=== 随筆・その他 ===

80年前の甲突川


中央区・中央支部
(鮫島病院) 鮫島  潤
写真 1 天保山砲台跡
(この向こうはすぐ海だった)

写真 2 天保山にある掩体壕

写真 3 天保山から数百m上流のところにあった
老松(現在は無くなっている)
    舟が繋がれていた

写真 4 当時は甲突川右岸の土手に馬を繋いで
作業をしていた「南日本新聞」より

写真 5 加治屋町周辺の甲突川の写生
(唐傘や紬織りの伸子張りが干してある)
    「鹿児島回り灯籠」より

写真 6 新上橋周辺の写生(舟が着いている)
    「鹿児島回り灯籠」より

 今まで何回か甲突川の思い出を書いてきたが,私にとって甲突川は特に感ずる所が多いので少し補足しておきたい。
 先日天保山に行ってみた。薩英戦争の砲台跡の台座が丸い敷石ではっきり残されている。ここから園之州や袴腰沖の英国艦隊に砲撃を浴びせ,遂に敗走させたのだ。激戦の錦江湾を見渡せていた筈のところだったが,目の前に大きな病院が出来て景色を遮っている。誠に残念な光景だ(写真1)。
 直ぐ隣には第二次大戦の時,ここ天保山にも高射砲陣地があった為,ここに大きな掩体壕が残されている。物凄く厚い鉄筋コンクリートで何しろ70年近くも経っているので周りの樹木が生い茂っていて,良く見ないと判らない。今何に使っているのだろうか。B29の来襲の際,此処から打ち上げた高射砲弾がB29まで届かず,やたらにその破片が落下して危険だったことを思い出す(写真2)。
 砲台の松林から先は広い河口だった。向かい側,今の下水処理場の辺りは広いごみ処理場になっていて,市内各所から大八車に積んできたごみを焼いていた。周囲は悪臭が酷かったが,そのごみを目掛けてカラスの大群が数百羽も群れていて餌を漁り,夕暮れになると西日を指して武岡方面へ三々五々群れを成して帰っていったが,“烏が鳴くから帰ろう〜”の童謡の詩情を思わせた。夜になると塵を焼く火がちらちらと揺れて鬼火みたいで,その不気味さを子供心に恐れたものだ。
 天保山の松林は10年ぐらい前の全国的松くい虫の猛威にも踏み堪え青々と茂っているのは頼もしい。然し,あの松林までが河口で対岸まで200mほどあった。子供などとても渡れそうもなかった。若い連中は泳いで往復するのを自慢にしていた。ところが県当局はあそこに大きな病院,待合ホテル,保養所などを建てて折角の広い川幅を狭くしてしまった。財布の巾着を閉めた様なものだ。今後予想外の洪水が来ないとは限らない。来ると思ったほうがよい,今度の東日本大震災が証明している。
 また,あの松林については別な思い出がある。あの松の根元に粗莚を立て掛けて住んでいる人々がいた。十人ぐらいはいただろう。髪は茫々,色は黒く白い歯を見せてニタニタ笑う時は怖くて逃げ出すものだった。所謂,精神障害者(統合失調症)だったと思う。それでもそんな人は案外人気者だった。また,鼻や耳の欠けた人とか物貰いの人達もいて一種の村を作っていた。時々警官が来て取り締まったりしていた。
 今の天保山大橋の袂,釣り道具屋さんの辺りから対岸に細い木造の橋が架かっていたことがある。番人がいて3厘(?)の通行料金を取っていた。当時円・銭・厘が通貨単位で葉書が1銭5厘だった時代だ。この橋は間もなく無くなった。
 その辺から数百m上流のところに枝振りのよい老松があった。枝を川のほうに伸ばした姿は美しかった。よく数隻の小船が繋いであるものだった。現在は無くなっている。大分年を取って虫にやられたりしていたから枯れてしまったのだろう。惜しいことをした(写真3)。その対岸に多数の豪邸(?)が見えて○○楼と名前がついていた。「沖の村」と言う遊郭(貸し座敷)だったが,子供には何か判らない。「桜の無いのに桜島,村長の居ない沖の村,石で造った武之橋」と言われていた。
 戦後までは天保山橋も天保山大橋も二本ともまだ無かった。だから帆掛け舟が武之橋まで上って桜島,大隅方面の野菜や果物を運んできて,武之橋右岸の石畳を牛で運び上げ待機していた馬に乗せ替えて谷山街道を山川,加世田,枕崎方面に運んでゆくことは前に書いたことがある(鹿児島市医報 第50巻 第5号「80年前の鹿児島風景」)。
 武之橋から上流に進むと丁度上之園町,市営バスの駐車場,T外科の曲がり角のところが武町方面から流れる川の出口で豊富な水が甲突川に流れ出す辺りに船着場があったものだ。船着場は西田橋,新上橋にもあって常に豊富な水が流れていたが,現在暗渠があるだけだ。あれだけの水が何処へ流れるのだろうかと市役所で調べてみると,8・6水害の後,原良,西田・田上方面の水は新しく大きな配管を通してまとめて高麗橋の近くで甲突川に逃がしているとのこと。なるほどと思う。
 甲突川の左岸は昔から河頭石の石垣だったが,右岸はただの土手でよく馬が繋いであった(写真4)。梅雨前になると,柿渋を塗って出来上がり直前の唐傘とか紬織りの伸子張りなど干してあるものだった。日当りがよくて,ごみが少ないからだという。加治屋町の西郷誕生地の向かい側だ(写真5)。またこの辺りは「曽我殿の傘焼き」の時は川の真ん中に島を造って数百本の和傘を焼いていたが,その燃え盛る炎は誠に見事なものだった。然し,近年和傘が集まらないので曽我殿の傘焼きは続けられるのだろうか心配だと聞く。
 この辺りの楠の大木の洞ではふくろう(梟)が鳴いていたものだ。また昔は大きな柳の木があり,梅雨時など五位鷺が何時までもじっとして五位という高貴な位の貫禄を見せていたものだ。鴨・鴎・各種の千鳥・鶺鴒がそれぞれ縦横に飛び交い,夜,不気味に啼く川鵜の声を「ガラッパドンが鳴く」というものだった。昼は鳶も上空を舞っていた。シラス(鰻の子)の群れが川を遡っており綺麗だった。勿論鯉,鮒,手長海老(ダッマ),ごもんちゃん(ハゼ)なども多数泳いでいた。総じて昔は川の水量も多く,魚類も豊富で子供のよい遊び場だった。何時もそれを思い出す。
 さらに新上橋の上流右岸に階段があって,そこも船着場でそこから荷物を上げて,薬師町,原良町方面行きの三角形の広場に野菜市が立つものだった。その一隅に薬師如来堂があったが今何処に行ったのやら…(写真6)。
 8・6水害の後,県当局は川底を2m掘り下げると何回も言っていたが,工事中私はずっと見ていたがそんな様子はなかった。2mも掘れば船が自由に交通できると思っていたのだ。現在は前よりも随分浅くなっている。今後,洪水が来たときはどうなるのだろう。
 私の先輩,白浜先生はよくスケッチ帳を持って市内各所を写生しておられた。私も良く出歩いていたので良くお見掛けしたものだ。今回の原稿はそのスケッチブック(鹿児島回り灯籠)を参考にさせて頂いたものである。この本の絵と文は,非常に鹿児島の昔を偲ばせて,所謂“鹿児島・記憶遺産”に残したいと思っている。

このサイトの文章、画像などを許可なく保存、転載する事を禁止します。
(C)Kagoshima City Medical Association 2011