=== 随筆・その他 ===
「北辰斜に」と「楠の葉末」
中央区・中洲支部
(眼科川畑医院)
川畑平一郎
鹿児島大学医学部は開学30周年に公募して記念歌を作った。その時歌詞として採用されたのは鹿大一外科教授であった故 西 満正君の作である。他の学部にも前身の専門学校の校歌,その後,学部として作られた学部歌・記念歌等多くあり,代表的な歌は「鹿児島大学 寮歌・学部歌 歌集」と題するCD (2011年1月発行)に収められている。
写真 七高生久遠の像と歌詞を刻んだ石碑
然し,鹿大のイベントでは何故か七高寮歌の「北辰斜に」が歌われている。鹿大生及び卒業生が,七高を鹿大の前身として誇りに思って下さるのは七高卒業生としては誠に嬉しく又有難いことである。
昨年春,桜の咲き誇る黎明館を家内と訪ねた。七高生久遠の像の前に,右に「北辰斜に」,左に 「楠の葉末」の歌詞を刻んだ石碑があるが(写真),関西方面からと思われる旅行者がその石碑を興味深げに見ておられたので,此処は旧制高校の跡であること,寮歌の由来,この「北辰斜に」と 「楠の葉末」の2つは全国で歌われている有名な寮歌であることを説明し,「楠の葉末」を口ずさんであげた。旅行者も喜んで下さったが,初めて聴く私の七高寮歌に家内が感激していた。
私が第七高等学校造士館に入学したのは昭和16年4月で,その年の12月に大東亜戦争が勃発した。戦時中の為卒業は半年繰り上がり,昭和18年9月の七高卒業である。七高一八会として全国各地で年1回の集まりをしていたが,数年前にこれが最後と鹿児島で集まった。然し,中々会を閉じることが出来ず,新幹線全線開業ということで,最後の最後と去る5月25日,城山観光ホテルで七高一八会が行われた。
七高入学時1学年240人であったが,生存者は60人足らずとなっているようで,当日出席者は会員18人,家族11人,合計29人で,まあまあの人数であったが,この1年間に亡くなった者が9人であった。
河合楽器のスコアメーカーという楽譜作成及び楽譜を楽器演奏させるPCソフトで,寮歌集にある「北辰斜に」と「楠の葉末」の楽譜を認識させてCDを作る作業を試みたが,手書きの楽譜なので正しく認識できず,手作業で(勿論PC上で)正しく音符等を入力した。演奏は多くの楽器の中から選べるが,グランドピアノを選択し,「北辰斜に」は最後の一小節を繰返しにした。
「楠の葉末」をグランドピアノでゆっくり演奏し,Table for twoの曲を伴奏に入れたCDを作り,亡師・亡友の霊に黙祷の際静かに流した。皆,眼を潤ませる鎮魂のひと時であった。
「日本寮歌集」(Universal Music)という2枚組のCDがあり,加藤登紀子が歌っている。全国の有名寮歌が収められているが,七高は「楠の葉末」が選ばれており,涙ぐんでいるのではないかと思う加藤登紀子の名歌唱に感激するが,第1,第5章をCD編集ソフトで抜粋して会で流した。
宴果てる頃,内科の福田正臣先生(昭和17年3月七高卒)が突然飛び入り参加された。「北辰斜に」の前に「巻頭言」が朗詠されるが,福田先輩の「巻頭言」は七高随一の名調子として讃えられている。その福田先輩の朗々たる「巻頭言」に続く「北辰斜に」の全曲合唱で会が閉じられたのは感激であった。
七高(他の旧制高校,特に一〜八高のナンバースクールは殆ど同じであるが)50年の歴史の中で,毎年の創立記念日記念祭で各寮から記念祭歌が発表されて可也の数であるが,歴史に残る歌はそんなに多くない。中でも「北辰斜に」と「楠の葉末」は作詞も作曲も抜群に優れており,口ずさむ度に理想に燃えていた青春時代が蘇る。
「北辰斜に」の「巻頭言」
流星落ちて住む處
あくがれの南の國に
結びも終へぬこの幸を
若い高らう感情の旋律をもて
歌は悲しき時の母ともなり
橄欖の實の熟るゝ郷
つどひにし三年の夢短しと
或ひは饗宴の庭に或ひは星夜の窓の下に
思ひのまゝに歌ひ給え
うれしき時の友ともなれば
いざや歌わんかな北辰斜め
いざや踊らんかな北辰斜め Eins Zwei Drei !!!
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