6歳:1学期1回,映写会が開かれた。暗幕があるというのは便利だ。無声映画なので教頭先生が弁士をされた。その人物の声色を使われるので本当にその人物が声を出しているように聞こえた。楽しくて面白くて,学期2回位あればいいのにと思った。映写機とフィルムは,今のJAが貸してくれたものらしい。村人も観たい人は無料で観れた。3歳の妹が「観に行ったことがある」と覚えていたのには驚いた。
3月初め代用教員の女先生が昼休み教室へ来られた(担任の内田先生は肺結核になられ8月から休職しておられた)。「古賀君,鉛筆と下敷きを持って職員室へ来なさい。」と言われた。暫くして引き返して来られ,「西橋君も来なさい。」と言われた。職員室へ行くと各組から2人ずつ6人が先生の机にひとつおきに座っていた。用紙が配られた。算数の問題だ。30分でするということだった。次は国語の問題だ。時間が来て答案を机にのせて教室へ帰った。何のためのテストかなど考えもしなかった。
女先生は赴任して日が浅いので2人出すということを御存知なかったらしい。似たような学力の子が2人いて1人を選ぶとなれば,家計の豊かな方の子を選ぶのが教員の癖だ。古賀君のお父さんは久留米市の会社のサラリーマンで村の区長さん。私の父は製糖会社の工員。私が代用教員をしている時も多分そんな癖があっただろう。
3月の終業式の前日,予行練習があった。女先生が「西橋君は1番前に座りなさい。上級生がすることをよく見ていなさい。」と言われた。5年生から始まった。名前を呼ばれた生徒は返事をして壇に上がった。表彰状を貰う練習だった。
翌日,本番が行われた。今度は1年生からだった。私は昨日覚えた通りにやった。1回で終りかと思ったらもう1回呼ばれた。3年生の姉も1回壇上に上がった。教室で1回目の副賞を渡された。
家に帰って賞状や副賞を開けてみた。1枚の賞状には「遠山賞」と書いてあった。これが職員室で受けたテストの賞状だ。荒木村の「遠山さん」という富豪が基金を出して児童の学力向上のために設けた賞だ。姉のも「遠山賞」であった。副賞は漆塗りの上等な硯箱だった。姉のも同じ。私のもう1枚には「1等賞」と書いてあった。何が1等賞か分らない。多分学年で学力が1等賞という意味だろうと家族で解釈した。
広場で近所のオバサン達が4〜5人集まって話をしていた。私が近づくと「今度は三みつ井い賞だね。」と言った。三井賞は三潴郡全部の小学6年生から選ばれた生徒が,各校2人ずつテストを受けて最優秀の者が貰う賞であった。「三井さん」が基金を出して設けられた賞だ。私の家がよく買い物に行く雑貨店の兄妹は2人共三井賞を貰われたが,進学せずに店を継がれた。私は勿体無いと思ったことがあった。
私は三井賞を貰って小学校を卒業したら,久留米市の明善中学に進学すると決めていた。明善中学は福岡県で有数の名門校だ。父は,私が物心ついた頃から「お前は大学へ行くのだ。」と言っていた。中学のあと,どんな経路を通って大学へ進むのか分っていなかったが,「大学へ行く」ということは心に刻んでいた。姉は「久留米高等女学校へ進み師範学校を出て教員になる。」と言っていた。明善中学へ合格するのは荒木小からは毎年1人か2人だった。受験者そのものが少なかった。明善が危い人は鳥栖工業を受けた。それも4〜5人だ。
話が遡るが1年生の秋,珍しく算数のテストがクラスであった。3日後,先生から答案を返されたが,何と私は75点。これは父には見せられないと思った。家に帰って机の引き出しの奥の方へ押し込んだ。父が帰って来て皆で夕食を済ませた。この年(昭和12年)の7月に日中戦争が始まったので,社宅のお母さん達は夜に荒木神社へお百度参りに出掛けた。母が出掛けて暫くして父が机の引き出しを探り出した。ヤバイと思っていると奥の方に隠していた答案を見つけ出した。
「何だこれは。」父は大声でそう叫ぶと,私を抱きかかえて縁側から裏庭に放り投げた。私は恐くなって裸足のまま隣の裏庭に逃げ込んだ。父と姉が2階へ上がって,「何処へ行ったろか」と外を見ていたのが,隣の庭の小屋の陰から見上げている私にはよくわかった。隣は炭置き場になっていて人は住んでいなかった。母が帰って来る迄出て行かないぞと私は決めた。それにしても何で75点なんか取ったのだろうか。居眠りでもしたのだろうか,と思う。虫が手・足や首に寄って来るのが困った。叩くわけにもいかず,小1時間経った時,表の方に母達の話し声と足音が聞こえた。私は裏庭から出て玄関の方へ廻った。母が玄関近くに来ていた。「母ちゃん」と言って母の後について家に入った。もう父は何も言わなかった。
7歳:2年生になって担任が変わった。不思議なことにこの学年だけ先生のことを全く覚えていない。男の先生だったと思うが,名字も顔も背格好も浮かんでこない。接触が少なかったのだろうか。
