=== 随筆・その他 ===

ニートと月見草と


西区・武岡支部
(西橋内科)   西橋 弘成
ニート
 最近ニートという言葉をよく耳にする。初めは何のことかわからなかったが,どうやら,職にも就かず,仕事もせず一日中ブラブラと過ごしている特に若い人達のことをいうらしいことがわかって来た。
 私は2度の肺結核で,2年間ずつ休んだことを前回述べた。このニートと出会ったのは2回目に休んでいる時だった。1年間,日奈久町の教員研修所で体力作りをして退所の許可が出て,昭和30年5月末に人吉の家へ帰って来ていた。Tと知り合ったのはそれから間もなくであった。日奈久に行く前,人吉の病院に暫く入院していたのだが,その時ある宗教を信仰していらっしゃる先輩が訪ねて来て下さって,「病気は無い」という話をして下さった。Tもその信仰に入っていて,ミーティングが月1回あった。私もそれに参加することにし,そこでTと出会った。
 私は村の教育委員会からの復職日の通知が来るのを待って家で暮していた。小説を読んだり街の本屋へ本を眺めに行ったり,近くの田舎道を散歩したりして1日を過ごしていた。Tと知り合ってからはTの家を訪ねたり,家へ連れて来て茶を飲みながら喋ったりした。
 Tが仕事をしていないこと,職に就いていないことがわかってきた。Tは佐賀の仏教系の高校を卒業したと言っていた。それにしては,彼は唯物論者であった。私は宗教の影響を受けているせいか,どちらかといえば唯心論的であった。だから話がすれちがうことも多かったが,他の友人は学校で人吉を離れていたり,人吉にいても勤めを持っているので昼間会う機会は少なく,自然にTと会うことが多かった。
 Tの父親は,街中で食堂をしておられた。私はその彼の家に何度か行ったことがある。
 映画館の隣で場所はよかったのだが,私が訪ねた時,客の姿を見たことがなかった。私はやり方が悪いなと感じた。私は商売は素人であるが,私なりのアドバイスを心の中に持った。借家だろうから店を拡げることは勝手に出来ないだろうが,うす汚れた壁・床・食卓を美しい色に塗り変えて,入口には華やかなカーテンを下げ,ガラス窓にはその店で出せる食事のメニューと値段を紙に書いて張っておけば,客も入りやすくて増えるのではないかと考えた。そしたら,息子の手が欲しくなるのではないか。Tは料理学校で学び,食事のレパートリーを増やせば,若い人も老いた人も入ってくれるだろうと。
 私はうす汚れたTを誘って時々温泉へ行った。彼の温泉代10円も私が出した。
 私は時々薪とりに行った。少し大きめの枝は適当な長さに切り,割っておかねばならない。暮には母の友人の家から臼と杵を借りて我が家で餅をついた。それらの時Tを呼んで手伝わせた。然し,Tの力は病気上がりの私より弱くて使い物にならないといった具合だった。それでもいくらかの小銭を渡した。
 9月になって復職命令が出た。当分は担任はないということであった。出張者や欠勤者の教員のクラスを補助するのが仕事であった。担任がないうちは自宅から通勤することにした。東人吉駅から終点の湯前駅まで列車で40分,湯前駅から岩野小学校まで2km,歩いて20分。始業の8時15分に15分遅れる。担任がないのだからこれ位いいだろうと横着を決めた。Tとも会う機会がなくなった。
 通勤だから夜のミーティングには出ることが出来た。そこでTのその後のことを聞いた。先輩の方が自分が勤めている会社へTを入れて下さった。然し,Tは3ヵ月その会社に勤めたが1件の仕事をすることもなく辞めてしまった。建て売り住宅を借家住の家族にすすめて売る仕事だった。商売の難しさは私も行商していてよく味わってはいたが,1軒も売らないのは情けないと思った。この先生は幼年学校から陸士へ進まれたエリート職業軍人だったが,連合軍の命令で暫くは公職に就けない立場にある方だった。後年,罪が許され商工会議所の部長になられた。私は自分で迷うことがあったら,時を構わず相談に行ったものだ。大学進学に就いてもこの先生にだけはご相談した。私は女教師と結婚し,妻に仕事を続けてもらって自分は大学へ行こうかと考えたことがあり,先生に一寸その考えをお話ししたら,「それは甘い。そんなことしたら一生奥さんに頭が上らないよ。誰のお陰で大学へ行けたのと言われるだけだよ。」と諭された。
 先生はTに,次は雑誌代の集金を頼まれた。宗教の人吉支部から誌友宅に配られる雑誌代だ。各戸何ヵ月分ずつだったか知らないが,Tは集金を終えると,明智光秀ではないが,「敵は本能寺にあり」とその金をそっくり持って人吉を出たらしい。熊本市で働いていた弟が熊本市で見たと言ったが,多分佐賀方面へ行ったと私は思う。佐賀の出身だからその方面に友人・知人がいて仕事も見付けてもらえるだろうから。持ち逃げの金では,駅に寝泊りしたとしても3ヵ月も食べられないだろう。
 彼は私にも黙って出たが,私に1つの置土産を残していった。

