私は5人兄弟で、姉・私・妹(R子)・弟・妹(Y子)である。姉は人吉高等女学校を卒業し、2つの就職口があった。満州電電と小学校助教員である。父が満州の石炭会社に勤めていて、昭和20年8月には人吉市に残っていた私達も満州へ移住する予定になっていたので、母・姉・私(当時:中学2年生)の3人で話し合って、一足先に姉は満州へ渡っていた方がよかろうと満州電電へ勤めることに決めた。姉の同級生があと2人同じ会社に勤めることになり、昭和20年3月末、3人は満州へ渡った。
その当時の幼い私は日本が敗けるなどと露ほども考えていなかった。知識人達はそれを予測していたそうである。その年の8月15日、日本は連合国に無条件降伏した。父と姉との通信は不能となり、その生死も不明であった。勿論、父からの送金も途絶えた。今まで働いた事がない母は、知り合いの新聞販売店の主人に頼み込んで新聞配達を始めた。然し、その賃金では食べるだけがやっとで、他の事には廻らなかった。母の着物が次々に消えて食べ物や子供の学費になった。金のない中で、母は、「R子も女学校に出しておかないと、父(とう)ちゃんが帰って来た時叱られる。」と言って、昭和21年3月、R子に人吉高
等女学校の試験を受けさせた。R子はパスした。担任の先生が家庭の事情を知って、日本育英会の手続をして下さった。それでR子の学費は心配なくなった。私は、父が引き揚げて帰ってくるまで授業料の催促がなかった。父が引き揚げて来てから育英会の申し込みを担任の先生に頼んだが、「一家から2人はできないそうだ。」と言って、授業料半免の手続をして下さった。これでも父の負担が幾分軽くなるので私は内心嬉しかった。
昭和26年3月、私は中学校の同級生に2年遅れて高校を卒業した。中学生の時、肺結核を患い2年間休学したためである。
昭和26年も今と同じで就職難の時代であった。戦争で会社や工場が破壊されて少くなっていたのと、外地からの引揚者や復員兵や学徒動員の生徒達が、内地に多数帰って来て人があふれて余ったためであった。
高校3年の卒業式の日(3月8日)までに就職が決まっていた生徒は就職希望者の7割位であった。今と同じで、コネで決まった人も多く、就職試験はみせかけだけで、試験前に就職者が決まっているものも多かった。私も就職試験を8つ位受けたが、まともな試験はそのうち3つ位であった。検察庁の試験は職業柄まともであった。(私も含む)4人が受けに行った。論文が試験であった。1週間後、私と村上君の2人が面接に呼ばれた。そして村上君が採用された。彼は5年位人吉で勤め、福岡へ転勤し、福大の夜間へ通学して法律を学び、司法試験を受けて合格し弁護士となって福岡市で開業した。彼は人当りがよくてはやっていたようだが1つの汚点を残した。お客さんのお金6阡万円をだまし取ったのだ。熊本県の新聞でも報道された。(その後どうしているのかな?)と時々思う事がある。私がこの試験に落ちたのも、1つは肺結核の既往歴があったためではないかと思う。当時は未だ三者併用の治療法はなく、(安静・栄養・転地療法)の3つが治療の主体であった。この3つとも私の家では無理だった。食事にしても唐芋をふかしたもので、副食は無かった。時には大豆を煮たものであったり、トウモロコシを粉にしてダンゴにしてゆでたり焼いたりして、少しの醤油や味噌を付けて食べた。米は月の10日分もあればいい方であった。
私はとうとう卒業式まで職がなかった。遊んでいるわけにもいかず、父と同じ魚の行商を始めた。古自転車を買う金もなかったので、大きな背負い籠に干物を入れて歩いて田舎を廻った。行く方向を3方向に決めて行商をした。大雨の日が休日であった。1つの方向に高校で物理を一緒に勉強した美人の卒業生が住んでいる部落の方へも1日は行った。
或る日、その女性と会わねばよいがと思いながら、その方面へ向っているとその人が住む部落の入り口の橋の上で出会った。(あっ、彼女だ)と判って私は持っていた英単語帳を読むふりをして行き違った。彼女は、(私と)気付いていたのだろうが、真直ぐ向いて歩いて行った。
後年、同窓会名簿を見ると、彼女は東京の女子短大を出て東京に住んでいた。彼女の様な美人には東京が似合うと思った。
4月初、小学校代用教員の採用試験があった。私は先生になるのは好きではなかったが他に職がないので期日ギリギリに願書を出した。上旬に人吉市内の小学校の講堂で筆記試験があった。大半は人吉高生であったが、農業高校やもう1つの高校の生徒、そして中年の男女(引揚者か?)など250名位が試験を受けた。
