=== 随筆・その他 ===

肛門疾患と精神症状


中央区・中央支部
(鮫島病院) 鮫島  潤

 肛門疾患はおおっぴらに表現でき難いし,周りの皮膚感覚は敏感で,酷い場合は肛門異臭症,掻痒症とか肛門ノイローゼの人もいる。または肛門の疼痛は激しく,周囲の不快感は拭い切れない。長い経過の間には人間を神経質にしたり陰鬱にする。私の病院にみえる患者さんに精神科症状を思わせる例も多い。2〜3の例を述べてみたい。

*Aさんは手術後一週間位した頃,日暮れ時になって突然「私の娘が迎えに来た,今下の道路にいる」と言う。同室の患者さん達が「そんな人は見えない」と言っても納得せず,寝巻きのまま病院を飛び出してしまった。私はAさんを追いかけ,大通りを200〜300m走ったところでやっとお相撲さんの様な巨体に追いつき腰紐を掴んで引き止めたが,まるで象に鼠が引かれているようで滑稽だったのをおかしく思い出す。結局警察に頼んで精神科病院に入院された。

*Bさんは精神科病院に入院して20年になり,その間病院外に出たことは一回も無かったそうだ。かねても非常に大人しい方で,心配ないということで当院への入院を引き受けた。私の病院で手術も無事に終わり,10日位して不意に病室からいなくなった。病気が病気だけに非常に心配して職員を駅やバス停にやったり,新聞,ラジオに広報して貰ったり,嫌がるテレビ会社にも特別に人捜しを放送して貰ったりもした。後で聞くと本人は鹿児島駅から寝巻きのまま怪しまれもせずに通過し,しかも目指す駅を間違えずに改札を抜けて元いた精神科病院迄無事に帰っていたと電話連絡を受けた。よくも乗車下車を間違えなかったものだ。動物の帰巣本能は恐るべきものだとつくづく感じた。彼は入院以来20年間一回も外出したことはなかったそうだ。

*ある日,刃物を持った男が不意に乗り込んで来て,病院の外来に座り込んで何やら喚きながら患者さんを脅迫するので警官に来て貰った。刃物を振り回す男を誠に手際よく足払いを掛けて取り押さえてくれた。丁度国政選挙戦の最中だったが我々と全く関係の無い人の事務所と勘違いしたらしい。全く選挙は人を気違いにすると思った。

*ある日,外来患者が私のイスの前に座り込んで物も言わずに動かない。私も目をそらすと暴れると思ってじっと睨み合いながら時間が過ぎた。自分より他人が診察が先になったことを恨んでのことだった。私はその頃先輩のS先生が外来の患者に刺し殺された事件があっただけに内心冷や汗を掻いた。事務長が飛んで来て患者を連れ出してくれた。ヒロポン中毒だったとのこと。

*Cさんは大きな事件で警察に追われる身だった。彼の入院中,しょっちゅう警察からの問い合わせや張り込みがあって重苦しい空気が漂っていた。早めに手術を済ませて退院したが,結局は精神科病院に移されたそうだ。

*Dさんは中堅会社の中堅サラリーマンだった。手術後10日位してリンゴを剥いていたが,突然ナイフを刺したまま奇声を上げて踊りだした。皆で宥めて大人しくなったが目は宙に浮いたままだった。聞くと今まで家でも会社でもトイレに行くときは必ずバケツと雑巾を持って排便後に飛び散った血液を拭いていたそうだ。どんな卑屈な思いをしていただろうか?もう出血の心配は無い,脱肛した痔核を押し込むことも無い,その嬉しさは本人にしかわからないことだろう。

*Eさんはまだ退院は早いというのを会社の月末の集金に行かなければならないと言って無理に退院して山川,枕崎と周り行く先々で退院祝いとして酒を飲んでいた。加世田に来たところで集団下校の子供達の列に突き込んで死者,重傷者を出した。そこでひき逃げを遣り,しかも薩摩湖に隠れた。然しとうとう見つかりその後は私が当分刑務所まで往診に行くことになった。お陰で刑務所内の診療という,珍しい経験をした。部屋を出たり入ったりするのにいちいち鍵を掛ける。部屋の視線が一斉に集まる不気味なものだった。彼は後にどうなったか気になる。

*時には精神科病院から往診依頼がある。大体精神科病院は田舎の静かな環境にあるのが普通だ。昔の病院ではまず病室に行くのに鍵を開け,鍵を閉める。ガチャンという大きな音がして,何ともいえない不安感がある。あの感じは刑務所を思い出した。病室で診察に夢中になっていると何時の間にか私と患者の周りは同室の患者さん達が一杯集まってジーッと覗き込んでいる。皆,物を言わないので誠に不気味だ。診察が済むと何事も無かったように黙ったまま散って行く。不思議な経験だった。然し何回か行くうちに馴れて来た。時には入院患者が金網の外に飛んだ野球ボールを,塀を乗り越えて外に出てボールを取ってからまた金網を乗り越えて帰って来るという滑稽な場面も見た。彼らには彼らの生活があるのだろう。

*Fさんは入院前から役場の会計事務で悩んでいたそうだ。この人もある日,屋上の金網を登り,塀を越えて5階から飛び降り自殺をしてしまった。入院前の事情を知らないのだから油断したのも止むを得なかった。今でも残念に思う。

 私は十分な研究をしたわけでは無いが,案外精神的疾患の人が多いのではないだろうか。病院の周囲の山や田の緑は濃く,川のせせらぎ,清らかな空気,鳥の声,野生動物(たぬき,うさぎ,ねずみ等)に囲まれての環境は,自然の好きな私にはたとえ半日を過ぎるような遠距離往診でも喜んで出掛けていた。診察が済んだ後,広い敷地の樹林に集まる小鳥の探鳥を愉しむものだった。
 然し最近病院も近代的な鉄筋コンクリート建てになり,近代的設備を競うようになった。しかも周囲にも住宅が密集し車の騒音も激しくなり自然が破壊され,病院としての人間的情緒が無くなって来たのは残念でならない。



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