 Tは佐賀に帰ってニートから脱却出来ただろうか。高校卒業から23歳までニートでいるのだからどうだろうか。「石の上にも三年」という。5年もニートを続けていれば,ニートの生活がすっかり全身に染みついて,それから抜け出すには強い意志と即実行が必要だ。私が教員8年目の時,「あの先生は頼りにならない。」と父兄に言われ,「よし,大学へ進学する」と決意した日,その夜から受験勉強を始めた。大学入学まで3年間かかったが目的を果たした。Tも2〜3日で完全脱却は出来ないかも知れないが,脱却への努力を続けることだ。「継続は力なり」というではないか。

月見草
 昭和30年8月上旬のある日の昼すぎ,復職の命令日を家で待っている私を,一人の女性が尋ねて来た。道路側の縁側の方から「こんにちは。」と女性の声がする。奥にいた私は,自分を尋ねて来るような女性はいない筈だけど,誰だろう?と思いながら縁側の方へ行って障子を開けた。道には20代と思われる和服の女性が一人立っていた。
 「西橋さんでしょうか。Nと申します。Tさんにお宅のお家を尋ねてお伺い致しました。」
 あれ,私と同姓だ。一字足りないが,それにしてもTは何処でこの女性と接点が有ったのだろうと考えた。
 7月初め,Tが私の家へ遊びに来た時,「西橋さん,私達は4,5人で同人誌を作ることにしました。西橋さんも参加してくれませんか。」と話したことがあった。私は日奈久の研修所に入所中,童話を書き始めた。小説・詩・俳句・短歌等は私は書けないだろう。童話なら書けるかも知れないと童話に取り組んだ。1年間で5回程,教員文芸誌に投稿したが遂に入選はしなかった。一度だけ編集後記に「ロシア風の童話で面白い。」と批評された。
 私は復職して4年生を受け持った時,国語の時間に,最初に童話作家の童話を読み聞かせ,その後自分の作品を読み聞かせたことがある。「どちらが面白かった。」と尋ねたところ,「後の方が面白かった。」と言う声が多かった。もう少し精進すれば入選出来るかも知れないという期待を持ったことがあった。
 Nさんは言った。「貴男の論説を読ませてもらったのです。いいことが書いてあると思い,文章も達者であるのでどんな方が書かれたのか一度お会いしたいとTさんにお宅の所在地を聞いて訪ねて参りました。」
 私はTから,Iさん,Nさんといった女性もメンバーだとは聞いていた。クラブ名は,「球磨文化サークル」とつけたということも。クラブの名前にしてはメンバーが少ないではないか,もう少しメンバーを増やした方がよいだろうと思った。母の友人の娘さんが人吉高校三年生に在学していた。卒業したら就職するらしい。私はその女(ひと)の所へ行って趣旨を話して参加して下さいとお頼みした。彼女は快諾してくれたが,他県へ就職するために忙しいのか,1回きりの俳句の提出で終わった。定職就職を求めて一時人吉へ帰って来ていた同級生のH君にも話したが,彼は就職探しで一寸暇がないと言った。彼は私の家から近い所に住んでいた。山口大ドイツ語科を卒業しドイツ語の教師になることを望んでいた。高等工業専門学校が出来はじめ,久留米市のそれに教師として就職できた。親友だったので我がことの様に喜んだ。
 私はNさんと家の縁側にこしかけて話をした。彼女は女流作家の作品をよく読んでいるようで,作家名,作品名,簡単な内容について述べた。この女性はよく読んでいるのだなと思った。私は女流作家は日本の羽仁もと子さん位しか知らなかった。母が若い時買ったという全集ものが10冊位あった。我が家は,それと国語辞書一冊しか本はなかった。私は全集ものの中の童話集を読んだ。
 私と妹が高校生の時,父が「小説を読む奴は不良だ。」と私達に言った。その言葉もあったし,時間的なこともあって,高校卒業まで読んだ小説は一冊。高三の夏休み,現代国語の先生からだけ宿題が出た。「小説を一冊読んでその感想文を書いて提出しなさい。」ということだ。家には小説はないし,買う金は
勿論ない。そうだ,学校の図書館だと思いついて行ったが遅かった。全館見回って,残っていたのは幸田露伴の「五重の塔」一冊だけだった。それを借りた。父には宿題だからと断わった。明治時代に書かれた小説で,文体は旧いし,漢字は難しいし,どんな筋かもよくわからない。どんな感想文が書けたのか全く覚えていない。二学期に教室で同級生の文学青年H君の顔を見た時,ああ,この人に頼めば何か別のものがあっただろうのにと思った。
