随筆・その他
私 の パ チ ン コ 人 生
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この4月で医報編集委員の役職を大学医局の後輩であるすみクリニックの角 純啓先生へと交代した。やれやれほっと一息といったところで,編集委員長をされている上ノ町先生より泌尿器科方面でリレー随筆をしてほしいとの要請があった。泌尿器科では私の知る限り川原泌尿器科の川原元司先生が一度執筆されただけで,他にはまだ誰も書いていない。ならば他ならぬかわいい後輩である角先生のためにも一念発起し,何か書かなければと思い立った。
これがまた何を書いてもよいとなるとなかなかテーマが絞れない。そこで自分が好きなことを書けばきっと筆も進むだろうと思い,自分の趣味や好きでやっていることの中から選ぶことにした。幼少の頃から自分と関わりがあり,現在でも好きで続けていることはテニス,パチンコ,テレビゲーム,コンピューター作り,アニメや映画の鑑賞などである。この中でも特に自分を語る上で切っても切り離せないのがパチンコである。かなりマニアックな部分もあるかもしれないが,常に私の人生の傍らにあり,時代と共に飛躍的に進化したパチンコについて書こうと思う。
先に述べたように私はアニメもこよなく愛しており,物心ついたころより“黄金バット”“鉄人28号”“スーパージェッター”といったアニメを毎週心躍らせながら見る子供であった。今のように作品は多くないが当時は見るもの見るものが斬新奇抜で,それらのものを見ているうち私は大のアニメファンとなっていった。そんな頃,私がはまったもう1つのものは機械いじりである。小学校6年生のときアマチュア無線の免許を取って以来,屋根に上がり自分で無線のアンテナやローテーター(今もあるかわからないが,感度の上がる方向へアンテナを回す装置のこと)を付けたり,半田ゴテを片手にいろいろな機械を作って遊んでいた(皆さんは電子ブロックというものをご存じだろうか?部品のブロックを組み合わせて電子回路を組んでいくものである。電子回路の基礎を知るのによく遊んでいた)。今のコンピュータが箱に入る前,まだ“マイコン”と言われていたときからコンピュータにも興味があり,仕組みについて勉強したものだった。そして今のパチンコはこの2つの要素がてんこ盛りなのである。当然,私がパチンコに惹かれるのは当たり前なのである,と言い訳じみたことを申し述べておきたい。
閑話休題,本題に戻し私の人生にパチンコがどのように関わってきたかというところを話していきたい。そもそも私のパチンコ好きはその生い立ちにある。私がまだ幼稚園に通っていたころ,親がパチンコ屋の住み込みで働いていたのだ。当時は駅前パチンコといって,大きな駅の近くには必ずといっていいほどパチンコ屋があった。その2階に私たちは居住し,1階に下りればそこはパチンコ屋といった生活をしていた。長年のパチンコファンならおわかりになるだろうが,当時のパチンコ台は今の台とは異なり,1つ1つの台はそれぞれ別々になっていて,1台に入れられる賞球としての球数には限りがあった。そのため遊技中に玉が無くなると,台の右上に穴が開いていて,そこから「玉がないぞ〜」と言われ急いでその台の裏の一番上にある皿に玉を補充していた。その補充をするのが裏方のパチンコ店員としての仕事であった。玉の打ち出しも現在のオートのものとは違い,1個1個手ではじくやり方で,客は下皿に貯まった玉を左手で鷲掴みにして玉入れ用の穴から1個1個入れては右手ではじく,を繰り返して遊ぶものであった。私は親の手伝いということもあり,パチンコ台の裏側に入り玉が無くなった台に玉を補充したり,落ちている玉を磁石の付いた棒で拾い集めたりと,子供でもできることをしていた(本当は子供がパチンコ屋にいてはいけないのだが,通路の中に入ると外からは見えない)。磁石の付いた棒を片手に,得意気に台の裏側の通路を玉を集めながら颯爽と駆け抜けるのは楽しいものであった。手伝いをしながらパチンコに興じる大人を見ていると,なにやら楽しそうで自然とパチンコに対しての興味もわいてきた。店内で流れていた“夜明けのスキャット”や“ブルーライトヨコハマ”“軍艦マーチ”など,当時のヒット曲がさらにその好奇心をかきたて,今でも時折当時の夢を見ることがある。そのくらいこの頃の思い出は鮮烈に脳裏に焼き付いている。