私が級長,古賀君が副級長になった。桜の形に(級長)(副級長)と刻んである小さなバッジを先生が襟に着けて下さった。2年生だったからだろう。授業始めの「起立・礼・着席」の号令はかけなかった。2人の仕事は毎週水曜日の昼休みに行われる歯磨き体操に使う水を級友が家から持って来るコップにヤカンで入れてやることだった。
2人は益々仲良くなった。土・日と,どちらかに他の用が出来ない限り,学校が終ると古賀君の家か,私が住んでいた社宅で遊んだ。他の級友の家へ行ったのは荒木駅前のウスイ君の家へ3回位とコンクリートの製品を作っている工場の子の庭に,荒木神社へ遊びに行った帰り一寸と寄った位だ。社宅の前には手頃な桜の木が1本あった。2人はよくその木に登った。どこまで細い所へ登れるか競ったり,大きい枝に凭れて色んな話をしたりした。小学校を出たら明善中学へ進むことは一致した。失敗しないように頑張ろうということになった。
古賀君の家は社宅と荒木駅の中間にあって家の前を道路と鹿児島本線が走っていた。家の横を小川が流れていた。2階は8畳の間2部屋でタンスが4個あるだけなので,広々としていた。そこで,古賀君が持っている模型の自動車を走らせたり,輪投をしたりした。1階は台所や風呂や居間らしく,中を一寸覗く位にした。家の中では長くは遊ばず,荒木神社へ行って狛犬の石像に乗ったり,秋は古賀君の家の回りの広い田ん圃でトンボを捕ったりした。
ところが,この様にのんびり遊んでばかりおれないという事態になっていることに時々気付かされる様になってきた。4月にお父さんが荒木駅長となって上村君一家が転居してきた。1月期経ってこの上村君が非常に勉強が出来ることがわかった。「遠山賞」は1回しか貰えないので心配なかったが,「1等賞」の賞状を上村君に取られるのではないかという恐怖が湧いてきた。この頃は荒木駅には4人位の駅員がいたが,この間,久留米市に遊びに行った時は無人駅になっていた。
ある日,古賀君と上村君の住宅に遊びに行った。駅舎の隣が住宅だ。屋根の水を桶で受け,その水をコンクリート製の器に貯めてあった。苔が生えて水は黄緑に濁っていた。その水を見て私はふと芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」を思い出した。器の底に大勢の人間が蠢いていて,細い1本の糸を我先に登ろうと,本当に小さな人間が登って来るように見えた。怖くなってそこから離れた。
秋になると上村君から追い越されなくてもよい状況になった。私が出来るようになったのではない。私が荒木校を出ていくことになったのだ。この年,日中戦争が始まり,長期化してきた。国は製糖工場を止めさせ,軍需工場にする様命じたのだ。父は専門外の軍需工場で働かないで転職することにした。新しい勤め先はサハリンの石炭会社。家族は暫く人吉の母の実家に住むことになった。最近,北海道出身の女流作家の小説を読んだが,終戦までは外地の月給は内地の基本給プラス50円だったそうだ。50円は大学卒の初任給であった由。
街中の人吉東小学校に転校した。母の実家から5分だ。男子2クラス,女子2クラス。2年2組に入れられた。従弟もいるクラスだった。担任は井上という海軍上りの立派な体格をした明るい先生だった。昼休みに先生が運動場に出て来られ,大勢の生徒が遊んでる中を走り回られた。私達は先生を捕えようと運動場に散らばって待っていた。先生が近づいて来られると捕えようと手を出したが,パッと避けて逃げられた。触ることも出来なかった。唯それだけの遊びだったが,非常に楽しい時間だった。
8歳:荒木から人吉へ転居する時,父は移す荷物をなるだけ少くしようと父の自転車も私の二輪車も知人にあげた。だから人吉へ移って二輪車で遊ぶ楽しみが無くなった。
3年生の年は,クラスが良くまとまっていて,クラスの半数以上の人数で,泥棒巡査という団体遊びを昼休みした。ある日,運動場から最も離れた校舎の傍で遊んでいて,昼休みのラジオ体操の始まりの鐘を全員聞き落して,もうそろそろだろうと運動場に行って見ると,始まっていた。この時の担任はやや厳しい先生で,遅れた生徒は15分間足洗い場の水の中に正座させられた。1人がその夜発熱し,その父兄から先生へクレームの電話があったそうだ。私も大分学校に慣れて一緒に遊ぶ友人もできたので,放課後友人の家へ行くことも多くなった。
クラス仲間は仲が良かったが,たまに口争いした時,私は「台湾禿げ」と相手に言われた。
台湾禿げという病気があるかどうか知らない。私のは熱傷で出来た禿げだが,そう言われるのは嫌だった。然しこれも4年生までだった。