 私が同人誌に書いた文章は,「子供は親を乗り越えて伸びていかなければならない。親は子供がそう成ることを喜ぶべきだ。」という主旨であった。
 Nさんは3日後,また午後に訪ねて来た。今度は近くの神社の境内に行って話した。
 数日後の夜,表で「今晩は。」という女性の声がする。Nさんの様だと思って表へ出た。「もう少し西橋さんと話をしたくて参りました。」と言う。特別な仕事もない私は応じた。喫茶店にでもと思ったが,金はかかるし人目にもつくと考えて球磨川対岸の城跡へ行くことにした。
 川辺の石垣の上に作られたコンクリートのベンチに座った。向こう岸が街で明りが輝いている。半月がせせらぎに映えて美しい。Nさんは年若くして結婚したので,来年小学校へ入学する娘と下の息子と二人の子持ちであると語った。生命保険加入勧誘と,古着の売買をしているので,夫婦が揃っておられる夜に他家訪問した方が話がまとまりやすいと言っていた。
 私は足元に黄色い小さな花が4〜5本咲いているのに気付いた。美しい可憐な花だ。初めて見る花だ。何と言う花だろうか。Nさんに知ってるか尋ねてみると,「月見草という花ですよ。」という返事だった。夏の夜,人知れずひっそりと咲く奥ゆかしい花だと思った。私はその花がいとおしくなった。
 Nさんは数日おきに訪ねて来た。8月15日,お盆の最後の日は,人吉市で花火大会がある。街中から城跡へ架かる水の手橋の上から打ち上げる。人々は街側の川沿いの散歩道路・橋下の中川原に出て来てみる。川沿いの家のベランダが特等席だ。いつもその日は,私達家族も橋近くまで出掛けて眺めたものだ。夜8時から10時までの打上げで近郷の人々も見物に来るので,湯前線も肥薩線も臨時列車が出る。この日も,家族が一足先に出掛けたあと私も戸締りして後を追おうとしていたら,そこへNさんがやって来た。話し合ってるうちに人混みの川の傍で見ても,ここで見ても,美しさはそう変らないだろうということになって,近くの畦に腰掛けて見ることになった。真夏ではあるが外気は寒さも感じさせる。私は彼女の肩を抱こうかと思ったが,教頭先生から言われた,「人妻に惚れるな」という言葉が,いつも頭の隅にこびりついていた。それが私の行動を押さえた。
 8月の末が近づいた。教育委員会から,「9月から元の岩野小学校に復職しなさい。」と伝達があった。私はよかったと思った。それまで2回教育委員会から復職校のことで話があったが,どこどこ分校とか,僻地の学校名がでていた。分校などにやられたら複式学級になり多忙で,またすぐ病気が再発するのではないかと心配していたからだ。
 9月1日,岩野小学校へ登校した。1学年1クラスで担任教師6人,あとは校長・教頭。私が担任するクラスはない。翌年の3月の異動期まで私は出張教員のピンチヒッターであった。Nさんは,私の同級生と同じ政治結社に加入していたようで,彼から私の動きを聞いて,土曜日の夜に訪ねて来るようになった。担任ではない間,私は自宅から通勤したのだ。
 翌年4月,クラス担任になってやっと気持ちが落ち着いた。そして村に下宿することにした。自宅には月1回か2回帰っていたが,正教員の資格を取らないと6年間でクビになるということで,熊大の通信教育や熊大での試験を受けることになり,暫くの間は余り自宅へは帰れなかった。こんな事情で,Nさんが自宅へ訪ねて来られても家にいないことが多くなり,Nさんも事情が読めたらしく訪問を諦めたようだ。

 武岡に住んで,子供が小学生の時,犬を飼いたいというので,子供の友人の家の犬が産んだ子犬を一匹いただいた。子供は塾などで忙しくなり,結局私が夜犬の散歩をすることになった。団地を回っている時,季節を知らせるように空き地に月見草が咲いているのに気付いた。私は2〜3本手で折って来て食卓に飾った。思い出したのは古城のほとりにあったあの可憐な黄色の小さな花だった。




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