=== 新春随筆 ===

修善寺から下田を訪ねて



中央区・城山支部  
(高見馬場リハビリテーション病院) 

        林  敏雄
写真 1 修禅寺

写真 2 旅館「あさば」の能舞台

写真 3 浄蓮の滝

写真 4 伊豆の踊り子文学碑

写真 5 旧天城トンネル

写真 6 弁天島の祠

写真 7 下田港のペリー上陸記念碑

写真 8 遊覧船・黒船サスケハナ号

写真 9 寝姿山から見たサスケハナ号

写真 10 ハリスのいた玉泉寺

写真 11 宝福寺の入り口

写真 12 お吉資料館,顔写真は19歳のお吉
(水野半兵衛撮影)

 平成22年10月5日,京都での陸軍幼年学校の2期後輩のクラス会に招待され出席したあと,翌朝,家内と新幹線で静岡県三島に向かった。かねてから伊豆半島縦断の旅を夢みていたが,今回やっと実現が叶って嬉しかった。猛暑続きの夏から解放されて,三島からタクシーで修善寺に向けて走った。
 午後3時頃,桂川に沿った長閑な温泉街・修善寺に到着した。寺になると善の字が禅に変わる修禅寺前に車を止めて貰って,早速お参りしたが,結構参詣客が多かった。伊豆は源氏ゆかりの土地で,頼朝はここで育ったし,長子・頼家は二代将軍となったが,北条氏から修禅寺に幽閉され,最後に殺害されたのは歴史的に有名である。これは岡本綺堂作の名戯曲「修禅寺物語」にも書かれている。母・北条政子は頼家の供養のため指月殿(一切経堂)と隣りにお墓を建てた。ここに行くのに坂が急で,多少疲れていたこともあり途中から引き返した。
 親類の勧めで寺から徒歩数分の旅館「あさば」で旅装を解いた。「あさば」は百年以上の歴史を持つ老舗旅館で,庭には大きな池があり,年に数回公演される能舞台まであったので驚いた。夕食まで時間があったし,外はまだ明るかったので再度一人でブラブラと修禅寺まで写真撮りに行った。さすがに参詣客は少なく,6時になったらお坊様が鐘を突き始め,ゴーンという鐘の音が辺りのしじまを破って街中に響き渡った。
 夕食は和食で松茸など山海の珍味で美味しかった。露天風呂が池の一角にあり,紅葉はまだだが,竹林を交えた山の緑が目にしみて素敵だった。部屋付のヒノキ風呂はピカピカの新品同様であったが,とうとう入らず仕舞いだった。
 翌朝またタクシーで浄蓮の滝を目指して南下したが,途中温泉郷が幾つも並んでいた。運転手さんが面白いお寺にご案内しますといって,市山の明徳寺に寄り道した。この寺は子授安産,シモ(排泄)自立でボケ無し長寿のご利益があるとのことで,特にお年寄りが沢山参詣に来ていた。男根ようの大きな石の頭を撫でてから参拝し,霊室に入ると賽銭箱のほか御神体として,木製の電信柱のような男根や女性のモノなどが飾ってあるので驚いた。
 湯ヶ島温泉の湯本館(ユモトカン)は川端康成の常宿で,「伊豆の踊り子」を書いたので知られている。車道から少し入った所にある瀟酒な旅館で,彼の部屋はそのまま残してあるらしいが,外から写真を撮っただけで出発した。
 旧天城街道は「踊り子ロード」と呼ばれて手頃なトレッキング・コースになっている。20q少しの山道で歩けば5時間半位らしいが,車で移動した。国道と旧道との分岐点近くに浄蓮の滝への降り口があった。この滝は幅7m,高さ25mで,「日本の滝100選」にも入っている名瀑で,滝壺まで階段を200段ほど降りなければならない。昇りの辛さを考えて,大体滝を写真に収められるところまで降りた。滝壺には美女に変身した女郎蜘蛛がヌシとして住んでいるという。
 この辺りはワサビの産地らしく,しばらく行くと「天覧・日本一 天城わさび園」という素晴しいグリーンの棚田があった。その先に川端康成の「伊豆の踊り子文学碑」があった。旧制一高生の淡い恋心を題材にした傑作で,旧制七高生だった自分としては凄く良く分かる作品だ。彼は後に日本初のノーベル文学賞を受賞するが,謎の自殺で逝ったことは残念なことである。そこから数kmほど進んだ所に旧天城トンネルの入り口があった。長さ446mの総石造りの珍しいトンネルで1905(明治38)年に開通したが,歴史文化遺産に指定されている。狭いので車の離合は出来ないが,真っ直ぐで出口が見えているので大丈夫ということだ。車から降りて中に入ったら,急に冷たい風が吹いてきて震え上がった。一瞬,石川さゆりの「天城越え」の演歌を思い出した。トンネルを通って河津七滝(カワヅナナタル)の最後の大滝に向かった(この地方では滝をタルという)。この滝も谷底まで降りなければ見れないので諦めて,近くの茶店で名物のワサビ・ザルソバで昼食をすませ,近代的なループ橋を通って一気に河津の街に下りた。このループ橋は1981年誕生の全長1,064m,高さ45m,直径80mの2重螺旋で,円が小さく落差が大きいので走ると遠心力で目が回る感じであった。
