=== 新春随筆 ===

喜寿の弁,米寿の弁



中央区・中央支部
(鮫島病院)
              鮫島  潤

写真 1 南山公園。後ろが住宅地,
冬はスケートで賑わったそうだ。

写真 2 昔の一中校門,車寄せの黒松が優雅だった。
昭和12年同級生塩山君描く。

写真 3 初期の鮫島病院(昭和38年)。
屋上から天保山が見えた。

 何時の間にか喜寿を迎えた当時,始め人に言われた時は,私自身が「本当か」と問い直した位であった。父が大連病院に勤務していた関係で,私は満鉄大連病院で生まれた。当時,東洋一の設備が完備してあり,その頃既に上下水道は完備され,電話もダイヤル式(日本ではまだ無かった)で医員官舎もとても広くて豪華なものだったそうだ(写真1)。待遇は非常に良かったが,冬の寒さはとても酷くそれに耐えかねて間もなく逃げるようにして鹿児島に引き揚げ武町に住宅を構えたのである。
 以下に私の人生の一部を述べてみたい。

 武町の自宅から甲突川を渡って山下小学校に通っていたが,今で言う越境入学である。校庭の真ん中に楠の大木が4〜5本あり,その大きな枝には「ほこら」があった。児童達が朝礼に並んでいると,大きな目玉をクリクリさせて無言で我々を見下ろしている梟(ふくろう)の姿は可愛らしいものだった。夜はホーッ,ホーッと物悲しい特有な声で鳴き,何となく不気味で怖かった。
 その頃の鹿児島は物凄く静かで空気は綺麗だった。夜の星は誠に美しく,それこそ手を伸ばせば届きそうに近く大きくキラキラ光っていて,教科書では箒で掃けば落ちるという寓話を習うものだった。それ程自然が残されていたのである。高村光太郎ではないが,「現在の鹿児島には星空が無い」。私が小学校の頃,大雨が続き町中浸水したことがあった。西田橋を通って帰ろうとしたが,武町方面は大洪水となり,とても渡れない。消防団員の常備船に護られて水の溜まった西田本通りを今の鶴丸高校の当たりまで送って貰ったことがある。
 山下小を卒業して一中(現在の鶴丸)に入学することになった。校門を入ると正面に大きく円形の車寄せがあり,その築山に植えられた黒松は非常に上品で風格を持ち威厳のある雰囲気だった(写真2)。校門の右手の後ろは自然林が鬱蒼と茂り,博物館や寄宿舎があった。その中庭で我々の農業の時間には実習農場の野菜に肥えタンゴを担いだこともある。別に広い花壇もあってスイトピー,ダリヤ,菊などの花卉類を育てていた。校訓では「質実剛健」を旨としていたが,人間として大切な情操教育も十分教えられていた。校庭の一角に橡(とち)や楢(なら)の小高い森があったが,我々はそれを「落第山」と呼んでいた。意味は判らない。校庭の全周を取り巻くように,銀杏の並木や背の高いすらりとしたユーカリも並んで四季それぞれの景色を醸し出していた。当時(昭和12年頃),一中には余所には見られない水泳プールがあった。なにせ周りは広い田圃だったため,プールには常に蛙が飛び込んでいた。我々はそれを「ドンコ (蛙のこと)プール」と読んでいた。そこで我々は陽の暮れるまで遊び呆けるものだった。
 一中の年中行事として全校マラソン競争があった。校門を出て花岡通りを一直線に玉江橋まで走ったが,その頃周りは広い広い田圃で人家はまばらだった。マラソンをする白いランニングシャツ姿の列が,甲突川縁の田圃の向こうに走ってゆくのを見るのは絵になる光景だった。また毎朝の朝礼では,上半身裸で軍隊式の体操をしていて,それを「裸踊り」と言っていたが,八重山颪(おろし)の冬の寒さはきつかった。当時,原良に紡績工場と火力発電の大きな煙突があり,その煙が南の風に変わるともう春が近いというしるしで,嬉しくて堪らないものだった。小学時代は病弱で休学したほどだったが,一中卒業の時は皆勤賞を貰うほどだった。優秀な先生方,親しい友達に恵まれて有意義な学生時代だったと今更のように感謝の念で思い出している。
 一中時代に大東亜戦争勃発,度重なるB29の爆撃,疎開生活そして敗戦。戦後は大変な食料不足,私の病院は祖父から父に継承されていた。戦中戦災に遭ったが直ぐ病院の復興にかかった。まだ周りは焼け野原の時代に鉄筋建築の病院を建てたが,まだ珍しい頃で屋上からは天保山が見えていた(写真3)。その頃父の後を私が継いだのである。
 私も喜寿を過ぎて病院の基礎も出来たし,長男夫婦と次男が帰って医業を継いでくれた。病院の加治屋町への転地増築も果たし内容も充実してきた。有り難いことだ。私もかねがね医師会の皆さんにお世話になっているからと微力ながら看護専門学校の講師を33年間務めたものだ。また市医師会報にも何かと投稿させて頂いた。時には「読んでいるよ」と声がかかる。院内広報誌も季刊で発行しているが,これも大分溜まった。振り返ってみると文章はまずいし語彙も貧弱,恥ずかしく思っている。
 何かと過ごしているうちに何時の間にか喜寿を過ぎて11年,あっという間に米寿を迎えた。早いものだ。家内,職員一同に祝って貰い,市医師会,日本医師会からも丁重なお祝い品を頂いた。私からは何もしてないのに申し訳ない気持ちだ。
 お陰様で孫達3人が医学部に入ってくれた。医学の道も日進月歩で進んでゆく。もう年寄りは診療に従事出来なくなって来た。私も次第に目はかすみ,耳は遠くなり,腰も「どっこいしょ!」と声をかけなければ起き上がれない。仕方が無い,米寿だもの。先祖の墓に参って碑銘を見ても昔は非常に怖かった祖父や父が米寿を超えていない。この頃新聞を見てもつい死亡欄に目が行く。80〜90代が多い。70代の人の記事を見るとさぞ心残りだっただろうと思う。定年は60歳といわれているが,私の60代は医者として一番忙しかった。あの忙しさが却って体のために良かったと思う。今後の一生は若い世代にすがって余生をのんびりと過ごしたいと思う。そうは思っても聖路加のH院長先生は100歳超えて矍鑠として診療しておられる。医局のN先生は90歳を過ぎた現在でも内視鏡をやっておられる。米寿ぐらいで卒業してはならないのかなと思うこの頃である。米寿の今,子供の頃病気がちだったのが夢のようだ。こうなるともっと生きたいという欲も出たりするこの頃だ。




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