=== 随筆・その他 ===

認知症と文化


北区・上町支部
(日本尊厳死協会かごしま名誉会長) 内山  裕

映画「わが母の記」
 世界保健機関(WHO)はこのほど,認知症の患者が2050年までに今の3倍の1億1,540万人に達するとする報告書を発表した。先進国だけでなく途上国でも高齢化が進み,患者が増えるという。
 世界の認知症患者は2010年時点で3,560万人。2030年に6,570万人と1.8倍になり,2050年には3.2倍になるという。
 WHOのマーガレット・チャン事務局長は「世界は老い始めた」と訴えている。
 そんな記事に追われるように,私は映画館に足を運んだ。
 映画「わが母の記」は,第35回モントリオール世界映画祭の審査員特別グランプリ受賞を皮切りに高い評価を得ている,昭和を生きた日本の家族を描いた,昭和の文豪・井上 靖の自伝的小説を映画化した親子の絆の物語である。
 絶好調・役所広司が演ずる主人公の小説家は,幼少期に兄妹の中で一人だけ両親と離れて育てられたことから,母に捨てられたという想いを抱きながら生きてきた。しかし,父の死をきっかけに,ずっと距離をおいてきた母の面倒を見ることになり,老いて薄れていく母の記憶の中でも,決して消えることのなかった真実と向き合うことになる。
 名優・樹木希林が演ずる母親は,次第に記憶をなくしていき,夜に徘徊するようになり,我が子のことまでわからなくなってしまう。樹木希林は,記憶をなくしながらも,人間の可愛らしさと怖さを,ユーモアを交えながら表現している。親子なのに記憶をなくして他人になっていく悲しさと,それでも根っこから消え失せることのない我が子への想いが,観る人の胸を熱くさせ,しみじみと情感が広がる。
 伊豆の自然,軽井沢を舞台に山の麓に広がるわさび田,海から望む富士山など,ずっと残しておきたい日本の美しい風景が存分に切り取られている。そんな中で,記憶を脱ぎ捨てていく母親への慈しみに満ちた家族の眼差し,老いも死も人生の大切な一幕であることを物語ってくれる。
 たとえ時代が変わり,社会が複雑になり,困難な未来が訪れても,家族の絆だけは変わらない。人と人との絆の大切さを知った今の時代にこそ相応しい,希望に満ちた普遍の愛の物語である。
 認知症の問題を描きながら,決して残忍な捉え方はされていない。むしろファンタジーみたいな感じの愛の物語である。

