=== 新春随筆 ===
初の「日本人ノーベル賞」に最も近かった化学者
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田代四郎助は生涯で4回帰国している。これは
大正13年6月,学士院賞受賞のとき,上東郷村
の生家で撮影したものと思われる。
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先日,パソコンで検索を繰り返していたら,途中『田代四郎助』の名前に出会った。懐かしくなって開いてみた。「東郷中にこんなすごい先輩がいたとは知らなかった」という書き込みがある。田代の母校・薩摩川内市の東郷中学校に顕彰碑が建立されたのは昭和56年(1981)だから,投稿したのはそれ以前の卒業生だろうか。それにしても,郷里ではもっと知られているべき人物なのだ。
田代がアメリカ・シンシナチで亡くなったとき,ザ・カナディアン紙は「U.S Issei Scientist Nearly Won Nobel Prize」という見出しでその業績を紹介し,死を悼んだ。湯川秀樹博士よりはるかに早く,あと1歩で日本人最初のノーベル賞を手にしたであろう人物を,明治の鹿児島は輩出していたのである。
昭和55年(1980),社会部の記者だった私は,田代の足跡をたどってアメリカまで取材に出かけた。翌56年,記事がきっかけで地元東郷に顕彰会が設立され,記事は本になり,碑もできた。どんな人物なのか。
田代四郎助は明治15年(1882),当時の薩摩郡上東郷村斧淵(おのぶち)舟倉に生まれた。県立一中を卒業後,同34年6月渡米。皿洗いや新聞配達,掃除夫など従事しながら学費を稼ぎ,シカゴのハイドパーク・ハイスクールを卒業,シカゴ大学理学部に進んだ。高校の4年を2年で繰り上げ卒業,余勢をかって大学では早々に特別奨学金を与えられることになった。
「正直言うとね,高校で頑張ったのはこの奨学金が目当てだったのさ。そうでなけりゃとても大学など進学できなかった」
と,友人の生物学者・団 勝麿に晩年語っている。しかし,それが,奨学金目当てなどという計算づくではなかったことは,大学3年のとき,Phi Beta Kappaの一員に選ばれていることからもわかる。これは建国早々に設けられたアメリカ独特のエリート・クラブで,当時わが国の帝国大学で最高名誉とされた“金時計組”に似ている。なにしろ入学以来の成績が全科目93点以上,しかも順位が全体の5位以内,というからただごとではない。
田代の頑張りは少年時代から有名だった。一中時代,帰省する時は人力車や馬車には決して乗らず,一晩かけて鹿児島から東郷まで歩いた。わらじを片方踏み潰したらもう一方を左右交替ではき通す。わらじ代まで節約するくらいだから,床屋に行くなど論外だ。散髪は正真正銘自分でやった。試してみるまでもあるまいが,自分で自分の髪を刈るのは至難のわざである。それでも彼はやる。そして 「やっぱい後(うしと)ん方(ほ)が難(むっか)し。八幡さあの石段のごっなった」とすましていた。
それほどまでに田代家が貧しかったかというとそうではない。むしろ逆だ。代々造り酒屋を業とする村一番の素封家で,往年の羽振りのほどは今も残る堂々たる石蔵がしのばせている。頼めば学費ぐらいは出してくれたはずだが,四郎助は頼まなかった。
渡米早々の彼の頑張りは,時に命がけだった。零下20℃近くまで下がる厳しいシカゴの冬を,暖房なしのアパートで耐えた。よくまあ凍死しなかったですね,とあきれる団 勝麿に,こう答えている。
「電車の中で暮らしたのさ。環状線をぐるぐる終電まで一晩中乗り回し,本を読み,ものを書く。電車から降りたら体がまだ暖かいうちに帰ってパッと寝る。眠ってしまえばこっちのものさ」
