=== 随筆・その他 ===
心痛む臨床試験の思い出
プラセボ効果を考える(その1)
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臨床に携わっていると,ある治療で患者が見事に治癒したという経験は心に深く残り,その後の診療に大きく影響することは間違いない。しかし,「経験はいくら重ねても科学にならない」というのは,臨床疫学,臨床薬理学を支える鉄則である。2000年以上前にヒポクラテスも「経験にはだまされやすい」といっているとおりである。その治療を施さなくても治ったかもしれない,対照をおいた比較試験でしか効果は証明できないというわけである。しかも治療をしなかったということが患者にも医師にも分かっている比較では,効果判定には不十分だということで,もうかなり前から新薬の認可には大規模無作為二重盲検試験が必須とされるようになっている。しかしこれがなかなか困難である。特に抗不安薬や抗うつ薬のように自覚症状でしか効果を判定できないときには,厳密な二重盲検法で薬の効果を判定することがさらに困難となる。
もうかなり昔のことであるが,私が在籍していた鹿児島大学第一内科は心身医学が専門の金久卓也教授が主宰しておられ,私の専門は心身医学ではなかったが,研究でも臨床でもどうしてもお手伝いしなければならないことが多かった。特に私の専門の循環器疾患に及ぼす心理的,社会的要因の研究では責任を負う機会も多かった。そのような仕事のひとつに,ある薬の開発に伴う全国的な大規模のプラセボを対照とした第三相試験の責任者になったことがある。
米国ですでに抗うつ薬として使用されており評判も良かったので,薬効は簡単に証明できると予想していた。全国のそうそうたる精神科医,心身症専門家,臨床薬理学者,ほとんど大学教授だったと思うが,の協力を得て,うつ,不安,緊張,睡眠障害等の症状をなるべく客観的に評価できるように工夫して評価表を作成したつもりではあった。全国のかなりの施設,専門医の参加のもとに,時間と苦労を重ねて目的の症例数を集めることが出来た。しかし,結果は惨めだった。見事に実薬と偽薬との間の症状改善に統計学的な有意差が出なかったのである。心身症専門の教室,診療科の参加が多かったので,対象になった患者に軽症者が多かったためかもしれないとか,参加していただいた専門家たちに本当にうつや不安の程度を正確に判断する能力がないのではないかなどといった失礼なことまでも考えたりした。しかし,最終的には,うつとか不安といった主として患者の自覚症状にたよらなければならない薬効を二重盲検法で果たして評価できるのかという疑問を感じたことも事実であった。プラセボ効果が大きすぎること,精神症状の評価が困難だというのが薬効を証明できなかった言い訳として考えた理由であった。
結局,この仕事は論文にも出来ず,莫大な費用をかけた会社は承認申請も出来なかったのだと思う。私は開封,集計直後に米国への留学に出発してしまい,後始末はしないままであった。会社に申し訳なかったと,今思い出しても心が痛み,今まで思い出すこともなかったが,あとで紹介する予定の本を読んでこの時のことを思い出した次第である。具体的な薬品名を書くのは心苦しいのでご勘弁いただきたい。

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