=== 随筆・その他 ===
おかしなこと2つ3つ
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1.空耳
私は北側から土俵に上がった。相手の背格好は大体私と同じ位だ。これなら頑張れば勝てるかも知れないと思った。父兄の行司の「始め」の声で両者立ち上がり,4つに組んだ。ところが1分も経たぬうちに私の背は南を向き土俵際まであと30p程の所に私は立っていた。しかしここで全力を出して押せば体位を入れかえて押し出せるかもしれないと考え,私は残ってもいない力を出して相手を押そうとした。その時だ,土俵北側の見物席から「西橋さん,頑張って!」という1人の女生徒の大声が私の耳に飛び込んで来た。
「あっ,そんなこと言わないで。また,冷やかされるじゃないか。」
サハリンの7月,空は青く澄み,山から西の海へそよ風が吹いている。南サハリン(当時日本国領土)の西海岸のほぼ中央部に位置する,大きな製紙工場があり唯一の不凍港と言われていた恵須取市から北へ4里,炭鉱の町,塔路町へ私は昭和16年の8月(5年生)から昭和17年の8月まで(6年生),ちょうど1年間住んでいた。ロシアとの国境まで50qということだった。塔路町は人口2万人と聞いたが,多くは炭鉱がある山塔路に住んでいて街をなし,父が働く浜塔路は寒村で店も2軒しかなく,小学校も各学年1クラスで,学年40数人の男女組だった。
塔路にはK社とM社の2つの石炭会社があったが,M社の方が規模が大きく同級生44人中40人はM社の社宅から通学していた。私達K社側からは男子ばかり4人の通学であった。
7月初め,M社の社宅にある神社の神事が行われた。私達6年生は,その神事に参加したのだ。御影石で造られたその神社は大きくはなかったが,白く輝いて神神しい光を放っていた。
この神社は炭鉱の安全を祈願するためにM社が建てたもので,毎年7月初め神事が行われ6年生男子の奉納相撲があるということだった。
私は女生徒の大声を耳にした時,「あっ,よけいなことを言わないで」と思ったのだが,その瞬間,力が抜けたのか押し出されてしまった。私は冷かされるのを覚悟して南側へ下りた。6月,初めての習字があった時,次の時間,先生が,「最も良く書けた習字を見せます。」とおっしゃって,2枚の習字紙を両手に持って胸の前に出された。1枚は加藤さんのもの,1枚が私のもので共に7級。その時私の近くの男子3人が,「もっと近付けろ。」と叫んだ。あんなことで冷かすのだから今日はもっと冷かされるだろうと考えた。柱のひとつを回って男子席へ近づいた。4本の柱はよく磨かれて大きかった。屋根もついている。本格的な土俵だ。私は山側(東側)の男子席に戻った。誰も何も言わない。まわしを解いて4つに折り角に置いて座った。今度こそと思ったが,それでも誰も何も言わない。私は級友の角力を見ていた。全取組が終わった。最後に5人抜き相撲が行われた。腕に覚えがある級友達が,かわるがわる土俵に上がる。3人位までは行く級友がいるが,その次が進まない。その中で金君(朝鮮人)が3度まで4人抜きをした。金君は暫く休んだ後,再び上がった。そして,とうとう5人抜きを果した。私は心の中でずっと金君を応援していた。金君は勉強のライバルだった。戦中でなければ金君には賞状と副賞が与えられただろうが,物資不足の時代のため褒め言葉だけだった。私の住む社宅には水道が来ていたが,社宅の近くに住む金君の家には水道はなく,彼は近くの井戸から両手に桶を下げて水を運んでいた。その両腕は筋肉隆々としていた。
相撲場では,私への冷かしの言葉はとうとうなかった。帰りは社宅の路地を通って大通りへ出て北へ歩いて学校へ着く。路地でかな,大通りでかな,と内心冷や冷やしながら級友に混じって歩いた。学校へ着いても何事もない。明日教室でだろうか,と考えながら家に帰った。
その後も何事もなかった。私はほっとした。そして,男子は何故冷やかさなかったのだろうと考えた。あの大声が風の吹き具合で男子の席には届かなかったのだろうか。私が勝ちたいと思って起こった空耳だったのだろうか。いや,あれは確かに女生徒の肉声だった。男子が何も言わなかったのは次のような事情だったのだろうと自分なりの結論を出した。
前夜,子ども達は両親から,「明日の神事は非常に大事な行事だ。鉱山に災害が起らぬよう,怪我人や死者が絶対でないように神様にお願いするのだ。厳かに行わなければならない。騒いだり,大声を出したり,喋ったり,笑ったりしてはならない。」と言われたのだろう。
