=== 新春随筆 ===
留学回顧録〜基礎から臨床へ〜 |
(S38年生)
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西区・武岡支部
(パールランド病院)
猪鹿倉忠彦
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私は,平成3年に鹿児島大学第三内科(納教授)に入局しましたが,それは,老人医療,老年精神医学,特に認知症に興味があり,精神科ではなく内科学にも多少ともかかわれる神経内科を選んだわけです。その過程で,認知症や老人医療とはあまり関係のないものではありましたが,恩師に恵まれる中,2回留学をさせて頂きました。1回目は1993年〜1995年に名古屋大学医学部大学院へ国内留学。2回目は2000年〜2002年にロンドンのインペリアル大学へ海外留学です。当時のことを思い出して書くより,鹿児島大学第三内科の「1年のあゆみ」という教室誌に,便りとして投稿していた当時の記録がありましたので,より臨場感が得られるかと,抜粋・手直しして紹介します。
一部,専門的な用語が入っておりましてわかりにくいかもしれませんが,ご容赦ください。
名古屋への国内留学
『平成4年に鹿大二生化(村松教授)で,トランスジェニックマウスの成功を期に遺伝子ターゲッティングのプロジェクトが計画され,当時大学院生だった私は,納教授の紹介の元,初めは軽い気持ちで参加しました。しかし,実際取り組んでみますと,まず化学基礎知識の整理,生化学全般に及ぶ実験手技の修得,細胞培養,マウスの飼育管理,特殊機器の製作など試行錯誤を重ねながらやっていかねばならないことが分かり,気の遠くなる思いでした。私のテーマは,鹿大二生化で発見同定されたベイシジンという免疫グロブリンスーパーファミリーに属する糖蛋白で,その遺伝子のマッピングとシークエンスもやらねばなりませんでした。現在,Basigin(BSG)はCD147として同定されていますが,当時は,現在の鹿大皮膚科の金蔵教授らも一緒に携わっておりました。平成5年春に村松教授が名古屋大学第一生化学に移られ,私も10月から名大に大学院特別研究学生として移籍したわけですが,この頃からタイムリミットという言葉が重くのしかかっていたように思います。名古屋では,熊大遺伝医学研の要先生(現琉球大学医学部准教授)と共同で遺伝子関係や細胞培養の条件設定とセットアップ,動物舎でのマウス及び管理のセットアップ,特殊機器の作製やセットアップなどを行い,3月にはベイシジン蛋白が発現しないように合成したノックアウト遺伝子の作製,作製した遺伝子と相同組み換えを起こさせた多能性幹細胞(ES細胞)の選別までこぎつけました。しかし,4月からは全て1人でやらねばならず,1ヶ月ほどキメラマウス作製の試行を行い,6月からベイシジンノックアウトの生殖キメラ(生殖系に目的の蛋白が発現しないように人工的に組み換えた遺伝子が入っている)の作製にかかり,幸運に幸運が重なり7月にはキメラを手中に納めることができました。今は業者が目的のノックアウトマウスを作製してくれるようですが,当時は相同組み換えのESをつくることすら大変で,キメラマウスになると物凄い偉業だったんです。しかし,実際に生殖キメラであるかどうか判明したのはそのキメラマウスから生まれた仔マウスを解析し,ヘテロ(人工的に組み換えた遺伝子と正常の遺伝子の両方をもっている)を確認した10月でしたから,それまでの間は解析同定の為にアイソトープを使ったサザンブロット,ノザンブロット,ウエスタンブロットやPCR(ポリメラーゼ連鎖反応)等の条件設定,臓器など組織染色のトレーニング,ベイシジンの胚〜成体での発現の検索(免疫染色やin situハイブリダイゼーション)等々を並行してやっておりました。なかなかホモマウス(正常な遺伝子はなく,人工的に組み換え遺伝子のみを持っている)が生まれず,ひたすら仔マウスを生ませ,200匹近く調べた3月にようやく記念すべきベイシジンノックアウトのホモマウス第一号を得ることができました。まさに怒涛の一年半で,徹夜もよくありましたが,深夜の3時過ぎが帰宅時間の平均だったと思います。夕食はそれから食べていましたので,家内に大変申し訳なかったと思っております。実験を終えて深夜に駐車場に歩いていくまでに,運というものがあるなら全て使い切ってもいい,でも本当にうまく行くのだろうかという不安と疲れからか,よく傍らで嘔吐していたことを思い出します。おかげで体重は45kg位だったと思います(今は60kgです)。