=== 随筆・その他 ===
四 恩 の 報 い
…心を普通の生活意識に…時はいのちなるが故に…
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明けましておめでとうございます。田舎飾りのごく簡単な松,竹,樫,譲り葉のみの門松で,日の丸をはためかせ新年を祝った。いただいた年賀状は,例年の如く基本文型は変らないが,健康と幸せを思いやる心を満載したものでした。
「一切衆生悉有仏性」…この地球上の全ての存在,生物も無生物も悉(ことごと)く仏性のあらわれである。仏性とは生命への渇望的願い,即ち,長く生きたい(寿;じゅ),安心安楽に生きたい(光;こう)であり,全ての人が希求する願いであります。各人が皆持っている心であります。無量寿,無量光を合せて無量寿光の心…無量寿光如来とも無量寿光仏ともいいます。無量寿光尊とも名付けておりますが,親しい阿弥陀(あみだ)様の名称であります。阿弥陀様は自分の心の中におられる。即ち自分が阿弥陀如来だと。自力我見を捨てて阿弥陀様に全ておまかせするのが浄土宗です。禅門では,衆生本来仏なりと信じて仏に相見したいと坐禅修行に励むのであります。
江戸末期,幕府崩壊と近代国家建設の夜明けにかかわった人達の中に山岡鉄太郎(鉄舟)という人がいました。彼は11歳から剣術と書を学び始めた。13歳になって父から教訓を受けた。「およそ武士たるものは,形に武芸,心に禅理を学ぶべきである」と。鉄舟は父の言葉を守り,二つの道に命がけで精進することになった。
彼ははじめ芝長徳寺の願翁禅師に接し,禅道に入門した。願翁が最初にさずけた公案が「本来無一物」であった。その後,彼は願翁の許で10年間参禅した。鉄舟が15歳で自らに課した「修身二十則」という文章がある。現代の義務教育には,これに相当する全人教育がなされているでしょうか。
修身二十則
一. うそを言ふべからず
一. 君の恩を忘るべからず
一. 父母の恩を忘るべからず
一. 師の恩を忘るべからず
一. 人の恩を忘るべからず
一. 神仏並びに長者を粗末にすべからず
一. 幼者をあなどるべからず
一. 己に心よからざることは,他人に求むべからず
一. 腹を立つるは道にあらず
一. 何事も不幸を喜ぶべからず
一. 力の及ぶ限りは善き方に尽くすべし
一. 他を顧みずして自分の善きことばかりすべからず
一. 食する度に稼穡(かしょく)の艱難を思ひ,草木土石にても粗末にすべからず
一. ことさらに着物を飾り,或ひはうはべをつくろうものは,心に濁りあるものと心得べし
一. 礼儀を乱るべからず
一. いつ何人に接するも,客人に接する様に心得べし
一. 己の知らざることは何人にても習ふべし
一. 名利の為に学問技芸をすべからず
一. 人にはすべて能不能あり,いちがいに人を捨て或ひは笑ふべからず
一. 己の善行を誇り顔に人に知らせむべからず,すべて我心に恥じざるにつとむべし
因みに薩摩藩における郷中教育の徳目は,「負けるな,うそを言うな,弱い者をいじめるな,義をいうな」などでした。示現流は,隼人精神(魂)のあらわれなのでしょう。
ところで,坐禅は,一切衆生は仏性を倶有して誕生しています。心とからだ(肉体と精神)は不可分の関係にあるので,身心不二(一如)と呼んでいます。心というときには身体は心の中に含まれるし,身というときには心は身体に含まれる。近年の身心医学は,心療医学に傾いている趣きがあるように感じますが,本来,外的刺激を大脳で処理しようとして処理しきれないで悩み,疲労に発展し,更に増幅しているように外来患者に感じます。坐禅は正身端坐し,呼吸を整え,精神統一として面前の壁や衾の一点に心を集中することによって大脳の働きを休息させるのであります。言を尋ね語を逐うの解行を休すべし。須く回光返照の退歩を学すべし。身心自然(じねん)に脱落して本来面目現前せん。恁麼のこと(このようなこと:悟りのこと)を得んと欲するならば,急いで恁麼のこと(このようなこと:具体的には坐禅のこと)を努めよ。悟りを得たいならば急いで坐禅をしなさい。坐禅によってお釈迦さまから伝わって来ている正伝の仏法は,正師(悟りを開いた禅師で坐禅道場を開いておられる禅師)に参禅し指導を受けることが必須であります。