閉店後,遊びで玉を打ち出すことがあり,私もさせてもらえることがあった。とてもわくわくしたことを今も思い出す。当時のパチンコ台はチューリップという機能が付いていて,そのチューリップに玉が入るとそれがパッと開き次の玉が入りやすくなるという単純な仕組みになっていた。この単純な仕組みに大人はやみつきになっているのだと思うと「子供みたいだ」とおかしかった。また閉店後は釘師が来て,千枚通しの先にパチンコ玉のついた道具とトンカチを使い,少しずつ釘を調整する様子を見ることが出来た。今はもうデジパチであまり関係なくなってしまったかもしれないが,こんな職業も当時のパチンコ屋の光景の1つだと思う。
時は流れ,私が卒園する頃には親はパチンコ屋の仕事を辞め,引っ越しをし別の仕事を始めた。パチンコ屋での住み込みの仕事を辞めてからは,私がパチンコ屋に出入りすることはなくなった(というより子供であるので,できなくなった)。そのためこの時期のパチンコに関する記憶は親がパチンコ屋で遊んでいるときに探しに行った,その時少し垣間見ただけの記憶になってくる。ここからしばらくは聞いた話と調べたこととで話を進めていこうと思う。ここから数年間で私は小学生から中学生へと,パチンコ台は手動から自動へと劇的な変化を遂げた。まず台の大きな変化としては,1個ずつ玉を入れて打つやり方から,下皿の上に玉を流し込むための上皿がついて,直接出てきた玉を打てるようになり,手で玉を入れる必要がなくなった。それでもまだ手打ちが必要なものもあったが,さらに台が進化しハンドルを回せば自動で玉が打てる時代へと移っていった。昭和40年代後半に『大三元』という台が出てきてかなりの衝撃を親が受けていた。これはチューリップが馬鹿みたいにたくさん盤面全体についており(調べてみると10個ついていたらしい),なかなか入らない天のチャッカーに偶然玉が入ると全てのチューリップが開き,特定の穴に入ると全て閉じる仕様のものであった。この台は見ている者をもわくわくさせた。ひとたび真ん中の入賞口に玉が入ろうものなら,全てのチューリップが開く瞬間,アドレナリンが大放出される感覚を体感できる台であった。こういった台の導入こそが,今のパチンコ文化の起源であり,射幸心を強く煽り,ギャンブル性を増していった原因であると私は考えている。その後,パチンコは自分の時間に合わせてゆっくり打つ遊びではなく,ひたすら当たるまで打たされる時代へと移っていくのだ。ただそれでもまだ,この時代は玉を打ってチューリップを相手にするといったパチンコ本来の醍醐味は残されていたように思われる。
さらに時は流れ,私は大学へ進学した。いよいよ18歳となり,自分でもパチンコを満喫してよい年齢となった。この頃からパチンコはいくつかの種類にわかれていった。第一は羽根モノといわれる機種で,盤面下方の開放チャッカーに入賞すると中央の役モノ(飛行機の羽根の様な形をしていたので羽根モノと呼ばれていた)が開き,その中央に玉が入ると継続して羽根が開き,そこに玉が入っていくことで出玉を増やすタイプ。第二は権利モノといって,大雑把に説明すると,入りにくい所に偶然玉が入るとチューリップが開いて,その開いたチューリップの羽根が玉の軌道を変えてどんどん入賞口へと玉の流れを導き出玉を増やすタイプ(この中には一発台といってひとたび入れば定量までずっと出続けるものもあった)。そして第三が今の主流であるデジパチことデジタルパチンコである。『フィーバー』『ブラボー』登場以降の台の大部分がこれにあたる。チャッカーに玉が入るとデジタルが回り,その都度当たりの判定を行い,当たりが抽選されれば盤面の下方にある下皿(閉じないチューリップ)が開き,そこに玉が入っていくことで出玉が増えるタイプである。ここでデジパチの進化について触れておきたい。登場当初のデジパチは,ひとたび当たれば下皿に玉がどんどん入るタイプがあり,店側で定量といって台を止めない限りずっと出続けるものがあった。やっと大手を振ってパチンコ屋に出入りできる年齢になったにもかかわらず,学生だった私はお金がなくてとてもはまり込んで打てる台ではなかった。この手の台はギャンブル性が高く爆発的な人気を博し,その射幸心の煽り方が社会問題となったため,規制が入りラウンド式で下皿の開く回数が制限されるものへと変化した。またこの頃はパチンコ屋の脱税問題も起こり,CRといってプリペイドカードを第三者から購入し,それで遊戯することによりお金の動きを監視し脱税ができないようにするシステムが導入された。このCR機が今のデジパチそのもので,これを導入した機械はギャンブル性の高い機種も許可されるようになり,規制・緩和を繰り返しながら今のデジパチができあがった。
