な一般住民を前にしたとき,自分の無力を,単なる医学知識の羅列が聴衆にとっては興味を引かないものであることを敏感に感じていた。終了後のお座なりの拍手も,空虚に聞こえ,やり場のない自己嫌悪感だけが何時までも消えなかった(写真2)。
私は学生時代,所謂学生演劇に情熱を燃やし,鹿児島市内の劇場を埋め尽くした観衆を魅了した劇団員の一人,というささやかな体験をもってはいたが,そんな密かな自負心をかなぐり捨てて,恐らくこれからの長い歳月,苦楽を共にするであろう衛生教育とのかかわりの深さを予感していた。
機会がある限り,先輩の講演などを傍聴して何かを得ようとしていた頃,鹿児島市内で,当時NHKラジオドクターとして著名な石垣純二氏の講演を聴く機会があった。対象は助産師・保健師で,確か受胎調節がテーマだった。型通りの講師紹介に続いて壇上に立った石垣氏は,無言のまま背広の内ポケットから,一通の手紙を出し,中の便せんを手にして,「昨日東京の自宅で受け取った手紙です」と口を開いた。会場がシーンと静まりかえる中,全ての視線は講師の手元に集まっていた。その瞬間,私は講演の真髄をこの目で見た,と感じていた。その後の講演内容は,勿論有益で,具体的で,聴衆を飽かせることもなく,割れるような拍手の中で,私は一人,一流の話術の凄さに魅せられていた(註:石垣純二氏は,東大医学部卒,内務省衛生局を経て厚生省技官。NHKラジオドクターを務め,医事評論の分野で活躍)。
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写真 3 国立公衆衛生院正門前にて
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公衆衛生勃興期,アメリカロックフェラー財団の手に成った国立公衆衛生院という教育訓練機関があった。東京は港区白金台にゴシック建築様式の威容を誇る公衆衛生院に,3ヵ月余の研修を命じられたのは昭和29年の秋だった。全国から選ばれてきた研修生の熱気と,覇気に溢れた気鋭の講師陣から学んだものは,その後の公衆衛生医としての友情・連帯を確実なものにしてくれたといえるだろう(写真3)。
研修の内容はともかく,私は,日曜日が来るのを待ちかねて,かねて懸案の寄席通いを始めた。最も頻繁に通ったのは,新宿三丁目にある新宿末廣亭である。末廣亭は,都内に四軒あった落語定席の1つで,落語を中心に,漫才,俗曲などの色物芸を多数演じていた老舗であるが,江戸以来の伝統・情緒が醸し出す落語の世界に,話術の原型を私は観ていた。セピア色に褪せたその頃のメモ帳には,始めの3分が勝負であること,とっておきの材料を最初に出す,有名人を話材にすること,数字は単純明快な形で使う,メモは用意しろ,原稿は作るな,身近な芸能人等の話材を用意しておくこと,対象に応じた材料の蓄積(高齢者には皇室,若者にはスター)等々。私なりに納得した「衛生教育の技術」の記録が残されている。そのメモ帳に,今も残っている知名人の死因。杜甫・59歳・結核,石川啄木・27歳・結核,高杉晋作・29歳・結核,樋口一葉・25歳・結核,正岡子規・26歳・結核,滝 廉太郎・24歳・結核,ナポレオン・51歳・胃ガン,ブラームス・63歳・肝臓癌,吉川英治・60歳・肺ガン,ダヴィンチ・67歳・脳出血,スタンダール・59歳・脳出血,山田耕筰・79歳・心筋梗塞,林 芙美子・48歳・狭心症,等々懐かしい回想だ。
2.三惚れの戒め
初めて保健所勤務となって程なく,所謂新人教育としての研修を受けた。余り興味を引かれるような内容でもなかったが,ある講師の公務員としての心得と題した講義は不思議に心に残った。県庁マンとしての気構えを説いた内容だったが,中でも県庁に勤務する上で必要なことは,@仕事に惚れろ,A土地に惚れろ,B女房に惚れろ,とした三惚れの戒めは妙に心に響いた。
公衆衛生の道を選択したばかりの私には,とりわけ,土地に惚れろ,というフレーズは,公衆衛生のあり方に示唆を与える言葉に映ったに違いなかった。任地が変わり,管轄が変わる度にこのフレーズを反芻してきた。
独身時代は当然として,家庭を持ってからも,私は任地が変わると同時に当然のように住居も変えた。交通事情の悪さもあったが,公舎がなくても,不便な住まいでも,その土地に暮らさなくては公衆衛生上の課題を理解できる筈がない,という信念からであった。
新婚の住まいは,水道が無く近くの山水を貯め置く有様で,風呂は町の銭湯で,南こうせつの「神田川」の風情そのままだった。土地の集会にも出席したし,大掃除やラジオ体操にも仲間入りをした。衛生教育の依頼はほとんど夜だったが,夕食後迎えに立ち寄った保健師や栄養士と自転車に幻灯機を積んで公民館に出かけるのが常だった。
