平成21年1月10日の朝日新聞付録欄に聖路加国際病院理事長 日野原重明先生の「生活座禅のすすめ」が掲載されていました。仏教の坐禅を修行,弁道する1人として多くの人に読んでもらいたいと思い,著者の許しを得て引用させて頂きました(下記参照)。
 |
| 朝日新聞Be「あるがまま行く」平成21年1月10日より引用 |
坐禅は@背筋を伸ばして端正な姿勢を調える(調身:正身端坐),A呼吸を調える(調息),B精神統一をはかる(調心)につきますが,@とAは生活座禅と全く同じです。日常生活の健康保持増進が目的でありますので,十分な効果が得られます。特に生命活動の基本が呼吸であり,呼吸運動が自律神経によって調節されており,前屈のやや圧迫された胸腹部の自律神経の働きの低下が解除されることによって消化器官への血流の改善がみられ,機能の活性化がみられるものと考えられています。
高齢者の呼吸はやや低換気気味であり,外来でSpO2(動脈血酸素飽和度)を測定しますと93%,94%と低い人が多く,聴診上肺胞音の異常がなければ,6回以上10回程度の深呼吸により98%にまで上昇がみられ,十分な換気能力があることがわかります。
脳の活動に酸素が必要なことはいうまでもありませんが,禅の修行者は,大脳の働きは絶対安静の状態にあり,脳波もα波β波を示し,安静(定常)の状態であることを証明しております。
お釈迦さまが悟りを開かれた時の発声が@奇なる哉,奇なる哉,一切衆生,皆如来の智慧徳相を具有せり。しかれども倒妄想の故に,之を知る能わず,A因縁所生の法なる故に我れ是を空と名づく。インドの王家に生まれ,これ以上の裕福は考えられない豪華な生活をされたと思われる釈尊は人生の無常や諸苦労から解放されようと苦行を試みられたが何も解決は得られなかった。贅沢な生き方もだめ,苦行の生き方もだめ,中道を行こうと死なない程度の食物をたべ,坐禅の実行に入られ,明けの明星を見て,開悟された。悟りの内容が@Aであります。
@の内容は,一切衆生悉有仏性。「仏性は縁によって何にでもなれる性質能力,作用のことである。禅門では衆生本来成仏,坐禅によって更なる仏道を実践実行するのであります(成仏道)。智慧と徳相は,二つあるのではなくて,生きる智慧の中に含まれる慈悲の心であり,悲智円満の仏さまという意味であります。自然界は仏性(法性)の因縁の作用による現象の一時的な姿であり,実体がないので空と名づくと。仏の教え(仏教)は仏性平等,因果差別,因縁性空であり,仏性平等を無自性,因果差別は因縁生であり,自然界は諸法是皆因縁生。因縁生故是無自性。云々」仏教教理であります。般若心経では,仏性平等を空,因縁生を色と呼び自然界を色即是空,空即是色と自覚しております。仏教は,言葉や現象を通して,仏性の因縁による一時的姿であることを理解しなければならない。須らく言を尋ね,語を逐うの解行を休すべし。須からく回光返照の退歩を学すべし。身心自然に脱落して,本来の面目現前せん。恁(いん)もの事を得んと欲せば,急に恁の事を務めよ。仏教教理は言葉や思想的な学問の進歩では理解できない。光を自分の方に向け,自分を照し,坐禅という退歩を行いなさい。そうすれば身心が自然に脱落して,本来の面目(本来の自己,大先天性の自己,宇宙大の自己,煩悩の取れた自己)が現前しますよ。悟りを得ようと欲するなら急いで坐禅に努めなさい。自分が仏(生き仏さま)であることがわかりますよ(見性体験)。
人が生れる時のオギャーの第一声(呼気による)が呼吸の始まりで,生活の出発であり,仏教では,天上天下唯我独尊と環境に順応していくのが生命の活動ですが,後日年を経て身体全体の機能も低下し,最後の呼気で生命活動が終了するわけですが,その間,吸気,呼気は繰り返され,命の営みが続いている。この眼にみえない,思想でははっきり表現できない,因縁によって何にでもなって現われる性能を仏性といっており,仏性の働きの現われが現実の生命体である。生き仏さまと自覚しており死んでから仏さまになるという宗派もありますが,坐禅によって即今,ここで生き仏さまを悟ることが出来るのであります。人間の本質は仏性であり,縁によって何にでもなって現われる性能をもっており,日常の行動は,無意識的に仏性の現われであるといえるのであります。釈尊の悟りに比べればごく小さな浅い悟りではありますが,悟りの性質は変わらないので正師から,悟り(見性悟道)の認可がおりても坐禅は続けて行くべきものです。