自分としては滅多に入らない所に入るとしばらく玉が出て,入らなければ本当に負けっぱなしといった機種,いわゆる権利台が一番好きだ。なぜなら明暗がはっきりしており人生を垣間見る感じがするからだ。そしてこの偶然性,意外性が非常に面白い。そもそもパチンコ玉は完全な球体ではない。少し歪な球体だからこそ起こる,釘との衝突後の不規則な弾き,これこそがギャンブルである。展開が予測できないところにドラマがあり,その偶然性はコンピュータの作り出す乱数(ほとんどはタイマーがあり,コンピュータがあるタイミングで数字を取り出して作るランダムな数字)で完全に管理されている今のデジパチと一線を画するところである。コンピュータは思いの外でたらめなことをするのが苦手で,ランプの点滅などを基準に一定の規則性を生み出すことがある。これを逆手に取り,この基準(規則性)を理解し,玉の打ち出しのタイミングを合わせると当たりの確率を上げることが可能な攻略法が世の中に出回ったことがある。今はほぼ不可能に近いところまでメーカー側が対応できているが,機種によっては今でもまだ当たる確率を上げる,そんな夢のような方法が見つかるかもしれない。つまり,コンピュータに当たりを判定させる以上,完全に運まかせとはいかないと私は思っている。パチンコファンを自負する者としは,運まかせの権利台が無い現況を少し寂しく思う。そこで是非ともパチンコメーカーさんには復活させるべく尽力していただきたいものである。
さて現代のパチンコはというと,完全にデジパチに置き換わっている。羽根モノといわれる飛行機の機種も一部生き残っているが,それもデジパチ同様,デジタルで羽根を開閉する回数を規定しているデジ羽根と呼ばれるものだけになった。デジパチは先に説明したとおり,完全にコンピュータが当たりの判定を行いランダムな数字を作っては,それが当たりならそれにつながる演出を,外れならそれなりの演出を液晶に映す仕様となっている。それらの演出に一喜一憂しながら楽しむのが,デジパチの醍醐味である。プログラムがどのような思考ルーチンで当たりを判定しているのかなど考えながら打つことは,私のような機械好きには楽しいものである。ましてやパチンコの多くに懐かしいアニメが使われているのでアニメファンとしては底なしの喜びを感じる。チャッカーと呼ばれる入賞口に玉が入るとデジタルが回転して,液晶やスピーカーなどを利用して当たりを予感させる演出を作り出し,打ち手の期待感を煽る。懐かしの名シーンで熱い演出 (当たりを期待させる演出)といわれるものにアドレナリンを放出させ,おおかた損をしているにもかかわらず得をしたかのような幸福感を与えてくれる。大当たりを得た後も,流れる映像で懐かしい思い出を蘇らせつつ,主題歌を鼻歌まじりに口ずさむ。何ものにも代えがたいこの瞬間を味わうためだけに,パチンコをしない人から見れば無駄といわれる時間とお金を費やすのだ。その懐かしい映像を映し出す液晶やその他のパチンコ台のパーツは,目覚ましい技術の発展を遂げており,デジパチを楽しむ上ではかかせないものとなった。今の不況下の日本にあってもなお20兆円産業をパチンコ業界が維持できているのは,私のような人間が世の中にはたくさんいて,企業側としても無視できないほどの市場となっているからだ,と妙に納得できたりもする。
自分の中では本道とはいえないデジパチではあるが,コンピュータオタク,アニメオタクの自分にとっては今のパチンコも十分通うに値するほど魅力的である。そして今日もまた暇があれば,出かけてしまう私がいる。もしこれを読んでみて楽しそうだと思われる方,あるいはもう既にはまってやっている方がおられれば,ぜひパチンコ屋でお会いして大いにパチンコを科学し語り合いましょう。
では,この続きはパチンコ屋で……。
| 次号は,今給黎総合病院の中目康彦先生のご執筆です。(編集委員会) |

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