シカゴ大学の大学院に進んだ彼は,ここで生涯の師となる細胞学のA・P・マシューズに出会う。神経反射に関する研究の大御所である。彼のもとで田代は注目の論文「Chemical Sign of Life」を発表,すべて生命あるものは炭酸ガスを排出していることを立証した。要するに「生命とは呼吸現象である」ということ。これは世界的大ニュースであった。大正6年(1917)4月1日のニューヨークタイムスは1面全段抜きで『生命の化学的兆候,日本人が解明』と報じた。
田代はこのあと,微量の炭酸ガスを正確に計測するためのbiometerなど機器を考案し,いわゆる微量化学(microchemistry)の一歩を踏み出すのだが,なぜかここで研究を中断してしまう。
「彼は続けるべきだった。そうすればノーベル賞は間違いなく彼のものだった」と,のちシンシナチ大学教授に就任して以来の友人グスタフ・エクスタイン博士が言っている。事実,5年後の大正11年(1922),同様に生物組織のエネルギー解明に取り組んでいたイギリスのA・V・ヒルがノーベル生理医学賞を受けるのである。ヒルは炭酸ガスではなく,生体のエネルギー放出によって発生する,ごく微量の熱を測定しようとした。同じミクロのメカニズムに迫りながら,いわば登山口を異にしての挑戦である。
私が同大学でエクスタイン博士に会った時,博士はもう90歳を超えていたが,年齢を感じさせない語り口で「不運が野口英世と田代には共通している。2人の研究は,ともに彼らの時代を乗り越えられるだけの連続性を持ち得なかった」と言っていたのを思い出す。英世研究の第一人者でもあり『Noguchi』の著書がある。
野口と田代の経歴はよく似ている。2歳年上の野口は田代より2年早い明治22年(1889),つまり同じ年齢のときに渡米した。そしてどっちも京都大学で博士号を取っている。日系の在米学者で帝国学士院賞を授与されたのは田代が第1号,野口は2人目。アメリカの大学で正教授になったのは田代が第1号である。
対照的なのは二人の性格であろう。万事に欲がない田代に比べて野口は大変な自信家であった。高等小学校まで出してくれた故郷の恩師・小林 栄に宛てた手紙の中で,「たぶん1,2年の間にはノーベル賞が授与されるであろうと当地一般,ヨーロッパ学界のうわさでございます。自分はそのうわさの中心であります」と書いている。
食うや食わず,極貧の学生時代,田代は教科書すら買えず,図書館や友人から借りて済ませた。ところがどううっかりしたのか,教授から借りた大事な本を紛失してしまったことがある。恐る恐る教授のもとに出向き,詫びた。聞き終わって教授はこう言った。
「そうか,わかった。あの本の値段は15セントだったから,きみ,15セント出したまえ」
田代はあきれた。腹が立った。教授ともあろうものが,貧乏学生に面と向かって15セントぽっちの小銭を弁償しろとはなにごとか。
それから20数年,ある学会の席上,田代はこの教授に偶然再会した。昔話に花が咲き,例の15セントの一件に及んだ。田代が「あの時はご迷惑をかけまして…」と言い出したところ,老教授は猛烈に怒り出した。
「きみ,一体なにを謝るつもりかね。あの本はあの時,きみに15セントで売ってやったはずだ。買ったきみがそれを捨てようと破ろうときみの勝手ではないか。以来わたしには関係ないことだ」
田代ははっとした。詫びに行ったあの時,もし(内心期待したように)「なくしたものは仕方がない。きみにくれてやるよ」と言っていたらどうだろう。このことが,後々までずっと大きな精神的負担となって彼を苦しめたはずだ。そのことを教授は知っていた。知っていたからこそ,15セントで彼を生涯の負担から解放してやろうとしたのだ。
アメリカ流の思いやり,生き方というのはこんなものですよ,と晩年田代は語っている。
彼は昭和38年(1963),79歳で生涯を終えるまでアメリカを離れようとしなかった。そう決意させたアメリカの「こころ」みたいなものを,私はこの小さなエピソードに見るような気がするのである。

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