近年,上海の発展についてはマスコミの報道が非常に詳しい。私は敗戦直後上海に行ったことがあるが,その悲惨な姿を見ていただけに,その後の凄い発展振りをこの目で見てみたいと念じていたのだったが,幸いにその機会を得た。
*揚子江(長江)入口で足止め
長崎を午後5時に出帆した大型豪華客船飛鳥U号は一路東シナ海を西に進んだ。私は昔,世界第三の長さを誇る揚子江(長江)の濁流が,真っ青な東シナ海に流れ出て半径100kmぐらいで丁度扇子を広げたようなくっきりした半円を描いていたのを飛行機の中から見下ろして,その美しさに感嘆したことがある。今回,船の上からそのくっきりした境界を見極めようと思ったが,それは天候が悪くて失敗した。船が揚子江に近付いて,次第に夕暮れになる頃だった。船内アナウンスで上海が霧に包まれて航行禁止になったとのこと。上海の霧は有名だという。止む無く船は洋上に錨を下ろして停止した。次第に闇が広がって来るに連れ,飛鳥U号の周りには大は数万 tから小は数千 tの貨物船やコンテナ船がぞくぞくと停船して来た。各々船の周りには皓皓と灯りをつけそれが海に反射して非常に美しい,双眼鏡で見渡すと洋上銀座のようだ。船内アナウンスによると,大体100km四方に待機している船が300隻ぐらいになって来たそうだ。東京湾でもこんな壮観な景色は見たことが無い。話には聞いていたが中国の経済的活躍は凄まじいものだと感じた。それらの船団の合い間をトロール漁船が縫うように走っている。まる一日停船していたその間,風や波はあったが幸いに全く揺れを感じなくて助かった。
船には立派な設備が揃っている。大型の映画館,図書館,碁・将棋部屋,プール,そして展望浴場があり,船内には和,洋,中華等の800人を収容するメインダイニングもあるし,別に寿司コーナーもあり自由だ。またプロムナードデッキは一周すれば500mもあってジョギングや散歩も気持ちよい,全く人を飽きさせない,時間を潰すのに不自由は無かった。
丸1日経ってやっと制限が解除されたので船は動き出したが,気が付くとあんなに多かった貨物船がスッカリいなくなっていた。先に出航したのだろうか,何か狐に化かされたような気がした。揚子江の入口に崇明島を見る。最近急速に発展し上海から高速フェリーが通うし,近日中には上海から地下鉄も建設されるそうだ。見渡すと対岸まで1,000mはあろうかと思う,非常に大型のクレーンがずらりと並んでいる,あれは造船所だろうかと想像する。
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写真 1 上海の夕暮れ
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写真 2 上海の夕暮れ
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写真 3 リニアモーターカー(磁浮列車)
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然し飛鳥U号が揚子江に入ってから左折して黄浦江を遡上し,上海に着岸するのに8時間はかかると言うので何時の間にかぐっすり寝込んでしまった。次に目が覚めて見るとまだ黄浦江を遡る所だった。川幅500mはあるだろうか,錦江湾の四半分も無いだろう(?)意外に狭い。船はスピードを落として静かに進んで行く。周りには団平船やジャンクが石炭や資材を山積みして一列に並んで牽き船に牽かれて行く。
一部の岸壁には真新しい駆逐艦,フリゲート艦が幾重にも重なって並んでいて威圧感を与えて,中国が軍事力を増強していることを如実に感じる。丁度周りの連立するクレーンの合い間に夕陽が沈む頃で真っ赤な太陽が次第に隠れて行く光景は誠に印象的だった(写真1,2)。
*上海入港
船は間もなく高さ45mの上海浦南大橋を潜って上海国際港フェリーボート埠頭に着岸した。予定より丸一日遅れた。長さ300m,喫水8mの大型船がこの狭い川幅で方向転換出来たものだと思う。船室から巨大なビル街が見えて久し振りの上海に圧倒される。
敗戦後私が見たときはこの辺は全く何も無い荒地で,遥か彼方に地平線を眺めるものだった。
*リニアモーターカー乗車