しかし,大きな失敗による足踏みはなく,本当に一生の運を使い切った様なものだったと思います。そろそろ帰鹿の時期になっていましたが,半年延期し9月までホモマウス(ベイシジン蛋白が発現していない)におきる種々の異変の解析にあたりました。この半年もなかなか大変で,ホモマウスが生まれにくく,2,000匹以上の莫大な数のマウスを維持しつつ,癌センターなどの専門研究機関とも共同研究という形で解析を行いました。なんとか9月末までにまとめ上げ,遺伝子ターゲッティングをゼロからやり遂げたという満足感はとても大きかったのですが,まだまだ調べたいことが山程あり,後は門松先生(現名大一生化教授)に託しはいたしましたが,大変心残りでありました。恥ずかしい話,村松ラボを引き上げる当日,溢れ出る涙をこらえることは出来ませんでした。しかし,この私の一連の実験の成功の裏には,村松教授のバックアップはもちろん,納教授はじめ三内科教室の皆様のご理解があってのものだったと常々感謝いたしております。また,名古屋大学で初めて遺伝子ターゲッティングを成功させ,村松ラボの長年のテーマである,ミッドカイン(MK)蛋白のターゲッティングプロジェクトも軌道に乗せることが出来,自分でも嬉しく誇り高い思いでいっぱいであると同時に,生化学という基礎医学を存分に学び,その価値を改めて知ることが出来たことは,医師としての私の生涯の宝物であります。』
ベイシジンは,その後も名古屋大学医学部第一生化学教室のテーマのひとつとして,また,鹿児島大学皮膚科学(金蔵教授)でも皮膚癌との関係から研究テーマとして引き継がれております。ベイシジンの詳細についてご興味のある方は,Googleなどで“Basigin knockout mouse”,“Basigin”,“CD147”,“ベイシジン”などを入力してご検索ください。

インペリアル大学への海外留学
『イギリスはロンドンのImperial CollegeでCharles R. M. Bangham教授の免疫学教室でHTLV-I感染のメカニズムをテーマに2年間留学しておりました。2年間は長いようで短く,この度10月の末には早くも帰国いたしました。
納教授のご推薦によりロンドンに発ったのは2000年の10月20日でした。先のF先生とS先生も同教室への留学で立派な功績を残されており,私に務まるかどうか不安でいっぱいでした。ラボのメンバーは,イギリス,フランス,ドイツ,スイス,ギリシャ,インド,マレーシア,イランそして日本(私のみ)と国際色豊かでしたが,皆さんとても親切で,つたない私の英語を理解してくれ,ラボ内だけでなく日常生活でも色々援助してくれました。もちろんバンガム教授もとても紳士な方で,公私において何かとサポートしてくださいました。私の研究のメインテーマは「HTLV−Tがいかにして細胞から細胞に伝達していくか」ということを共焦点レーザー蛍光顕微鏡や電子顕微鏡を用いて調べていくことでした。バンガム教授は,オックスフォード大学,ケンブリッジ大学,ロンドン大学やアメリカの多くの研究機関などのその分野で著名な研究所(者)との共同研究や相談など頻繁にコンタクトをとってくださり,とても有意義でした。特に共焦点レーザー蛍光顕微鏡に関しては,オックスフォード大学のSir William Dunn School of PathologyのGillian Griffiths教授の下で共同研究させて頂きました。研究を続けていくと次から次にやらねばならないことが出てきて,帰国に際し多くのやり残しを引き継いできましたが,2年間は長いようで短く,あっという間に過ぎ去ってしまいました。肝心の研究の成果に関しましては,HTLV-Iの感染したCD4陽性T細胞から他のリンパ球,樹状細胞等へのHTLV-Iの伝播に際して,細胞同士の接着と細胞の骨格要素の変化が免疫システムを介して関与している可能性を発見し,「ウイルスシナプス (Virological Synapse)」と提唱しました。しかし,同じ大学の別ラボのHIVを研究しているグループが我々の結果に非常に興味を抱き,共同研究をすることになりました。ある程度の情報やテクニックを教えていたところ,同じレトロウイルスのHIVでもこのVSの関与が確認され,突如,投稿競争を強いられました。相手はHIVなので話題性では敵いませんが,我々が発見したセオリーですので,絶対に負けるわけにはいきません。いくら学会で発表しても,論文(出来れば名の通った)で1番最初に提唱しないと意味がないのです。2番では駄目なのです!