純粋痴呆
写真「痴呆の哲学」

 東京大学名誉教授・大井 玄博士の「痴呆の哲学」(平成16年)という著書がある。大学を定年退官後,臨床医として終末期医療に取り組んでいる著者が,宅診に来てもらいたいと願っている患者の間で老人キラーと呼ばれている評判を披露しながら,認知症老人観を詳細に語っている好評の一冊である(写真)。
 本の帯にはこう書かれている。
 『かつて痴呆になることが抑えようもなく怖かった時分がある。年月を経た今,立派な老爺になり,もの忘れはおろか,あるはずのものがなく,ないはずのものが突然現れる現象にも慣れてしまい,かつての恐怖感が消滅してしまっている。
 かの「恍惚」という幸福な世界に向かっているのだろうか。
 ではなぜそのような変化が起ったのか。知人,友人と話すと,ほとんどはさまざまな度合いの痴呆への恐怖や嫌悪感を抱いているようだ。とすれば,わたしの痴呆についての認識の変化を知ってもらうのも無駄でもあるまい。なぜならその変化は痴呆老人の観察と共に生じたものだからだ。』
 詳細な考察が語られる中で,ひときわ興味を引くのが,「純粋痴呆」が生きる文化,という項目である。
 老人の所作が多少奇矯であっても,周囲がそれをお年寄りの普通の行為だと受け入れてしまえば「ぼけ老人」は発生しない可能性がある。つまり,周囲の老人を見る目が許容的であるならば,老人にとって対人関係に絡むストレスが小さく,知力が低下していても周辺症状である精神症状を現さない可能性が大きい。知力が落ちたまま「正常老人」として生活できる。人間関係の妙といえよう。
 換言すれば,精神症状の発現率は,その地域が老人に対しどのくらいあたたかく心地よい環境を用意しているかを示す社会指標になりはしないか。
 そんな観点で,沖縄在住の真喜屋精神科医の論文を紹介している。沖縄佐敷村で行われた65歳以上の老人708人全員についての精神科的調査によると,明らかに老人性痴呆と診断できる老人は27人,全体の約4%で,東京での痴呆老人有病率と変わらないにもかかわらず,全症例を通じて鬱状態や妄想・幻覚・夜間せん妄症状を示した痴呆はいなかった。これを東京都調査での,痴呆老人の2割ぐらいが夜間せん妄を現し,半数にその他の精神症状があったことと比べると,信じがたい知見であるし,また鬱状態が全く認められないのはこれも驚くべきことといえる。
 調査の考察では,「佐敷村のような敬老思想が強く保存され,実際に老人があたたかく看護され尊敬されている土地では,老人には精神的葛藤がなく,たとえ器質的な変化が脳に起こっても,この人達には,鬱状態や,幻覚妄想状態は惹起されることなく,単純な痴呆だけにとどまるのではないかと考えられる」と述べている。
 この考察は,大井博士らの沖縄県那覇市,読谷村,名護市での調査によっても裏付けられている。高齢者がたとえ呆けても,鬱状態や精神症状を伴わない,いわば「純粋痴呆」として生きることの出来た沖縄の懐の深い文化を思わざるを得ない。
 沖縄には,痴呆があっても社会生活を営むことが出来る,ゆったりとした時間が流れていた。換言するならば,仕事の遂行能力が衰えても,その衰えを目立たせない許容時間があった。
 精神症状を伴わない「純粋な痴呆」が生存できる世界。高齢者にとって人間関係から生ずるストレスが最小に抑えられた社会。記銘力の喪失のみか時と所の見当さえなくなった高齢者が,威厳をもって生活できる共同社会。
 こんな地域社会の再生を,実現を,予感するのは夢であろうか。認知症患者の未来に,私は明日の文化を想っている。

ある受容
 数回訪れたグループホームで,お茶をご一緒したことのある認知症患者のあの人この人,懐かしく想い出していたある日,「在宅ケアネット鹿児島」のメールでいい話を聞いた。こんな話である。

 あるグループホームに入所していた認知症のお年寄りが,自殺をほのめかす言葉を残して外出しました。後を追った介護士。引き留めても感情が昂ぶるだけなので,雑談をしながら一緒に歩きました。歩道橋の上で「ここがいいか」というお年寄りに「いや,もっと他の場所がいいですよ」。ビルの屋上に来ると「もっといい場所を探しましょうよ」。そのうちに,お年寄りは当初の目的を忘れ,介護士と散歩をしている気分になってきました。
 夕暮れ近く,お腹が空いたお年寄りは,目に付いたハンバーガーショップに入りました。注文をして,レジの女性に 「いくらだ」とポケットから取り出したのは,くしゃくしゃのティシュペーパー。介護士は一瞬青ざめました。他人から間違いを指摘されると,認知症の人は逆上して不安定になることがよくあるからです。
 でも,レジの若い女性は落ち着いて笑顔でこう答えました。「申し訳ありません。当店においては現在,こちらのお札はご利用出来なくなっております。」お年寄りは「そうか,ここでは,この金は使えんのか」と改めてポケットの小銭を取り出しました。
 介護士は,すっかりこの店のファンになったそうです。

 素晴らしい話のメールを読みながら,私はあたたかい,しかも爽やかな風に吹かれている気分を味わっていた。
 無条件に受容するいたわりの優しさ,人生の最後の難路を歩く高齢者のプライドの尊重,ゆったりした時間の共有,衰えを受け入れ不安と無縁な日常,そんな地域文化が根付いて欲しい,そう願いながら今日この頃の老いを紡いでいる。



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