空港と同じ様な物々しい金属探知機の検査を過ぎてホームに入場し有名なリニアモーターカー(磁浮列車)に乗る。羽田のモノレールを一回り小さくしたような,如何にもスピーディーな感じがする。発車し出すと客室のスピード計がグングン上がっていく。アッという間に430km/時を示していた。将に名の通り直線的に飛ぶようなスピードだ。日本の新幹線は300km/時というではないか,ギネスブックに載る最高速度だった。現在日本でもリニアモーターカーの計画が進んでいるが,将来日本の発展の為には万難を排して成功させたいものだ(写真3)。
発車後,間もなくかつての万国博覧会の跡地を通ったが,広い会場は一部を残して撤去され乱雑な廃墟になり草茫々だった。歓楽極まりて哀愁深しの感あり。車は振動も無くただ一途に無限に広がるアパートビル群の中を突っ走る,乗り心地は頗る良い。僅か7分30秒で上海浦東国際空港に到着。世界でも有数の大規模空港である。前回訪問の時,私は上海の西側の虹橋空港に降りたのだった。そこは現在国内専用に使っているそうだ。次に空港の案内標に従ってバスの駐車場に向うが,とても長い廊下を歩かされて大分疲れた。「歩く舗道」ぐらい出来そうなものだ。廊下の向こうにチラリと飛行機の大きな尾翼が見えていた。
空港を出発したバスは複雑に曲がりくねり,二重にも三重にも重なった高速道路を走るが段々渋滞が激しくなってきた。車の渋滞も上海の名物だそうだ。これだけ多くのドライバーは,只只辛抱強く車が動くのを待っているのだと不思議な感動を覚えた。次第に高層建築群(上海ヒルズ)に入って行く。此処は東京の森ビルの系統で,このビルを建設中に火災を起こして有名になったことがある。
*世界一の展望台
やっと森ビル(上海ワールド・フィナンシャル・センター)100階450mの展望レストランに到着。昨日我々を一日停船させた上海名物の霧もスッカリ晴れ上がり物凄く明るい展望だ。中国は勿論,全世界から来たと思われる群集がガヤガヤ喋りながら下界を見下ろしている。目の前に大小3個の球を串刺しにしたようなテレビ塔が聳えている。特異の形をして仏教的で東方文化の香りを漂わせている。高さ468m(テレビ塔としてはトロント,モスクワに次ぐ,世界第3位)。上海では4・6・8(ヨーロッパ)と呼んでいるそうだ。周囲には100階クラスのオフィスやマンションがずらりと並んで誠に壮観だ。新宿副都心より遥かに規模が大きい,将に近未来的風景だ。眼下には国際フェリーターミナル埠頭に並ぶ飛鳥U号も見られた。流石に大型だ,目立っている。展望台の廊下の床の一部はガラス敷きになっており,その上を歩きながら下を覗くと如何にも天女が空を舞いながら地上を見下ろすような夢幻的な気分になる(写真4)。
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写真 4 展望台から見おろした所
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私は展望台を降りてから改めてビルを見上げて考えた。これだけ多数の人数をそつなく運ぶ仕組みと職員の手配と順序の良さ及び物凄いスピードで上下するエレベーターの性能に驚いた。これには日本の技術が入っているそうだ。敗戦後私が旧租界地バンドから黄浦江の対岸,即ちこの辺りを見渡した時は遥か地平線が大きく曲がる平原だったのに,僅か70年でこんなにも発展したのかと中国人の底力,中国政府の政策の一応の成功を認めた。あの時までは失礼ながら中国人,中国政府といえば数等下に見下していたものだった。改めて謝罪し反省する。
*上海雑技団(サーカス)