2ヵ月位経ってから私は,「誰が,何故,あんな声援をしたのだろう」と考えた。女生徒の声で思い浮ぶのは,女子で1番勉強が出来る加藤さんだ。先生が授業中質問された時手を挙げるのは,女子は加藤さんだけ,男子は3人ほど。加藤さんが先生に答える普通の声は聞いているが大声は聞いたことはない。だから加藤さんだという確信はない。習字で加藤さんと私が最高の7級をもらったことが,心の繋がりとなって,思わず声援したのではないか。
昭和20年8月9日,ロシアはまだ効力が残っている日本との条約を破って,国境からと恵須取市からサハリンへ侵攻した。塔路町は北と南から攻められた。人々が逃げるのは東の山々しかない。北国の山には食べられるような物はない。加藤さんを含む級友達は無事内地へ引き揚げることが出来ただろうか。テレビでサハリンの名を見ると今でもそのことを思うのだ。
2.幻覚
「幻覚」(現実にない対象があたかも存在するように知覚されること;三省堂・大辞林)
旧制中学4年生の時,私は人吉市の商店街から約1q離れた田園地帯に住んでいた。その一画に100坪程の土地があり,3軒の借家が建っていて,そのうちの1軒に住んでいた。3軒の家の前に共同井戸がある。3月のある日,水を汲みに井戸へ行った。もう1軒の家の40代の主と別の男性が井戸の傍らで立ち話をしていた。2人の会話が耳に届いて来た。
「2〜3日すれば糸が一貨車分来ったい。」と主が言い,「そら,太かことばしたな。ばってん,良う手にはいったな。今は洋服屋も糸ののうて困っとけん高こう売るるばい。おお儲けたい。」と男性が言っていた。
その頃は,空気と井戸水以外はすべて配給制で,それも十分にはなかった。私は「あんおじさんの儲けやれば,ここん土地ば買いやるじゃろう。そしたら俺たちゃ何処かへ出て行かんばならんじゃろうな」と驚いた。
それから1ヵ月位した時「こん頃おじさんの姿ば見らんごたる」と思った。1週間ばかりしてから「おじさんな20q離れた町の精神病院に入院しとんなる」と風評を耳にした。「分裂病げな。おじさんの言うとなったことは妄想ち言うとげな。」
昨年4月の日曜日,私は初めて小学校教員として勤めた球磨川上流の水上村岩野の小学校近くに住む中学校の先輩を2年振りに訪ねてみようと考えて,高速道路に乗った。人吉インターで降りて,いつもは球磨川を渡り,川に沿った南側の主道路を東に進み,鉄道の終点の町で再び球磨川を渡り先輩の家に行くのだが,インターを出たすぐにも岩野へ通じる道がある。こちらの道は人家は少なく,草原,丘,畠が多く車の通りも僅かだ。球磨川の北側を走ることになり球磨川は渡らず支流の川辺川を一度渡る。この道を選んだのが間違いだった。
川辺川を渡ると「高ん原(たかんばる)」と呼ぶ台地がある。雑草と小石の多い土地で,不毛の土地といってもよい畠も作れない土地だ。戦中,特攻機用の滑走路が作られ,その作業に当時中学2年だった私達は狩り出された。その台地を通り抜けて水田が広がる道を走り出して100m程走った時に私の幻覚が始まったのだ。勿論,私は幻覚という意識は全くない。突然道が扇状に広がって30度位の草の道になった。高さ30m位,頂上は幅40p位の平らな台だ。車はそこで一旦停まった。下り坂を見ると土の坂で角度35度位で,長さ70mか。下り切ったところに道路が横に走り赤信号が4つ横に並んでいて,その前に軽の車が4台停まっていた。私の車は一番右側の真上だ。真っすぐ下りると右側の車に当たる。私はハンドルを必死に切りながらブレーキを踏んで下りていった。しかし,ブレーキの踏みが甘かったのか私の車の左前が軽の右後に当たってしまった。私の車は左前のランプが壊れ,軽は右後が壊れた。軽の助手席から中年の男性が降りて来て,携帯電話で警察へ連絡した。間もなく警官がやって来て情況を聞いたり,様子を見たりした。人身事故ではなかったので,私が相手の車の修理費を出すことで話はついた。お互いに自分の住所・氏名・電話番号を書いて相手に渡した。
折角ここまで来たのだから行ってこようと片目の車で岩野へ向けて走った。その後は,過去に何度も自転車で行き来した道と風景であった。
指宿の病院に勤めている時,夕方明りをつけて走っていて,片方のライトが切れているのに気づかず,警官に停められて「整備不良」と注意されたことがあった。だから,いつもは夕食を御馳走になって帰るのだが,明るいうちに家に帰り着かねばと早目に御暇した。事故のことは,全て終ったと思っていた。ところが3日後,人吉警察署から電話があり,「運転者がむち打ち症になり首を痛がっている。人身事故になるから現場検証をしなければならない。次の日曜日人吉へ来て欲しい。緑の帽子をかぶってインターで待っているから。」と言うことだ。「あの坂のある所ですね。」と尋ねると,「坂はありませんよ。」という返事だった。