9歳:担任が変わった。小学生の時は毎年担任は変わり男の先生だった。荒木小で女の代用教員にしばらく受け持たれただけだ。温和な先生。不思議なことに八代市の傍から通勤されていた。朝は30分遅れ,帰りは30分早かった。私の経験では,こんなことをすれば校長か教育委員会からクレームが来ると思うが,この先生は1年間これで通された。強い信念の持ち主だったのだろう。自習が多かった。私は住いの隣のお寺で日曜学校で聞いた童話を,時々,級友に話して聞かせた。この先生のお陰で他学年が経験しない潮干狩りを味わった。
10歳:担任は習字のベテランだった。「日曜日の午前中なら習字をみてやる。」と言われたので,8月サハリンへ転居することが決っていたので出来るだけ行った。9級から始まり6級まで上った8月,サハリンへ転居した。社宅が出来たので父が家族を呼んだのだ。
昭和20年8月9日,ソ連軍が突如サハリンに侵入して来て,恵須取市に砲撃を加え上陸してきたそうだ。多数の死者が出たということだ。その市より北へ4里上った塔路町が私達が住む町だった。父は石炭船に石炭を積む仕事の係だったので,私達の社宅は海岸近くにあった。父が人夫に頼んでブランコを作ってもらったので,学校から帰ると私達子どもはブランコで遊んだ。
10月末になると雪が降り始めた。近くの6年生2人がスキー板を持って来て滑り方を教えてくれた。初めの1カ月は立つと転ぶという有様だったが,平地なら少しは滑れるようになった。2人の役目は終わった。父がスキー板を買ってきてくれた。適当な坂を見つけて滑ることにした。海は流氷で覆い尽くされた。この年(昭和16年)の12月8日,大東亜戦争が始まった。いろんな物資が不足してきて,苦しい生活となった。
11歳:春が来て雪が解け,流氷が沖へ移っていった。フレップというグミの実のような木の実がなった。食べられると聞いたので,腹が空いた時は松林に採りに行った。海が荒れた翌日は海岸へ打ち上げられた昆布を拾いに行った。
6年生の6月,先生が「上級学校へ進む人は放課後残っていなさい。」と言われた。残ったのは海辺の近くに住む磯辺君,従弟,私,女子で1番出来る加藤さんだった。
先生は「どんな風にしようか。」とおっしゃったが,私達にいい知恵があるはずもなく,とうとう私達がサハリンを去るまで何もなかった。恵須取の中学校に進めば寄宿舎生活になるため,私達は人吉へ帰ることになった。8月,父が手配した石炭船で内地へ帰った。私は伯母の家へ下宿することになった。
クラスは元のクラスだった。毎日算数の宿題がでた。月末には5教科のテストがあった。1番から55番まで順番がついて成績の良い人が後の席だった。9月のテストで私は36番だった。サハリンで何をしていたのだろうと我ながら驚いた。10月に6番に上がった。級友は「ほう」と驚いたが,私はまだ不満だった。11月に4番になり定位置になった。その後は4番以下になることはなかった。青木君がよく出来て1番を占めることが多かったが,たまに我々も1番になった。
伯母の家の近くには同級生はおらず,中学受験も迫っていたので遊びに出掛けなくなった。
中学時代:入試の体育に蹴上がりがあると聞いて,6年生の放課後,友人の力を借りて練習して2月に出来るようになったが,入試は懸垂だった。私は13回できた。10回以上出来れば大丈夫だろうということだった。紙がないのでグライダーの絵を紙に描いて切って,その主翼の面積を暗算で出すのがペーパーテストの代わりだった。私のクラスから人吉中学を35人受けて30人受かった。人中が危い人は農業学校を受けたが,5人受けて2人合格した。
入学式の日,両親はまだサハリンにいたので伯父が付き添ってくれた。中学生らしい服装,学習用具を期待していたのに,戦時中でそんな物は何もなかった。私が嫌いな軍事教練が週1回取り入れられていた。小学校と違ったのは,理科が化学・物理・生物と分かれ,英語・漢文が加わったことだった。
昭和18年(1年生),昭和19年(2年生)は普通に授業があった。昭和20年4月,3年生になると秋には米軍が本土上陸をするだろうといわれ,人吉市郊外の丘に軍が横穴を掘り始めた。市内の我々3年生は,朝鮮の兵隊が掘った土を沼地にモッコで捨てる仕事に駆り出された。汽車通学の生徒は地方で食糧増産に従事していた。
私達は街外れの従弟の家に間借りしていたが,8月日本は戦争に敗れた。そして従弟の叔父さんの怒りに触れて従弟共々家を追い出された。行くあてもなかったが,母の遠戚の方の同情で板の間,1.5畳の小屋を貸してもらった。電灯は勿論,あらゆるライフラインもなかった。陽が暮れると寝るしかなかった。格子戸のため虫が入り,私は膿痂疹(とびひ)にやられた。一緒に行き来する同級生が「キシャナカ」といったので,治るまで学校を休むことにした。だから1学期の通知簿はつかなかった。

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