私の子供の頃,正月になると松原神社に木下,矢野などのサーカス団が掛かっていた。「天然の美」のジンタに魅せられて良く行くものだった。若い団員達の鍛え抜かれた曲芸や猛獣達の訓練された芸に感心したのを覚えている。最近,木下サーカスが鹿児島で公演しているのを見たが,若人達の思いがけない高難度の演技,綱渡り,空中ブランコ,宙返り等アクロバットの連続でこのままオリンピックに出ても良さそうな気がした。また,象,キリン,馬などが愛嬌をまき,ライオンの火の輪くぐりなどよく馴れた芸を見せていた。最後は鉄の球の中でオートバイ5台が耳を聾する轟音を立てて,よくも衝突しないで球内を交差して走るなぁと思わせるスリリングな芸で締め括って観衆を満足させていた。これは敗戦直後に見た上海雑技団(サーカス)も同じ様な芸だった。ところが,今回折角上海で世界一のサーカスを見ようと訪れたのだったが何となくガッカリした。猛獣の芸が全く無かった。聞くと,円形舞台を工事中で,猛獣の演技は逃走など危険防止のため,中止しているそうだ。近年動物愛護や児童福祉法の問題で興業が難しくなっているという。それにしても木下サーカスは良く頑張ってやっていると思った。然し私にはまだ昭和初期の松原神社の印象が強く残っている。
*バンド(外灘)の思い出
まずシャトルバスで南京路のセントラルホテル(旧王宝和大酒店)に行く,この辺りは上海の一番中心地だという。がっしりした高層建築だ。然しながら何分古色蒼然として丁度ヨーロッパの古いホテルを思わせる。周囲には所謂旧マンションが林立しているが,ビルの窓から物干し竿がズラリと出て干し物が下がっているのは,昔の香港,シンガポールを思い出して懐かしかった。と言うのも,近年景気が良いので思わぬ収入を得た中国の若者達は浦東の高級マンションに移って行き,この辺りの古いマンションには老人が多く残された。それに部屋が狭いため干し物は昔からの習慣もあって外に出さざるを得ないそうだ。
タクシーを呼んで懐かしいバンド(外灘:人工の堤防)へ行く。昔の波止場,公園地帯だ。数多くの記憶が蘇った。私が前に来た時は黄浦江は石垣の堤防が築かれ小船が群がっており,岸辺の近くは広場になって丁度東京の山谷,大阪のあいりん地区を思わせるような労働者が多数屯しており,そこにバスが来るとワッと飛び乗り,それも窓から屋根から蟻が群がるように飛び乗って,何処と無く走り去って行く。また次のバスが来るという具合だった。バスもよく動くなぁと思うようなオンボロバスだった。向かい側の中山東一路には阿片戦争後,この辺りは「租界地」と言って中国の支配の及ばない治外法権の地域だったので,特に威厳を見せるために英米仏独などの諸国により自由に建設出来たのだ(日本は出遅れたので租界地はこれらの一等地を外れたところにあった)。
凄く立派で欧風の芸術的高層建築が並んでいる。銀行,会社や財閥ビル,社交クラブが多く「東洋のウォール街」と呼ばれていたのだが,今は大分リニューアルされておしゃれなブティックやレストランに変わって男女若者達の交流が派手だ。上海税関,市役所,香港上海銀行などもズラリと並んで重厚な感じがする。テレビや写真でよく見られるレトロとモダンの交錯した光景だ。
蘇州河に掛かるガーデン・ブリッジは今でも偉容を残しており,当時は外人専用の橋で中国人は通れなかった。その脇の公園も昔は外人専用で「支那人と犬は入るべからず」の立て札が立っていた。現在,その場所は奇麗な芝生になっている。ガーデン・ブリッジを通して向こう側に見える茶褐色の上海大厦(ブロードウェイ・マンション)は外人長期滞在用のマンションで,現在はホテルとして使用されている。この中山東一路の建築群は夜はネオンと夜間照明で特に美しく黄浦江と共に上海の名物夜景として見る価値があるという。戦前戦中は列強のスパイ合戦や麻薬の浸透が酷く,「魔都」と呼ばれて小説や映画または歌謡曲の題材に使われていた。バンドの道路沿いには世界最長のプラタナス並木があるが,なんとなく大連の並木道を思い出させる雰囲気だった。
私は立て札が立っていた付近を感慨深く見回した。今見るバンドは全く違う。川岸は白く厚いコンクリート壁になり,広場は奇麗に舗装されて広い公園になって大きな上海人民英雄記念塔が建っていた。公園の各所にはベンチが置かれ,緑樹と花壇に包まれて上海の庭園といわれ,子供連れの家族達の散策や,美しく着飾った若いアベックが青春を楽しむ場所になっている(チャイナドリーム)。なんだか横浜の山下公園を思わせた。
