=== 随筆・その他 ===
80年前の鹿児島風景
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何時の間にか私も87歳になった。戦前戦後の思い出は尽きない。忘れないうちに,私が小学校に入らない前の思い出を少し記してみたい。
黒田どんの踏み切り(中央駅北側)
私が武町に住んでいた頃,そこから西千石町の山下小学校に通っていた。だから6年間毎日黒田どんの踏み切りを渡っていたのだ。今でも思い出すが,あの辺りは大きな屋敷で楠の大木が茂って昼でも暗いものだった。踏み切りの下には綺麗な小川が流れていて,小魚が泳ぎ水鳥も飛び交って優雅な雰囲気だった。黒田どんは大きな屋敷だったが何をする人かとうとう判らず仕舞いだ。その一角に床屋さんがあって子供の頃よく散髪に通って可愛がられたものだ。あの広い屋敷は何度か変遷していたが,今では大きなマンションになっている。綺麗な小川は広い車道に変わっている。
早朝散歩(師範学校一周)
私が未だ小学校にも行かない頃,ほとんど毎朝父が散歩に連れ出していた。当時家の前に師範学校 (今の教育学部)があったが,当時七高と並んで鹿児島では最高学府だったので,門口は物凄く広く,重厚な石造りの校門が立ち校舎も大きくて威厳があった。周囲はまだ田んぼが広がっており,その学校の長い長い石垣を一回りするのだった。大体2q以上はあったと思う。小さな兄弟二人には大分きつかった。それでも結構付いて回ったのだから,今考えると感心だったと思う。
西田橋の坂道
今でこそ西田橋の坂はきついとは感じられないが,私達の子供の頃は相当急な坂になって結構大きな太鼓橋だった。今のA病院は道路から見下ろす位置になっていたし,西田町側を見ると橋の脇から見下ろす位置に郵便局とお風呂屋さんがあった。西田橋の上から鹿児島本線のガードを通して西田本通が遠くに真っ直ぐ見えたものだ。振り返ると千石馬場通りが遙か向こうまで一直線に見えていた。大分急な坂になっており,荷物を積んだ馬車や牛車はあの坂を登り切れずに御者から大声で怒鳴られ手綱で散々鞭打たれてかわいそうな位だった。今でも苦しそうな牛馬のことを時々思い出す。
川の右岸,今の公衆便所の川寄りの所に交番所があったと記憶している。それが何時頃からか次第に周りの土地が高くなり,昭和の初め頃は大分なだらかになって来た。周囲が埋め立てられたのだろうか。
木造の高見橋
私は武町から山下小学校に通っていた。そのため毎日西田橋か高見橋を渡っていたのだ。その頃,高見橋は古い木造橋で所々に穴が開いており,下を流れる甲突川が見えていた。橋の直ぐ下流に平行して電車の鉄橋が通っていた。昭和8年,第六師団の大演習があり,天皇陛下の行幸があるというので鉄筋コンクリートに架け替えられたのである。その間,川の水を堰き止める為に大きな土嚢が積まれていたので,小学生だった私はその土嚢の上を往復したものだった。川岸からその土嚢まで降りた階段が今でも大久保甲東銅像の後ろに残っているので,懐かしくて時々わざわざ階段を降りてみる。良く鮒や鰻の獲れる場所だった。その後,橋は何度か拡張されて今の幅まで拡がったのである。
新上橋の蛍
以前は桜島,大隅方面から帆掛け舟が武之橋の袂まで来ていた。現在,橋の右岸下流が階段になっているが,あそこがスロープになっていて,牛が荷を揚げて山川,加世田,枕崎方面に向かう馬に荷を移し変えて,谷山街道を分かれて散っていた。また,そこから新上橋までは川舟が上がって来ていた。交通局バス駐車場,T外科の曲がり角には船着場があったものだ。
新上橋の右岸にも船着場があって,現在,薬師町,原良町方面に分かれる三角地帯には野菜市が立っていた。原良川の甲突川出口の辺り,その広場の隅に薬師如来像があるものだったがどこかへ引っ越したらしい。鉄橋の下にもよく船が繋いであった。その頃は水が豊富で綺麗だった。
よく長い竿の先にスコップをつけて川底から工事用の川砂や砂利を掘っていた。その穴に子供がはまって溺れ死んだことが話題になって,子供達は砂利堀に近づくなと注意されていた。
鉄橋の脚の所には手頃な瀬があって,葦が凄く繁茂していた。夏になると蛍の群れがわんさと群がりピカリ,ピカリと点滅する光はまことに見事なものだった。字の大きな昔の本なら読めるくらい明るかった。蛍を見る為にわざわざ小林とか姶良,川内などに行くが今考えるとそんな必要はなかった。私の家が川の近くにあったので庭に蛍が舞い込んでそれを蚊帳の中に誘い込み,寝ながら蛍の明かりを楽しんだものだった。本当に懐かしい。
小松原海岸
前は天保山海岸から鴨池,二軒茶屋,谷山までまことに綺麗な松林だった。天保山と鴨池の間,即ち新浜橋から武道館,ロイヤルホストに掛けて高くて長い堤防があり,内側の商船学校(今の水産学部)との間が広い塩田になっていた。塩田の真ん中に一直線の狭い小道があったのが,今の広い谷山街道一帯になっている。そこから広い動物園や池があり,松林が綺麗だった。今のダイエーの辺りになる。あの辺りから真砂町一帯は当時日本一という海浜病院があり,結核患者の集まりだった。後に海軍航空隊,鴨池飛行場になったのだ。
二軒茶屋辺りは別荘地帯だった。大人も子供も家から海水着のままで海岸の波打ち際まで走るものだった。今の旧谷山街道がメイン道路で今の産業道路,観光道路はみな綺麗な砂浜の海岸だった。
その先の小松原(今の射場前公園)に小高い丘があって,そこに登ると錦江湾と長い海岸線の松林が一望に見渡せた。今のラ・サールの辺りを小松原海岸といって,松林の中に島津家の別荘があり温泉が出ていた。あそこに修道院やラ・サール高校が出来たのは大分後のことである。思い出せば限りが無い。
谷山を過ぎれば七つ島の名所があり,鹿児島八景または鹿児島の松島といわれ散在する七つの島が非常に美しかった。島群の入り口,今の谷山市民体育館の向かい側,ブックスミスミの辺りに岩山をくり貫いたトンネルがあって,子供の頃そこを通るのを面白がったものだ。夏はキスが釣れるし,親指位の一口蛸(石蛸)が面白いように取れたものだ。そして丘の麓には蛍が乱舞していた。
思い出せば限りが無い,鹿児島の街は長閑なものだった。このような風光明媚の谷山海岸が,コンクリートジャングルに変わり果てたのを見ると感慨無量である。他にも色々あるが思い出はまたの機会に譲ることにする。
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