某日,私は友人に誘われて元文の板碑の存在を知った。それは郡元から紫原に登る陸橋の右側の崖下に人に判らないような場所にひっそりと建っていた。板碑の文意は大体次の通りである。
「元文2年,第22代藩主,島津継豊公の時に彼の侍医の1人が無実の罪に問われて斬首されたが,その医師の無実が判明し藩主が急いで中止命令を出し,使者が馬で駆けつけた時,直前に刑は執行されていた。藩主は此れを悔い,その医師の為に碑を建て,特に藩士に命じて丁重に供養させた。近所の人はこの医師が死の直前まで住民の病気の事を心配していたのを聞き,“オイシ(医師)サア”“いしゃどん”と言って人柄を偲んで来たという。この塔は梵字で5文字が刻んである。梵字で空,風,火,水,地の五輪で一切の功徳を兼ね具えている事を示している。」
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写真 1 涙橋血戦の碑
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写真 2 崖際にある住宅地
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写真 3 造成された崖
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写真 4 昔の処刑場所
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図 1 周辺地図
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写真 5 元文の板碑と石塊
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と書いてある。此れを読んだ時,私は斬首された医師の無念さに同情し冥福を祈ることだった。そして当時の島津藩における医師の立場を考えた。
島津藩時代,郡元の新川涙橋の手前に広い敷地の牢屋敷があり,罪人を収容して慶賀者に支配をさせており,ここを慶賀どん屋敷といっていた。敷地の中に囚人墓地があり無縁仏の碑があったが,今ではその一帯が小さな公園になって肝心の碑石は無い。昭和61年(1986年),鹿児島刑務所が吉松に移転するとき一緒に移転したらしい。一方,慶賀屋敷から新川を隔てた涙橋の袂に大きな記念碑がある(写真1)。此処は罪人が家族と別れる時に涙を流した所だということを聞いていたが,碑文を読むと囚人と涙の決別をした橋であるという説明の後に,西南役の時に枕崎から来た薩軍と優勢な官軍が死闘を続けた場所であるということを並べて書いてある。私は心に引っ掛かるものがあった。西郷さんに殉じた崇高な若者の死を囚人の刑死と並べて書くことは西南役の戦死者に対しては失礼に当たるのではないかと考えている。
罪人が処刑されるのに「笞打ち,切腹,斬首,磔刑,晒し首」などがあり,その刑場は涙橋から南へ約800m下がった所で紫原から流れる小川の奥だった。昭和初期の記憶によると現場は切立ったシラスの崖で薄暗い不気味な所だった。現在では紫原に通ずる坂道が出来て崖際は住宅地になっている。昔のシラスの崖には蔦,蔓が生い茂って防護壁も出来ており全く昔の面影はない。坂の出口はJR,市電の踏み切りになっていて昔処刑場だったなど多分誰にも判らないだろう(写真2,3,4)。
処刑が終った後は,「冷物取ひえものとり」と言って若者達が集まって囚人の死体を剖き肝臓,胆嚢を取り出させることで肝試しとして使われた。人斬り半次郎(桐野利秋)はよく来ていたそうだ。ついでに思い出すのは,私の記憶では年末の29日には正月用の餅つきはするなという習慣があった。境迫門(さかいせと)の処刑は29日に行われたことと,二重の苦をもじったものだろう。昔の事ながら懐かしく思い出す。
然し医師の板碑が建っているのは一般の処刑場より大体200mぐらい涙橋寄りの場所だ(図1)。処刑を別にしたというのは医師の地位が武士に準ずるということを考慮されたものだろうか,犯罪の内容に依ったものだろうか。然し武士なら切腹が普通であるが,斬首だったことにも疑問を感ずる。このことに対する資料が島津家にはない。
ここで先ず,藩内における医師の地位を第22代島津継豊公を中心に同時代前後の島津藩の医師の地位を考えてみた。奥医師,お目見え,侍医などに分かれ,総じて武士に準じていた。町医者は別の区分だった。一応,医師は一目置かれていたというその頃,薩摩には明国渡来者がいて医師として藩に仕えて屋敷をあてがわれていた。
角三官は江川三官として第19代藩主光久公に仕えて加治屋町に屋敷を与えられていた。屋敷内の清滝川に掛かる橋を三官橋と呼んでいたが,今では電車通りになっている。
沈一貫は今の天文館公園の近くで清滝川の傍に屋敷があり川に掛かる橋を一貫橋といったが戦後なくなっている。
安光禹は汾陽かわみなみ理り心しんと言って第17代義弘公に仕え,朝鮮役に際して通詞を勤めた。非常に信頼されていたそうだ。102歳まで生きたという。
麻酔の先駆者,伊佐敷道与は第21代吉貴公,第22代継豊公の奥医者を務めた。
他にも古方医学派として京都に出て後藤艮山,(温泉学者)山脇東洋(日本で最初の系統的人体解剖を施行)について医学を修めた薩摩の医師たちも多かったし,江戸や長崎に出て医学を学んだ医師もいた。森元貞興,重久道榮,上田源左衛門,愛甲喜春など今でも県内各地には当時の医者の末裔ではなかろうかと推定される名前の医師が多い。
島津藩の様な外様大名には参勤交代の義務があり,1650q(411里)の遠路を1年おきに片道1カ月〜1カ月半かかって往復していた。従って大体藩主一代の任期中に10〜20回往復している。藩の格式の関係で1,000人に近いお供を連れて旅の苦労,それに幕府のいやがらせに対する気苦労も大変なものだった。従って力を消耗する事,甚だしく,特に第22代継豊は体が弱く病気が多かったので,江戸まで1カ月半は掛かっていた。当時藩主の健康に関する医師の任務は重かったと思われる。
今までの文章は元市立病院小児科部長,故森 重孝先生の詳細な鹿児島医学史を中心に鹿児島県史・市史も参考にした。然し島津家の資料は西南役の時,大山綱良県令(初代鹿児島県知事)の命令で全部焼却されたと聞き大いに失望した。鹿児島では薩英戦争,廃仏毀釈,西南役,第二次大戦に巻き込まれ,その度に城下街全体が焼き出されて大事な資料が大部分失われている。それに近年過度の個人情報保護が厳しくてなかなか資料が集まらないのに苦労する。また折角建てられた碑文も,特に近代的都市開発とか道路拡張とかで次々に失われていくのは残念だ。
最後に板碑に書かれた空,風,火,水,地の梵字について記しておきたい(写真5)。梵字は遣唐使時代に鑑真,空海,最澄により日本に持ち込まれたもので諸仏尊を現し経文,卒塔婆など権威あるものとして開運厄除け御護りの意味があるというが,非常に難しくて良く判らない。現在の板碑は火山灰特有の溶結凝灰岩(河頭石)で建てられているが,今ではすっかり風化してただでさえ読み難い梵字がいよいよ読めなくなっている。また碑文の説明に五輪塔があるように書かれているが,その現物はない。ただ板碑の後ろに幾つかの石塊が積まれている(写真5の矢印部分)。このことではないかと想像している。残念ながら調べ様がない。
今回の調査に当たり県立図書館,尚古集成館,黎明館,教育委員会等にご指導を受けた。改めて御礼申し上げます。
参考資料 森 重孝 薩摩偉人群像
鹿児島の医学

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