「上海の母なる河」と呼ばれる黄浦江には大小の客船,貨物船,ジャンクが犇めいている。バンドから対岸の浦東地区に渡るには昔は渡船しかなかったが,現在は地下道トンネルまたは地下鉄が通っている。下流には将に日本の関門海峡大橋クラスの立派な浦南大橋が掛かっており,高さ45mの大型豪華客船飛鳥U号もその下を潜って上海に入港したのである(写真5)。翌日,この橋の上を通過したが,橋の上から上海全体を見渡せる,そのビル群は壮大であった。昔の状況と余りにも掛け違っているのに夢を見ているようだった。思えば敗戦後私は大連,北京,香港,広州等中国各地に行った。そのとき北京の大学の学生寮に行ったことがあるが,当時中国の学生は「我々は日本の方を向いているのだが,日本は我々を向いてくれない」などと言っていた。然しながらその当時貧乏だった中国学生は何時の間にか大変な努力をしていたのだ。眠れる獅子が目を覚ましたのだった。四億の民と広大な土地,豊富な天然資源のことを思えば,つくづく日本は油断していたのだったと思う。丁度明治から大正,昭和にかけて日本の凄まじい発展に対して欧米諸国は似た様な感慨を受けていたのではなかろうか。
上海の変わり様に驚き呆れる毎日だったが,若い時のように夜の外出に興味が無くなり,夜間は新宿歌舞伎町並に中国人のヤクザ,カッパライが多いと聞いて大人しく部屋に篭もっていた。私の船室が丁度黄浦江越しに浦東区に面していたので,ベランダに出て十分浦東地区の夜景を楽しんだ。
*黄浦江の夜景
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| 写真 5 上海入口の浦南大橋 |
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| 写真 6 上海の夜景(ビル群) |
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| 写真 7 上海の夜景(黄浦江) |
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| 写真 8 宝山製鉄所 |
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| 写真 9 上海の夜明け |
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全体的に色とりどりのネオンの乱舞,何だかどぎついような気もする。銀座や新宿のネオンも顔負けだ。大体ビルの高さと数が違う。その屋上からはレーザー光線が夜空を舐め廻している。昔の艦隊の探照燈(サーチライト)を思い出した。然しネオンの質が東京とは何か違うように感じた。何時まで眺めても飽きない華麗で幻想的な夜景だ。大分写真を撮った(写真6,7)。
黄浦江にはこれもまたネオンで満艦飾の遊覧船が多数上下している。ロンドンのテームズ川,パリのセーヌ川,東京の隅田川でも夜のクルーズはあるのだが,こんなに目まぐるしくは無い,川岸の街にマッチして落ち付いた雰囲気なのだ。中国はその経済力を誇示する余り,少々度が過ぎているようだ。新宿の歌舞伎町みたいな感じを受けた。物思いに耽りながら何時の間にか寝入っていた。
夜中に眼が覚めて見ると,船は何時の間にか出航して上海宝山製鉄所沖を通過中だった。数本の高い煙突からもうもうと煙りを吐き,周囲の強烈な灯りに照らされて,丁度羽田向かいの川崎,君津にまたがる東京湾岸工業地帯を見るようだ。強力に活動中であることを痛感させられる。思えばこの工場も新日本製鉄の協力とノウハウを伝授したお蔭だという。複雑な気持ちになる(写真8)。
その間に船は揚子江を抜け北緯32度の南シナ海を一直線に東へ東へと鹿児島に向け航海していたのだ。目覚めると外は快晴,誠に優雅な桜島が朝焼けに輝き,然も我々を歓迎するかのように大きな噴煙を吹き上げてくれ,珍しがる乗客たちを喜ばせていた。僅かの期間だったが,当時どん底で今最盛期の上海の掛け離れた時空を経験して懐かしい上海の思い出と只只驚きの毎日だった。考えさせられることも多く,中国の底力を痛切に感じ日本の政府の方針を考えさせられる上海旅行だった(写真9)。
ただし,終戦後の疲弊した上海をここまで立ち直らせたのは,経済面・技術面から日本の援助が大きかったことを日本人も中国人も気付いていないようだ。
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