そんな明け暮れの出水保健所長から,本土復帰後間もない奄美群島を管轄する名瀬保健所長へ転勤を命ぜられたのは,昭和31年春のことだったが,特別迷うこともなく,やっと歩き始めた長女を連れて家族3人,生まれて初めての七島灘を越えた。公衆衛生の仕事は,何よりもその土地に溶け込むことだと信じていた私は,見送ってくれる夥しい五色のテープが舞う中で,何か昂揚するものを感じていた。
当時は空の旅など夢想も出来ない頃で,任地への家族を運んでくれた新鋭客船も,名瀬の港に接岸は無理で,迎えの艀(はしけ)に揺られての上陸だった。甚大な戦災と引き続いた行政分離によって,荒廃の極にあった奄美への第一歩は,私の人生を変えるかも知れない予感を覚えさせるに十分だった。
50人を超す職員の出迎えを受け,着荷の整理をする間もなく,私のために用意された歓迎の宴が始まった。初めて耳にする蛇皮線の音色と島唄に込められた哀感,そして職員全員が輪になって踊ってくれた好意と善意。忘れられることはない。
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写真 4 名瀬の市民大運動会にて踊る
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数日遅れて招かれた医師会主催の歓迎会で,会長の暖かい歓迎の挨拶の中で注文が付いた。次の総会までに,島の踊りの1つでも身につけて欲しい。もし上手く踊れたら医師会は総力を挙げて所長に協力しましょう,という話しだった。その真意は土地の人になり切って欲しい。奄美の立場で発想して欲しい。そんな激励と期待が込められていた。私のたった1つの隠し芸「農村小唄」はあの時に覚えた踊りである(写真4)。
3.公衆衛生行政の原点
乳児死亡率の謎
地域の公衆衛生の水準を測るのに,乳児死亡率の高低が,その指標になることは分かり易い常識だった。その私に,管轄地域奄美群島の乳児死亡率(出生1,000対)22.2は異様に見えた。その年昭和31年の全国乳児死亡率は40.7を示したのだから,どう考えても荒廃した奄美の公衆衛生水準が進んでいるとは信じられずにいた。どなたに聞いても答えは見つからなかった。最近,平成21年の乳児死亡率(出生1,000対)が,全国2.4である事実からは信じがたい数字ではあるが。
私の謎を解いてくれたのは,古くからの土地の助産師だった。赤ん坊が生まれると,暫くは乳児の発育状況を見ていて,大丈夫と見当が付いてから初めて役場に届ける習わしだという。想像もしない真相だった。死亡率の高い新生児の存在が表面には出てこない事実を知って,目から鱗が落ちる思いだったことを今でも思い出す。土地の暮らしの中にこそ,公衆衛生の原点が存在すると,改めて思い知らされたのだった。
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写真 5 世界一の長寿者・泉重千代翁を訪ねる
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後年,県衛生部長の立場で,当時世界一の長寿者・泉重千代翁の自宅を徳之島に訪ねたとき,ふと生誕の頃の戸籍の有り様に想いを巡らしていたのも,今は懐かしい(写真5)。
効かないハブ抗毒素血清
初めての毒蛇ハブとの出逢いは強烈であった。長さ2メートル,胴回り20センチはあろうかというハブが,金網の籠の中で一瞬首を上にもちあげ,すぐさま首を縮めて咬みつく時の態勢をとった際の凄さに戦慄した思いも今は懐かしい。
その頃,昭和22年から昭和32年にかけて,年平均,咬症患者323人,死亡9.9人と記録されており,行政は懸命に対策を講じており,ハブの買い上げの他,ハブ抗毒素血清の配布に努力していたのだったが…。
着任してみて,咬症患者の数,とりわけ死亡者の多いのに驚いたが,咬まれた患者の激痛の苦しみ,筋肉が腐っていく 「壊死」の惨状,後遺症の多さは,想像を超えていた。ハブ抗毒素血清は,期待されるほどの効果を示してはいないという現場の状態を訴えた私のもとへ,程なく返報が届いた。
東京大学附属伝染病研究所の試験製造室主任・沢井芳男博士,東京大学医学部寄生虫学助教授・佐々学博士等のグループが来島するという。熱帯医学の権威と自他共に考えられていた新進気鋭の研究者を待っていたのは,ハブ咬症患者の凄惨さの衝撃だった。