普勧坐禅儀の中に「坐禅は習禅にあらず,只これ安楽の法門なり。菩提(仏道とも衆生本来成仏とも悟りともいう)を究尽するの修証なり。公案現成,羅籠いまだ到らず,もしこの意を得ば,竜の水を得るが如く,虎の山に靠よるに似たり。まさに知るべし,正法自ら現前して,昏散まず撲落することを。」とあります。
「習禅」とは無念無想になって精神作用を止めることであり,無心定といっております。ここでいう普く勧める坐禅は習禅ではなく,安楽の法門である。少しも苦行ではなく,身に危険もなく,心に不安もなくて,それで正しい道に入って行くことが出来るから安楽の法門というのです。「菩提を究尽するの修証」とは,仏道(菩提)を究め尽くすところの修行であり同時に,悟りの実現実行であるとの精神であります。
坐禅が仏道修行であることはある程度,誰にでも想像がつくと思いますが,坐禅が悟り(衆生本来成仏)の実現実行であるということは,余程深く仏道を究めた人でないと納得出来かねるものであります。坐禅は修行中といわれる所以であります。「公案現成」とは,仏道が実現するということであり,公案という言葉は元は公文書(まちがいのない文書)という意味であったのを,正しい,悪くない,仏道とか悟りとかいう意味に用いることになったのであります。「羅籠いまだ到らず」は,網や籠のことであり,網や籠に入れられたら,不自由でありますが,そうでなければ本当の自由人になれるという意味であります。「竜の水を得るが如く,虎の山によるに似たり,まさに知るべし,正法(仏道とも仏法というも同じ)自ら現前し昏散(坐禅中に雑念の起ることと睡魔に襲われること)まず撲落することを。」とは,坐禅をすると自由の働きと絶対の権威とを具えるという精神を竜と虎を例に出しており,真剣に坐禅をやると仏道が自然に現われて昏沈の病も散乱の病も,まず第一にぶち壊れてふっとんでしまうということを知りなさいという程の意味であります。坐禅によって二元対立の相対的思想が段々少なくなって本来の自己(仏性)に相見することが出来るのであり,これを見性といい,坐禅を続けていくと,只呼吸をしている本来の自己(絶対全一の事実)に気づくのであります(見性悟道)。見性悟道の証を授けられても修行は更に続けなければならず,修行の終りはないのであります。道元禅師が悟りを開かれた坐禅の時の心境は,心身脱落脱落身心でありました。
坐禅修行を専一とし,一体三宝,現前三宝,住持三宝(一体,現前,住持三宝)即一の自己を信じて,只管打坐が仏道修行であり,仏の坐禅であり,純一仏法,正伝の仏法であります。
坐禅の修行(絶対全一の事実を実践実行)
上智下愚を論ぜず,利人鈍者を簡(えら)ぶことなかれ。専一に功夫せば正に是れ弁道なり。修証自ら染汚せず,趣向更に是れ平常なる者なり。
中,高,大学の同窓会の古稀祝いから早や2年が過ぎました。「明日ありと思う心の仇桜夜半には嵐の吹かぬものかは」親鸞さまの歌ですが,「一寸先は暗だぞ」,「しっかりと一日一日を充実して生きなさい」といわれて来たが,真に実行して来たのだろうか。坐禅修行によって坐禅が仏境界であり二元対立を超越した世界であるので,生死は殆んど気にならないが,いつかは呼吸が止まる時が来るのだとは自覚している。喜怒哀楽の人間社会を実質的には相互扶助の心で生きて来たのだと思う。お互いに,生かされて生きている事実であります。わがままな心を調節し,皆がケンカしないで仲良く生きて行く以外の安心,安楽の幸せな平和な生き方はないのですから。虎は死んで皮を残し,人は死んで,空を残す。72年間の生命に対し,両親を始め先祖様,同年輩の社会,日本国,仏道の法縁を頂いた三種三宝の師僧 高橋禅師様に感謝致します。
「十方三世一切仏,諸尊菩薩摩訶薩,摩訶般若波羅密」合掌。
|