眺めのよいカウンター席で仲の良い先生たちとハイボールに口をつけながら,前回の執筆者(村岡先生)から「リレー随筆,次,頼むね」と言われて,「はい」と返答した。
私は,父・一馬の急逝後,現在の新牧医院で仕事をしています。同様の経緯で同時期に開業した仲間の先生ら数人とGP(General Physician)としての勉強会を通じて知り合った気の合う先生たちとの飲み会での一コマです。
気を許し合える素敵な集まりで,医療について,趣味について,家族について,悩みについてなどなど,酒を酌み交わしながら語らう。
こんな出会いに感謝しています。
私が小学6年生の頃,アメリカ西海岸の家族旅行をしたことがある。『本場メキシコでの夕食』 というようなオプショナルツアーだったのだろう,車で移動し,長い時間を要して,レストランに着いた覚えがある。
初めての海外旅行で,緊張していたであろう。英語だけでも苦労するのに,メキシコはスペイン語ときている。移動に時間もかかり,喉の渇きも強くでてきたところだったろうと思う。予約席に家族で座り,注文を取りにウエイトレスの方が来られるまで,少し時間があった。みんな,スペイン語のメニューに面食らっていた。
父がテーブルの上にあった何やら水を飲み干す。ん〜?その時点ではまだ,日本でよくみる水を飲むコップは,自分の前にはなかった。ナプキンの奥に小さな銀のボール,中に水,レモンの皮がすこし入っていた。
「OH〜,※▲☆†」とお店の方が笑いながら,説明をしているようだ。
父が飲み干したのは,フィンガーボールだった。
父のおちゃめで,慌て者の一面をみた忘れられないエピソードの一つになった。
私が悩むとき,心に空がないって思う。
「ゆとり」とか「余裕」と表現してもいいかもしれないが,テーマに沿って,『空』。『空(くう・スーニャタ)』 がしっくりくるのだ。
時間,状況,気持ち,自分の能力不足などで余裕がなくて平静でいられないことが頻繁に生じる。
自分勝手な都合あるいは欲動でいっぱいになり,心の視野が狭窄し,つまらない自己にしがみつき,粗野な所作となり,他者の心に配慮できず,機微をとらえられない。これが空のない自分。質が悪い。
『空』 は,インド仏教の僧,龍樹(ナーガールジュナ)が理論として大成したといわれている。
釈迦が論証した 『縁起』 …あらゆる現象は,それぞれの因果関係の上に成り立っているという説。
その 『縁起』 を基に,それ自身で存在する自体はない,すなわち,縁起によるすべての存在は無自性であり,それによって 『空』 を論証したといわれている。
空の思想は,その後,ヘーゲル,ハンス・クング,ブラッドリー,ニーチェなど一連の学者が研究し解釈を試みるが,絶対主義である,相対主義である,ニヒリズムである,そうでない,否定主義だ,唯名論であるなどなどまったく正反対の思想を含む様々な思想として解釈されている。諸説があるものの,言葉では表現できない密教的なものの側面や日本の京都学派は,『絶対無』 という解釈もあったようだ。
私は,一昨年,小林流空手道の形「観空大(クーサンクー・大)」を10歳から指導頂いている師範に教わった。まさに 『空』 を体感するこの形を教わり感動した。
Ukuleleで下手なりに音楽を奏でる時,その小さな木製の箱の 『空』 の中から音が響き,音の存在と時間,曲の観念とが流れながら一体であるという体験をする。これらが 『空』 というものに触れたかもしれない瞬間である。
メルロ・ポンティが説いた 『身体あっての主体』 という考えやムーアが言う通りに 『空』 のようなものは,『直覚によってのみ捉えることができる』 という説などが空手道やUkuleleを愉しむ時には妙に納得できる。
・先日,田中一村展で観た 『不喰芋と蘇鐵』 に空を感じた。
・アインシュタインが述べた 『自己からの解放』 とは,空を意味するのではないか?
・老子が説いた 『道(タウ)』 は,空に近いものではないか?
・斉藤一斉の説いた 『天の感覚』
西郷隆盛が座右の書としていた「言志四録」に
「凡そ事をなすには,須らく天につかうるの心有るを要すべし。人に示すの念あるを要せず。」とある。
・九鬼周造の「粋の構造」の中で語られる 『諦め』
・仏教の 『三毒』 とは,空がないための毒ではないか?