来島挨拶のあと,名瀬保健所を出て,ハブ採毒所,ついで県立大島病院を訪ね,ハブ咬症患者の凄惨さを診た一行は,保健所での会議に臨んだ。後に平成4年,TBSブリタニカから出版され,
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写真 6 小林照幸著「毒蛇」
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第一回開高健賞奨励賞を受賞した小林照幸著「毒蛇」に,ドキュメンタルに書かれている,内山名瀬保健所長の思いには切実感が流れている(写真6)。
血清の効果は先生方が予想されているほどの劇的なものではないこと。低温保存が必要な1年の保存期間を電気のない地域ではどのように保存すればよいのか。神棚や床の間,または床下,そんな保管が想像できますか。せめて壊死を抑えられないか。現在の液状血清を乾燥にして長期保存を可能にして欲しい。…と訴えた。
ハブ血清が,凍結乾燥品になり,有効期限が延び,ハブトキソイドへの道が拓けるようになり,最近数年間ハブ咬症による死亡者がゼロになったとはいえ,平成23年ハブ咬傷者数65人という被害に長い道程を思わざるを得ない。
飲料水と無医地区
名瀬に落ち着く間もなく,管轄内の島々を可能な限り視察し,土地の人々の生活実態に触れてみようと訪ねてみた。保健所長がやって来るというので,それぞれの町村では陳情・要望が数多く用意されてあった。暮らしに悩む切実な課題の中で,共通した最大の要望は飲料水問題だった。
中でも沖永良部の実態は,記憶に鮮明である。役場での説明を受け,宿舎に着いてみると,私に会いたいと婦人の方など多数待ち受けていた。切々と訴える悩みを聞いて,その足で訪ねた余多(あまた)地区の飲料水は,私の予想を超えて惨めだった。田の水がそのまま,およそ濾過の役目を果たしてくれるとはとても思えない井筒を通しただけで,生のまま飲料水として使用されているのだった。離島の宿命では済まされない非人間的な暮らしがあった。
その翌日,奄美の観光写真で紹介されたことで知られている暗川(くらごう)を訪れた。あれは地下何十メートルだったろうか,ランプの灯を頼りに湧水で米をとぎ,洗濯を済ませ,体を洗い,そして最後に満杯にしたバケツを頭に載せて,地上へ帰っていく主婦の暮らしをみた。暗川の存在が,後年鍾乳洞の発見に繋がろうなどとは想像も出来なかった頃の話である。
訪れた島々の至る所で,飲料水に事欠く暮らしの実態をみた私は,当時,全額国庫の所謂奄美群島復興予算の簡易水道建設に精魂を傾けたのだった。
私の在任中,終始苦悩を強いられたのは,無医地区対策だったといえよう。管轄の離島・僻地の視察の折りに,『お医者さんに脈を診て貰うこともないまま,私達は一生を終えるのです』と涙ぐむお年寄りに,なんと哀しかったことか。島々を巡る度に聞かされる無医地区なるが故の悲劇は,まさに人道の問題だった。
本土復帰と同時に,医療施設も増え,その設備も改善されてはきていたものの,圧倒的に医師数は足りなかった。人口比でみても県平均の半数にも満たなかったし,しかもその多くは名瀬と古仁屋に偏在していた。
奄美群島復興予算には診療所設置を計画的に盛り込んだが,見事に出来上がった診療所を写真入りで紹介した地元新聞には「医者の来ない診療所」と揶揄した記事が踊った。無為無策と批判されながら,奄美出身で本土在住の医師に呼び掛けたり,鹿児島大学をはじめ,あらゆる手蔓も頼ったが,空しい反応しか返って来なかった。
開業医が定期的に出張診療を行うという条件をつけて,分院を認めるという2ヵ所管理方式の特別措置に踏み切ったり,苦悩を強いられた無医地区対応だった。
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写真 7 奄美の島々での健診
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「赤ひげ先生」(山本周五郎原作・赤ひげ診療譚)を期待する時代は,もはや過去のものとなってしまったことを実感していた。離島僻地へ医師を誘導できる,魅力ある医療制度のあり方を,私は真剣に模索し始めていた。しかし,私の夢は後年創設されることになる自治医科大学建学まで,長い歳月を待たなければならなかった(写真7)。
4.地区組織活動
結核対策推進モデル保健所
私は,昭和34年の春,加世田保健所長へと転任したが,その頃,保健所の最重点課題は,亡国病・結核の撲滅にあった。最重点の集団検診の受診率は確実に向上しつつあったが,発見された患者や,経過観察を必要とする患者の状況などは,十分には把握できないままだった。医師会の協力にも自ずと限界があった。
