=== 随筆・その他 ===
ユーラシア大陸横断記(5)
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幸福のアラビア
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写真 1 駱駝の焼き肉
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写真 2 ホテルの屋上から
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かつてアラビアには3つの国があったという。ひとつは現在のサウジアラビアに位置する「砂のアラビア」。そして「岩のアラビア」。これは現在のヨルダンやシリアの辺りに相当する。もうひとつがアラビア半島南端にあたる「幸福のアラビア」である。シバ王国の頃には,海のシルクロードの中継点として大いに繁栄した。この分類でいくと,イエメンは「幸福のアラビア」の末裔とでもいえるだろうか。
イエメン滞在の数日間は瞬く間に過ぎていった。旧市街を心ゆくまで散策し,マーシーのサヌア近郊ツアーに参加し,現在のイエメンを垣間見ようと新市街にも足を延ばした。カートを噛みながらマーシーと色んな話をした。結婚式の宴も見物した。チキンの丸焼きや駱駝の焼き肉,魚の丸焼き,マーシーのサヌア近郊ツアーで寄ったホテルでは,客人をもてなす為の立派なイエメン伝統料理の数々を口にした(写真 1)。果物をその場で搾ってくれる生ジュースや,練乳がたっぷり入ったこってり甘いチャイを飲んだ。多くのアラブの男達の親切に触れた。ホテルの屋上から夕日に染まった「幸福のアラビア」の末裔たるサヌアの旧市街を飽かず眺めた・・・(写真 2)。
バックパックが無事戻ってきた私は,憂うべきことがなくなり,晴れやかな気分で旧市街を彷徨うことが出来た。昨日荷物が行方不明の状態でも私の心をうきうきさせてくれた旧市街だが,今日はその魅力を一段と増したようだった。
ほとんどの道が,幅は車が1台通れる程度,広くてもやっとすれ違えるぐらいである。なので旧市街の中にはあまり車は走っていない。道は必ずしも真っ直ぐではないし,碁盤の目状に区画整理されているわけでもない。車が発明される遥か以前からの街並みであり,車の走行を考えて街が建設されていないので車で走ろうと思わないのが普通だと思うのだが,それでもやはり車を走らせる輩がいるのである。歩いていると前方から車が道幅いっぱいにやって来て,歩行者が引き返して手前の角で車の通過を待たねばならないという困った事態が起こり得る。行き先の道が思ったより狭く,立ち往生している車も見掛けた。すれ違いざまに車が擦れ合う,あるいは壁にぶつかるということもありそうだ。そういう道が縦横無尽に旧市街を縫っている。曲がりくねっているので容易に方向感覚を失う。灼熱の太陽のもと,敢えて地図も見ずにぶらぶらしていると,不意に先程の場所に戻ってきてしまうことがあるのだが,それがまた楽しいのだ。では今度はこっちの方へ進んでみようと新しい景色が広がっていくのである。歩き疲れて,少し休もうかと,広場の隅にあったジューススタンドでマンゴージュースを買ってみる。たっぷりのマンゴーの皮を剥いてミキサーに入れ,グラスになみなみと注いでくれる。この至福の一杯は50リエル,約25円だった。マンゴージュースを片手に路傍に腰掛け,子供達が遊んでいるのに目を遣る。イエメンでもサッカーが人気のようで,ラインやゴールのない石畳の広場で一心不乱にボールを追っていた。私も子供の頃は,さすがに石畳の広場ではなかったが,彼らの様に無邪気に外で遊んでいたものだった。こんなノスタルジックな気分になるのも,街の雰囲気がそうさせるのだろうか?