・小林秀雄が語った
「一切は空と承知した歌人は,沢山いただろうが,空を観る力量にはピンからキリまであって,その力量は,歌という形にはっきり現れるから誤魔化しが利かぬ。」
・西田幾多郎の 『絶対無』。その根拠となる「統一の場」というもの,それを違う言い方で解いた木村 敏のいう「生命一般の根拠の仮説」を基にした 『あいだ』 という本がある。
『あいだ』 の中に次のようなくだりがある。
「人間は,言語という象徴機能を備え,生命一般との繋がりを自覚し,対自化している。人間には,種の保存とはレベルを異にする個の存在に対する関心と自己意識が生まれ,さらには,個と個との矛盾における共存という自己存在にとって必要な要請から,単独者として絶対的に区別した他者との社会的交わりを求める欲を持つことになった。人間特有の能力が生まれた後影も人間として生まれてゆくための生物的な一環であるだろう。人間が生き物として生命一般の根拠との繋がりを維持するという課題を果たしながら,その一方では,個としての自己の交換不可能な実在を追求するという,このそれ自体のうちに矛盾をはらんだ 『生きる』 という行為が人間に種々の多様な解決不可能な難問をつきつけることになる。」
・小柴昌俊先生が見つけたニュートリノ,そして,まだ発見されない素粒子Dark matterがその生命の根拠と繋がるエネルギーの可能性はないか?
・脳研究で言われているリンビックからA10神経群・記憶に関わる神経回路により醸し出される心の現象は,生命一般の根拠との繋がりなしでは起こらないだろうことなどいろいろな空想に耽ると自分の小さな拘りから解放される。
いろいろな偉人の言葉や本の中から 『空』 に近いものが感じられる。私だけが勝手に感じるものもあるかもしれないし,全然違うぞとお叱りを受けるような見識が低いことも書いてしまったかもしれません。そこは,若輩者の戯言としてお許しください。とはいえ,最近の人間社会って,「何か変だぞ」と感じる感覚は,多くの人に共通するのではないでしょうか?
以前,心の知能指数(Emotinal Intelligence Quotient:EQ)で有名になったダニエル・ゴールドマン先生が最近,SQ(Social Intelligence Quotient)という社会的知性の必要性を説いています。その中で現代社会を次のように評しておられます。
「自分優先の動機が賛美され,欲の皮のつっぱった連中が幅をきかせ,虚栄が理想と崇められる。その中で蔓延りやすい人格の共通点は,社会性悪意と二面性,自己中心性と攻撃性,情動面での冷酷さである。」
自分のことだけでいっぱいになると,手に空きがなく,実はなんにも受け取れない。手放すことが怖くて,不安になる。そんなときの“ひと呼吸”,力をぬいて,手を広げてみる。そんな単純なことなのかもしれないと思ったりもします。虚心坦懐,わかっていても難しい。
先日,SDM(Staged Diabetes Management)を日本へ導入された松岡健平先生の講演を聴く機会がありました。その中でEBM(Evidenced Based Medicine)の医療からTranslational Medicineへという今後の方向性を教えて下さいました。EBMは,普遍性に優れているが,特異性に欠ける部分があり,個のレベルで個に合わせた医の双方の翻訳,知識や技術の平行移動を患者の個々のために進めるあり方というような内容でした。医療者として今後の方向性についていくには,個々に合わせた価値観を持てる能力が必要だと感じました。
“最小不幸”という言葉がテレビから流れてきた。
ベンサムの「最大多数の最大幸福」に似た言葉だが,まさか功利主義からの思想背景なのか?せめて,功利主義であったとしてもミルであってほしいと思う。バブル崩壊まで,功利主義が社会や政治を牽引してきた感は否めない。この思想に 『空』 は,感じられない。
本当に人の役に立つのは,難しい。
少しでも相手の身になり,心遣いができるように 『心に空を』 持てたらいいと反省する毎日である。
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| 道場にて 左から次男(大基),今原犬二師範,筆者 |
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Ukuleleコレクション |
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| 次回は,リバーサイドふくだクリニックの福田稔郎先生のご執筆です。(編集委員会) |

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