釈尊が「悟りを開かれた内容」が仏教の起源になっております。
一.「奇なる哉(不思議だなあ),奇なる哉(不思議だなあ),一切衆生,皆如来の智慧,徳相を倶有せり。しかれども顛倒妄想の故に之を知ること能わず。」(一切衆生悉有仏性)
二.「因縁所生の法なるが故に我れ即ち空と説く。」これは華厳経というお経に出ている言葉ですが,その内容を一言でつくすと「無定性の原理」ということになる(仏性平等因果差別,因縁性空)。これが仏性教理,禅理であり,これを学ぶべきということは,坐禅によって,見性悟道するということ(悟りを開くということ,空を悟るということ)であります。
禅門での坐禅修行は,われわれの本質,即ち,本来の人間性(仏性)は,善悪という有限な物指しで計り得るような安価なものでなく,「衆生本来仏なり」といわれる通り,因縁によって何にでもなれるというすばらしい絶対価値のものであると教えて,その事実に目覚めさせ,身をもって各自にそれを体験実証させるのが仏祖(釈尊:お釋迦さま)正伝の禅であります。この事実を完全に吾が身に体験し体得してその実証を我々に示されたのが,この地上ではお釋迦さまが初めてであり,他方世界では,阿弥陀如来,薬師如来であるといえるのであります。本来仏なりの吾人が現実には,迷いの凡夫になっているので坐禅によって,自分勝手の心が段々少なくなり,自我意識が次第にやわらかになり,人様に対するお察しがよくなり,同情心が深くなり,同時に正義感も強くなって来ます。仏も昔は凡夫なり。凡夫も悟れば仏なりというのであります。この悟りの境地に達したかどうかは,正師に独参して見性悟道したかどうか点検してもらう。本来仏なりと悟るためには坐禅修行開始時,初心者には,数息観が与えられる。坐禅の仕方は普勧坐禅儀に書かれているように,足の組み方,呼吸の調え方に加えて精神統一するのに,調えられた呼吸の吸気時に一つ,呼気時に二つ,吸う時に三つ,呼く時に四つ,吸う時に五つ,呼く時に六つ…同じく七つ,八つ,九つ,十と数え終わったら更に一つから十まで繰り返します。何分間続けるかは,禅道場では20分坐り,5分歩行禅,5分間休憩をとっています。正式に1回でも2回でも正師から指導を受けている人からなら,当人が指導を乞うなら習ってよろしい。決して独断で坐禅をしてはいけないと思います。更に一層坐禅修行が進むと,自分一箇のことよりも,家族全体のことを思う心が強くなり,それが進むと自分一家のことと同じように知人や親戚のことも吾が身に引き受けて心配するようになり,更に村のこと町のこと,一県の人々のことをも自分のことと全く同じように考えるという立派な人になり,やがては一国の盛衰をも,全く吾が身の幸,不幸と同様に考え,更にその考えが,全人類の上にまで拡大し更に更に,一切の生物,無生物に至るまで,悉く自分であると本当に見え本当に思えるようになれば,それこそ釋迦,弥陀と同格の仏になったと申してよいと思います。
最後に己が仏として存在することが出来るのは,父母の苦労があったから(父母の恩),同時代の人達の助け(衆生の恩),祖国を追われないで生かせて頂いている日本国統治者の御苦労(君の恩),仏性平等,因果差別,因縁性空の禅理を悟ることに御指導下さった熊本県合志市須屋の九州白雲会禅道場,高橋嘉道禅師様に深く感謝致します(三宝の恩)。仏の智慧と慈悲の心をもって万物に接し,上求菩提,下化衆生の苦を緩わらげ,この世が浄土化するように菩薩行に励みます。

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