集団検診の受診率にこだわるだけでは効果が上げられないのではないか,より重要なことは,検診を受けない人々の実態,そして何よりも急がなくてはならないことは,受診後の患者管理ではないのか。
集団検診から患者管理へ。個人ごとにカードを作成,担当保健師ごとに,カードケースをつくり,管理する医師の指示のもとで,訪問時期など管理レベルを色で仕分けする,そんなカードシステムによる管理方式は,当時保健師を中心とする職員の熱意で,地道ながら着実に成果を上げつつあった。
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写真 8 全国結核予防大会の席上,
秩父宮妃殿下から感謝状をいただく
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そんな成果が認められて,昭和37年5月,大阪市で開かれた全国結核予防大会の席上,時の結核予防会総裁 秩父宮妃殿下から,感謝状をいただいた(写真8)。当時の南日本新聞には,『きめの細かい高水準の結核対策を進めた優良保健所』として紹介されている。
受診率の向上,患者管理の徹底を図るためには,結核に対する正しい知識の普及を進める必要があった。懸命の努力もあって,市町村単位の結核予防婦人会が誕生し始めたのはその頃であった。
健康都市宣言
食生活改善という命題は,農村,漁村,僻地を問わず,公衆衛生上重要な課題であった。要望があれば,集まりの大小を問わず,栄養士を伴い足を運んだ。
回を重ねる度に,ボランテイア活動に熱心な婦人の力を,更に活かせないものかと相談し,栄養士のいわばパートナーを養成しようと考え,一般的な栄養講座のレベルを上げた食生活改善推進員養成を目的とした栄養教室を開設することにした。昭和34年から昭和35年にかけてのことである。後に「特攻の母」として名を馳せることになる知覧の「鳥浜トメ」さんもその頃のメンバーであった。
草の根運動の食生活改善推進員は,予想以上に反響を呼び,全国組織の範と成長することになるのだが,地元での反応は当然大きかった。
たまたま地元,当時の加世田市では市長選挙が行われようとしていたのだが,ある夜,立候補予定者の一人が私の公舎を訪れて相談があった。選挙公約のキーワードに「健康」を挙げたいと考えているので知恵を借りたい,そんな趣旨だった。WHO(世界保健機関)の『健康とは単に病気でない,虚弱でないというのみならず,身体的,精神的,そして社会的に完全に良好な状態を指す』という話を交わしながら,具体的な公約づくりに応じたのだった。
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写真 9 健康都市を宣言する泊市長
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見事市長に当選し,昭和39年5月の市議会で,健康都市宣言が決議され,6月には健康都市宣言市民大会が,1,200人の市民の熱気の中で盛大に行われた時の昂揚感は忘れられない(写真9)。
市長の宣言文朗読(原案には私も関与したが),シンポジウム等の後,プラカードを掲げての華やかな市中パレードが続き,全国3番目,九州では初の異色の宣言は,マスコミも賑やかに報道,好意に満ちた期待を寄せてくれた。当然,ゴミ収集等の衛生予算も拡大されたが,市民意識の啓発をねらった,校区ごとに開設された健康大学や,健康の日・市民体操の制定等々…市民による地域組織活動には,心も体も健やかに,と願う盛り上がりがあった。
当時,市庁舎正面の碑に刻まれた宣言文を今でも思い出す。『加世田市を“健康都市”とすることを宣言する。加世田市は,美しい環境と,長い歴史の中に育まれ,南薩振興の中核として発展する私達のまちである。加世田市は,このまちに住む全ての人々が,心も体も健やかに,満ち足りた生活を営むことが出来るような都市づくりを市政の基本とする。このために,市民はだれでも明るく,住みよい,綺麗な地域社会を創るよう,それぞれの分野で力を合わせ,市民の健康を積極的に推進しようとするものである。』
付記,本稿は鹿児島県保健所長会主催の研修会のための草稿に,加筆したものである。
| 「公衆衛生異聞−私史・公衆衛生行政から−(後編)」は,次号掲載予定です。(編集委員会) |

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