結局,投稿競争は我々の勝利で,私の論文がScienceにアクセプトされるやいなや,今まで廊下で挨拶もしなかったHIVを研究している教授が,コーヒーを持って笑顔で賞賛と新たな協力体制をもちかけてきました。さすが,イギリス紳士(?)です。
一方,ロンドンには家族(妻と幼稚園の息子)も一緒に参りました。ロンドンはご周知のように数多くの美術館や博物館があり退屈はしません。家内はおそらくロンドンの大部分の美術館や博物館を巡ったようです。以前,名古屋大学に国内留学した際,実験に没頭し全く観光できなかった思い出があり,今度はなんとかうまく計画を立ててと考えていたのですが,やはり家族の期待に十分応えられたかは疑問が残ります。それでも今年の春は友人に案内してもらい,自家用車で4日ほどかけてのんびりしたフランスの田舎町巡りを,昨年の夏には息子の希望でノルウェーにフィヨルドを見に行きました。また,初秋にはエジンバラへ行ってきました(本当は北イングランドではネス湖やインバネスの方に行きたかったのですが)。他に行った所は,ストーンヘンジとミステリーサークル,フォークストーンでの化石掘り等です。また,イギリスはゴルフでも有名ですが,腰痛の為しばしゴルフから離れていて,しかも周り(ラボ)にプレーするメンバーがいなかったこともあり,残念ながら一度も足を踏み入れませんでした(ゴルフクラブも持って行っていなかった)。
その他いろいろ失敗談や珍話・奇話もありますが,興味をもたれた方は声をかけてください。お話いたしましょう。
末筆になりましたが,2年間のロンドン留学に際しまして不在中皆様になにかとご迷惑をおかけしたかと思います。また,無事留学ができたこと,家族ともどもイギリス生活をエンジョイできたことは,皆様のご厚情によるものだと大変感謝いたしております。どうもありがとうございました。…。』
Virological Synapseに関する研究は,現在,インペリアル大学のImmunology教室ではもちろん,オックスフォード大学のSir William Dunn School of Pathologyという大きな研究機関はじめ,欧米でも多くの研究者たちがさらに詳細に解明しようとしのぎを削っています。特に,HIVでも感染・発症のひとつの重要な経路と治療法への可能性として注目されており,今後の研究のゆくえが楽しみでなりません。ご興味ある方は,Googleなどで“Virological Synapse”,“Viral synapse”などを入力してご検索ください。

以上の回顧録は,実は鹿児島大学の医学生や鹿大卒の臨床研修医生に読んでいただきたいのです。と申しますのも,もちろん医師になられたのですから,患者さんと向き合い,医師としての資質や診療のスキルを十分に積むことは言うまでもありませんが,長い医療活動の中で,最初のうちは先進医学や治療方法へフィードバックされる基礎医学にも目を向けてみてはいかがでしょうか。
臨床と基礎の両立は難しいと思います。また,結果が出なかったり,自分の予想と違っていたり,解析に苦しんだり,苦労も多いと思います。しかし,基礎を学んで,たとえすぐ結果が評価されなくても,将来に自分の研究が臨床へフィードバックされる(可能性がある)という誇りを持つことが大切だと思います。
私の行いました両研究とも,鹿児島大学医学部で臨床の1コマから発起した研究で,当時は基礎的な部分をなすものでしたが,その後も世界中の多くの研究者たちが興味を持ち,さらに発展して多くの研究成果へと結び付いています。火付け役が研究の一線から去ってしまったという自責の念はぬぐえませんが,これが近い将来,臨床に何らかの形でフィードバックされることを切望してやみません。
もちろん,基礎ではなく臨床留学で欧米の先進医療や技術を学ぶことにも進んでチャレンジすべきだと思いますが,やはり帰国されたら,大学での応用はもちろんですが,ゆくゆくは地元の地域医療でご貢献頂きたいと思います。
臨床研修制度が始まる前は,大学卒業後ほぼ卒業大学の医局に入局し,先輩医師の指導の下で臨床研修を行い,また興味が出たり教授から声がかかれば,臨床研究や基礎研究に取り組んでいた,あるいはそのチャンスが多々あったと思います。しかし,今は臨床研修を終えた後は,中央の大病院等に赴き,研究に興味がなければ,改めて大学院に入ったり,臨床あるいは基礎研究に自ら携わる若き医師は少ないのではないでしょうか?魅力ある大学創りも大きな課題ではないかと思いますが,卒後研修を終えたら,できることならまずは出身大学すなわち鹿児島大学に戻り,医局や大学院に入り,研究テーマにしたがってリサーチや基礎あるいは臨床留学を経験することも大切ではないでしょうか?
興味ある科に入局し,テーマに沿った研究や留学で,さらに先進の見識を深め,その後の臨床活動に生かすべく,医師としての活動のバネにされることも素晴しいことだと思います。その過程の中で,己が望む地域医療への取り組みを模索し,地方で活躍する医師として鹿児島の医療の発展と活性化にご尽力頂きたいと思います。
近年は医療崩壊の最中,臨床研修制度の是非が問われ,特に地方での医師不足や地域医療の疲弊が問題となっていますが,臨床研修制度そのものが継続されるのであれば,後期研修を終えたら,まず出身大学へ戻り,若く新しい力で大学や医局を活性化することで,大学と地域医療との関係も再構築され,地域医療も活力化・安定化し,医療崩壊の歯止めになるのではないかと思う次第です。
臨床研修医の皆さん,母校である鹿児島大学の素晴しさを再確認して,新たなチャレンジをしてみませんか?

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