その日,子供の運転で人吉へ行った。インターを出て,左側に車が5〜6台停まっているが,緑の帽子をかぶった人は見当らない。一旦道路まで出てUターンして来ると白と黒に塗り分けた警察車が1台いた。「あれだろう。」と子供が言うので近づいて行くと警官が一人車から出て来た。警察官の紺の帽子をかぶっていた。「9時と言ったのに遅かったですね。」と言われた。紺を緑に,9時を10時にと聞き違えていたのだ。この時はまだ幻覚状態にあったのだろう。しかしこの2〜3日患者さんはしっかりと診ていたのだ。警官に付いて行き着いた場所は平らな水田地帯で,道路が十字に交わり,信号機は四角に4つ立っていた。あの日見たのとは全く違う風景だ。勿論,坂などない。軽車が1台,信号の手前に停めてあった。事故車だ。その道は片側一車線だった。車が4台横に並んで信号待ちする広さの道ではない。私はその時初めて,自分が幻覚を見ていたのだと判った。
私は何故あの時幻覚を見たのか。幻覚は精神病の人が見ることが多いそうだが,私はあの時4日ばかり精神が狂っていたのだろうか。私が1つ考え得ることは狐に騙されたのではないかということだ。高ん原の草原を走っている時,私は子狐を撥ねたのではないか。怒った親狐が,私に幻覚を起こさせたのではないか。人吉郊外では,夜,ほろ酔い加減のおじさんが野道を歩いていると,狐が若い女性に化けて近づいて来て「お足元が危ないようですね。折角のお土産が駄目になりますからお持ちしましょう。」と言って,家の近くまで来ると,スーッとお土産を持ち去ってしまう,という話を聞いたことがあった。
3.誤解
11月,「勤労感謝の日」が近づいた。この日は,誰が誰に感謝するのか,と考えて見た。まずは,毎日元気で真面目に働く自分に感謝する。次に,それを支える家族に感謝する。そして自分が生活していくために必要な物を提供して下さる方々に感謝する。その日が近づいた時,知人が「祝日は何か予定を立てましたか。」と尋ねた。「いや,まだです。」「何処か行きましょうか。」「いいね。温泉に行きたい。あの龍馬が入った川辺の露天風呂に入ってみたい。」
その日知人は10時に迎えに来た。高速道路で隼人町まで行き,そこから天降川に沿って上流へ向かった。私はTVで見た「龍馬伝」の露天風呂が今もあると思っていたので助手席から川辺をじっとみつめていた。やがて川向こうに上から川へ水が細い滝の様に落ちていて,平屋(ひらや)が2つあるのが見えた。しかし露天風呂らしいものは見えないのでそのまま進んだ。すぐ川を渡りトンネルに入った。トンネルを出ると両側藪だ。「行き過ぎた。」と運転手の知人は言ってUターンして引き返した。トンネルを抜けると左側に小さな看板と小さな駐車場があった。「ここだ。」橋を渡ると1軒店があり,その先に新しい平屋があった。「あれだ。」近づいてみると入口は1つ。ドアに「料金は番台で払って下さい。」紙が貼ってあった。「中に番台があるのだな。人吉の温泉は入口が2つで,その間に番台があって中年のおばさんが座っているが。」と考えて中へ入った。番台はなく,誰もいなかった。
右手すぐに橙色の暖簾,正面2m先に紺色の暖簾,知人がさっと右手へ入った。私も続いた。広い脱衣場。誰もいない。知人が湯舟を覗いた。「誰もいませんよ。入りましょう。」と彼は言って先へ入った。いい気持ちで湯に浸かっていると,誰か脱衣場で何か言っているようだ。湯から出てガラス戸を開けると,「お前達はどうしてこっちに入ってるのか。こっちは女湯だぞ。すぐ移れ,金も払わず入りやがって。」と怒鳴られた。中年の男で温泉主のようだ。私はズボンのポケットに入れていた千円札を「風呂代払っておきます。」と男に渡した。「釣りは受付で貰ってくれ。」と男は言って去った。私達は衣服を持って紺の方へ移った。脱衣場が狭い。若い男性が1人入っていた。建物を出る時暖簾をよく見たら紺には「龍馬」,橙には「お涼」と白く染めてあった。この字と色で,男湯と女湯を区別しているつもりのようだ。
受付へ行った。40代と思われる女性がいて釣りを貰った。怒られたことを話した後,私は言った。「貴女達は龍馬とお涼の名で商売しているから2人の名で男,女とすぐわかるでしょうが,他所から来た人間にはピンとこない人もいると思いますよ。暖簾の角に男湯・女湯と書いておいた方が親切じゃないですか。女湯と知っていて入っていたように取られて,男性は私達を怒鳴りつけたようだが,私達は女湯と気づかずに入ったのです。」
それから本当に久し振りに韓国岳の麓にある食堂へ行って昼食を取った。山を包んでいた雲もそのうちに流れて岳の全貌が見えて来た。おもしろ,おかしいお湯の旅だった。

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