私はバーバル・ヤマンに向かっていた。バーバル・ヤマンとは「イエメン門」という意味で,かつて城壁で囲まれていたこの街で唯一残っている門であり,旧市街一の繁華な場所である。私の宿からバーバル・ヤマンに行くには,ちょうど旧市街を横切る形になる。色んな道や路地を通り,いくつかの広場を抜けていくと,だんだん人通りが多くなり,道の両側に店舗がたくさん並んだスーク(市場)に出た。このスークも,食料品や日用品,洋服や工芸品等を商う店が軒を連ね,多くの人々が買い物をしており活況を呈していた。スパイスの香りや羊肉の独特なにおいなど,嗅覚への刺激も強くなってくる。ジャンビーアを佩いた伝統衣装の男,黒いチャドルに身を包み子供の手を引く女性,荷物を載せた手押し車を押す商人・・・。商店を冷やかしながら歩き,店が途切れた所がバーバル・ヤマンだった。そこもまた広場のようになっており,露店が出ていて,実に多くの人でごった返していた。私はその場の熱気から逃れるように門の上に登り,古より続けられてきた人々の営みに見入るのだった。
マーシーのサヌア近郊ツアーに参加するには,「パーミット(滞在許可証)」が必要だった。治安情勢があまり良くないので,外国人旅行者の動向を知っておきたいということなのだろうか。パーミットを持っていない外国人は,サヌアを出る検問所で追い返されるという。マーシーにパーミットを発給してくれる機関の場所を教えてもらい,申請用紙とパスポートのコピーを渡して数時間後,無事パーミットを手にすることが出来た。パーミットを待っている間,狙撃されたり拉致されたりといった不安が頭をもたげてきた。イエメンに来てから知ったのだが,1か月程前,私の祖国の人間が5人射殺され,現地に来たその家族もまた狙撃されたとのことだった。旧市街を歩いていても,身の危険を感じることはなかったが,郊外に出るとなるとそうはいかないのかもしれない。不安な考えは次から次へと浮かんできたが,「でも多分大丈夫」という大して根拠のない楽観をよすがにそれらを打ち消していくしかなかった。
ツアーそのものはあまり印象に残っていない。「ロックパレス」と呼ばれる岩の上のイエメン風大邸宅や,「シバーム」と「コーカバン」という双子の町(岩山の麓にあるシバームは農業を担当し,頂上にあるコーカバンは軍事を担当,お互いに助け合ってきたという)を見たりした。腰に佩く短刀ジャンビーアを振りかざして踊るジャンビーアダンスも目にした。しかし私の心に強く焼きついたのは,一人のサウジアラビアの青年である。我々はある田舎の立派なホテルに遅い昼食を摂りに寄った。我々が席に着くと,隣の席ではアラブの民族衣装を着た若者の集団が既に食事をしていた。また反対側には,我々とほぼ同時に欧米の年配の観光客の団体が席に着いた。私は特別2つのグループに注意を払っていたわけではないが,食事中に欧米人の一人の女性が,若者達に声を掛け会話が始まった。そこで改めて若者達に目を遣ると,彼らの服装はすごく清潔で,みな育ちの良さを感じさせた。また,その欧米人達とは英語でやり取りしていたのだが,流暢な英語を話す。彼らは,その欧米人達との会話を楽しんでいたようだったが,その話し方や身のこなしには,隠しようのない気品と,そして威厳が漂っていた。彼らの中央に座っていた一人の青年は特に目を引いた。彼らの中には,その彼が中央に座することはさも当然という空気があり,彼もまたそれを当然のこととして受け入れているような所があった。かと言って主従といった隔絶した感じではなく,若者特有の和気藹藹とした雰囲気を醸し出していた。中央の青年はしきりに欧米人に「ビューティフル,ビューティフル」と言われていたが,男の私から見ても,確かに美しいと思うくらい整った顔立ちだった。サウジアラビアから旅行で来ていると言っていたが,彼らは高貴な一族の子弟達なのかもしれない。家柄や血筋といったものが脈々と受け継がれ,人の雰囲気にまで影響するということを目の当たりにした思いだった。気品や威厳といったものは,ある者達においては生まれながらに備わっている場合もあるのだろう。私は,自分一人では手の届かない強大な力がこの世に存在することを思い知らされ,自分が随分ちっぽけな存在であるという卑屈な思いに捕われてしまった。
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写真 3 夜の旧市街