 河津は桜でも有名で,ソメイヨシノとは違いカワヅザクラは早咲きでピンク色が強く満開が長く続き,2月初旬から1ヶ月間行われる「河津桜まつり」には150万人の観光客が訪れるという。ここから海岸に出て下田に着いた。
 下田といえば幕末の黒船来航が直ぐ頭に浮かぶ。ペリー艦隊は旗艦サスケハナ号など4隻で,1853(嘉永6)年7月,浦賀沖に現れ,江戸幕府に開港を迫った。丁度アメリカ独立記念日の頃で,江戸湾内で数十発の祝砲(空砲)を発射したら,江戸は大混乱となった。翌年2月にペリーが再来し3月,横浜村で日米和親条約が結ばれ下田開港が決まり,200年以上続いた鎖国が解かれた。次いで旗艦をポーハタン号に変えて交渉の場を下田に移した。この時21歳だった吉田松陰は密航による渡米を目論み,萩から駆けつけた。弟子の金子重輔と弁天島の祠(ホコラ)に隠れ,夜陰に乗じて小舟でポーハタン号に接近したが,幕府の海外渡航禁止令を知っていたペリーにより乗船を拒否された。自首した松陰は江戸に送られ投獄されたが,萩に連れ戻され松下村塾を開いて高杉晋作,伊藤博文,山県有朋など弟子を育てた。しかし安政の大獄で処刑され享年29歳だった。後にペリーは松陰のような志ある青年のいる日本は,将来いい国になるだろうと言ったという。弁天島は今は陸続きになっていて,隠れていた祠(ホコラ)の前に記念碑が建っていた。5月に和親条約の細則・下田条約が締結された。下田湾のペリー上陸地点には記念碑が建てられている。「黒船サスケハナ号」と銘打った遊覧船に乗り下田湾一周をしたが,昔のことが偲ばれて感慨深かった。後でロープウェイで寝姿山に登り下田湾を眺めたら,遊覧船が豆粒のように見えていた。1945(昭和20)年9月,日本敗戦の降伏文書調印式で,旗艦ポーハタン号の星条旗が本国から取り寄せられて,戦艦ミズーリに掲げられていた,ということだが知らなかった。
 下田の玉泉寺に総領事館がおかれ,1956年8月ハリスが初の総領事として着任した。一方,宝福寺には仮奉行所がおかれた。ハリスは清教徒の53歳の独身で仕事は多忙を極め,好きなラム酒を飲み過ぎて吐血してしまう。奉行所に看病する女性を世話して欲しいと申し出たら,侍妾のことだと勘違いして,当時美貌で新内「明烏」のお吉といわれるほど評判の芸妓・斉藤きちに白羽の矢が立った。17歳のお吉は船大工の鶴松と恋仲だったが,鶴松を侍に取り立てる,お吉には25両(250万円)の支度金と月10両(100万円)の法外な手当てを出すということで,泣く泣く二人の仲は裂かれてしまった。奉行所の籠で侍二人の警備付きで玉泉院に通ったが,町民の妬みを買い「唐人お吉」の罵声と小石の礫が投げられたという。お吉はハリスの看病に献身的に努め,ハリスが牛乳を飲みたいというので,当時禁制だった牛乳を手に入れて飲ませた結果,次第に回復して元気になり,3ヶ月後,お吉は解雇されてしまった。
 その後,お吉は髪結い業や小料理屋を営むが,相変わらず「唐人お吉」として迫害され,酒色に溺れ身も心もボロボロになって,現在お吉が淵と呼ばれてる所に入水自殺し,50歳の数奇な人生を終えた。引き取り手のない亡骸を,宝福寺の住職が哀れんで引き受け,同寺に葬った。なまこ壁の小料理屋「安直楼」は今も残っていたし,宝福寺には立派なお吉の墓と記念館が出来ていた。昭和時代にはお吉役を水谷八重子,田中絹代,山田五十鈴など名優が演じた映画が数本作られて市民の涙を誘った。
 宝福寺を訪れて驚いたのは,入り口に坂本龍馬の巨大な木像が立っていて「坂本龍馬飛翔の地」と書かれていたことである。NHKの大河ドラマ「龍馬伝」で龍馬ブームになっているが,文久3年,嵐のため土佐藩主・山内容堂と幕府の軍艦奉行・勝 海舟の船が下田に避難した。そして宝福寺で海舟がたまたま部下になっていた脱藩藩士・龍馬の許しを容堂に願い出て許され,龍馬の本格的な活動が始まったという。大河ドラマのロケも下田で数回行われた。
 下田には海中水族館があり覘いてみたが規模は小さく,イルカショーをやっていた。宿泊は高台にある東急ホテルで眺望が素敵だった。観光を終えて,JR「スーパービュー踊り子」号の2階展望車で東京に向かった。
 東京では小学校の同級生が銀座のテンプラ専門店「天国(テンクニ)」でミニクラス会を開いてくれたし,目黒雅叙園での義兄の米寿のお祝いに出席した。戦前,東京にいた頃,忙しくて殆ど夕食を一緒に食べたことのなかった父が,一年一度の家庭サービスとして忘年会は雅叙園でしてくれた。ここは平成3年に全面改築され,昔とは比較にならないほど豪華絢爛になっていた。義兄の会社で相撲の番付け表を印刷しており,野球賭博問題で7月の名古屋場所の開催が危ぶまれていたので,5万枚刷る所を2万にしたらしい。結局,解雇された大関・琴光喜が載ったままの番付け表であったため,一枚50円のものがネット販売で千円以上になったという。旅行も入れて楽しい数日間を過ごせて嬉しかった。




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