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ある夜,旧市街をぶらついた後,宿に向かって帰っていると,旧市街を出てすぐに裸電球をたくさんぶら下げた,にぎやかな広場に出た。お店などはないので,スークではないようだが,人出が多く,楽器の音色やマイクを通した歌声も聞こえる。居合わせた人達に聞いてみると,どうやら結婚式らしい。新郎らしき人とその親戚といった一団が路地の奥から楽器の演奏にあわせて広場にやって来た。周囲を取り囲んでいる人々はみな踊っている。踊っているのは当然全員男である。ここでもやはり女性の姿は見えない。ただ,ふとした時に,裸電球の柔らかい光に浮かび上がった煉瓦壁の住居を見上げると,最上階の窓から女達が黒ずくめの胸像を窓から突き出し,この宴の様子を見下ろしている姿を見ることが出来た。女性は女性同士で,家の上階で宴を開いているらしい(写真 3)。
マーシーが,カートを嗜みながらこんなことを言っていた。「俺はもうすぐ結婚するんだが,相手と会ったことがない。親同士が決めた結婚だ。イエメンの結婚はそういうものなんだ。」今の日本ではとても考えられないことだが,マーシーはちゃんとそういう結婚のあり方を受け入れていた。
新市街には,これといった見所があるわけではなかったが,現代のイエメンの生活振りというか,観光地とは違った素のイエメンを感じてみたかったので,出掛けてみることにした。街の中心からは少し離れたところにあるプレジデントモスクという大きなモスクまで,目抜き通りを通って歩いてみた。石油を産出しないイエメンはアラブの最貧国と呼ばれるぐらいだから,その首都たるサヌアの繁華街も近代的か否かという観点からすれば,断然後者である。高層ビルは建っていないし,走っている車もオンボロだらけである。電気信号機を見かけることは稀で,交通量が多い交差点には警察官がいて,手信号で車の流れを制御している。オフィス街らしき地域でも,日本のように急ぎ足のサラリーマンがたくさんいるわけではない。実にのんびりしたものである。
我々が日常頻繁に目にするアメリカ資本のファーストフードチェーンは,1店舗も見かけなかった。しかし似たようなお店はいくつかあり,国家としてのアメリカは嫌いだが,ハンバーガーやフライドチキンは食べたいという葛藤がやはりこの国にも存在するんだろうなと思われた。欧米的なものに対する憧れはあるが,イスラム的な価値観を動揺させかねないそれらを受け入れてしまうには抵抗があるのだろう。プレジデントモスクまで2時間弱ぐらい歩いただろうか,モスクはかなり堂々とした巨大なもので,私のさっきの想像は的外れなものだったかと考え直す程,アラーの教えの影響力は偉大だった。
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写真 4 ホテルの窓からの旧市街の眺め
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明日イエメンを発つという日,マーシーを御礼の昼食に連れて行った後,宿を旧市街の中に移した。最後に旧市街の中に泊まってみたいと思ったからだ。8階建てのイエメン建築のホテルで,8階の眺めが素晴らしい部屋で20ドルという安さだった。エレベーターがなく,階段で昇り降りしなければならないのを除けば,全く素敵な部屋だった。イエメン最終日にこの部屋で目覚めた時,目に飛び込んできたのは窓の外に広がった旧市街の美しい眺望だった。あまりに現実離れした感覚に捉えられたので,まだ夢の中にいるのではと錯覚した程だった。私は,「ああ,これで心置きなくサヌアを発つことが出来る」と心底満足した(写真 4)。
旅をして色々な人や物,価値観に触れ,色んな経験をすると,確かに人としての幅は広がっていくような気がするが,いったい何が正しくて何がいけないのかというような判断が難しくなってくるし,何が幸せなのかということもわからなくなってくる。イエメンは確かに貧しかった。しかし人々は不幸せな生活をしているとも思えなかった。物は持っていなくても,親切な心は持っていた。数日間旅しただけでわかったような口を利くのはおこがましいとは思うが,「幸福のアラビア」,その言葉は私に幸せのカタチを考えさせ,一つのカタチを提案してくれたような気がする。私の旅は,自分の幸せのカタチを見つける旅であるのかもしれない。
本原稿は社会医療法人緑泉会において発行されている広報誌「Break Times(No.33 2011. 1. 25発行)」に掲載されたものをご寄稿いただきました。
(編集委員会) |

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