5月上旬、「筆記試験をした同じ小学校で面接をするから、よかったら出て来なさい。」というハガキを受け取った。私は決められた日の指定の時間に行った。50人位集まっていた。中年の男女は少なかった。私より先に面接を受けた同期生数人が「勤める学校が決まった。」と喜んで面接室から出て来た。私の番になった。「今日来てもらったからといって必ず採用になるとは限りません。」と言われた。(だめだ)と思った。夜、就職係の高校の先生のところへ行って「何とかして下さい。」とお願いした。
春木先生の御尽力と、私の試験が1番であったことが幸いして7月上旬、球磨川上流の水上村岩野小学校に就職出来た。教頭先生のお世話で、村役場の助役さんの2階に下宿することになった。その部屋には2級先輩の同じ小学校の先生が下宿していて相部屋であった。
下宿先には私より少し年下の娘さんがいて洗濯をして下さった。娘さんは、先輩の洗濯物はしわを伸ばし、きれいにたたんで渡された。私のはそのまま1つにまとめて部屋の隅に置かれた。先輩は下宿が長いので待遇が良いのだろうと思ったが、後年2人が結婚したと人に聞いて、あの時2人は恋愛中だったのだと思った。私は、結婚相手の女性は健康であり、せめて短大以上を出た女(ひと)をと考えていたし、結婚は30歳位でよいと思っていたので、2人をみて羨ましいとは思わなかった。
しかし私は、その下宿を1ヶ月で出ることになった。それもハプニングに因ってであった。父にいたぶられていたすぐ下の妹が、突然家を逃げ出さねばならぬ出来事が起きたのだ。
人吉高校3年生の妹R子は8月の夏休み、60q離れた八代市まで小学生の家庭教師に行っていた。或る日、本を探していた父が、R子の日記を見つけ出して読んだ。(私は高校を卒業したら家に居ない。)と妹は書いていた。父はそれを読んで立腹し、「殺してやる!」といってナタ(切り道具)をもって夕方居間に座ってR子の帰りを待っていた。姉は共同井戸で米を研ぎながらR子の帰りを待った。5時近く、R子の姿が道路へ見えたので姉はすぐ道路へ出て訳を短く話して「友達の所へすぐ逃げなさい。」と逃がした。R子は3q離れた農家の親友の家へ逃げた。父はその方面には行商に行かないので見付かる心配はなかった。
そんなことがあった4日後、私宛に父からハガキが届いて「R子が家出した。そちらへ来てないか。」と書いてあった。来ていなかったが、真相を知るため、私は翌日自転車で30qを走って実家へ帰った。父は行商で留守で姉がいた。姉から前記の事を聞いて、その親友の家へ行った。これからどうしていいかを相談しに高校の春木先生の所へ行った。「君のところへ連れて行きなさい。学校も転校させなさい。」と助言して下さった。「2〜3日したら迎えに来るから」とR子に言って、私は一旦下宿へ帰った。下宿のおばさんに事情を話して2人で自炊する部屋を探してもらった。すぐそばに納戸の空いてる家があった。そこを借りてR子を呼んだ。高校も変わった。元女学校だったその高校は女生徒が多く、進学者は殆どいなかった。夏休み中、R子に自転車の乗り方を教え、40分かけて多良木高校へ通学させた。2回、青年の自転車にぶつかってビンを割ったそうだ。ケガはなかった。青年は許してくれたそうだ。物理などは先生と1対1の授業だったそうだ。
そして卒業し、九大高看へ進学させた。就職は東京日赤へ行かせた。R子は日赤に3年勤め、お茶大へ進学し2年勉強して東北大医学部へ入学し、プシコ(精神科)のDr.となって東大へ籍を置き、両国の同愛記念病院に勤めた。
そこで生涯の親友、徳岡さん(広大、国文科卒、教科書会社 国語科の勤務)と知り合って2人で共同生活を始めた。東京は物価が高いので、千葉県船橋市にマンションを買い、そこから2人共東京へ通勤した。今は2人共定年退職していて年金生活をして自由に暮している。
下の妹Y子も一浪させて国立大阪病院高看へ進学させ、卒業して自分の考えで大阪府立保健婦学校へ行き、保健婦として大阪府で家庭を持ち、今も保健婦として、暇をみて働いている。Kinder5人、忙しい生活だ。弟は「高校へは行かぬ。」と言って、私の知人のお世話で、お菓子作りの方のところへ住み込み、人吉で1年修業し、熊本市へ出て2年、福岡市へ姉を頼って出てパン造り2年、大阪へ出て和菓子・洋菓子作りを3年修業した。その後、大阪の店で働き、そこに働いていた富山市出身の娘さんと結婚、5年後富山市へ転居し、お菓子屋の店をもって菓子作り・販売・卸しをしている。富山市に家を建て温和に暮している。
弟が「高校へ行かぬ」と言ったのは、父に殴られたりするので家にいたくなかったためと思う。彼ももう70歳、いいおじいさんだ。今、孫が4人いる。私は彼のところへ3回程遊びに行った。立山の温泉に連れて行ってもらった。山中に在り、静かでいい温泉だった。
私は人吉高校卒業後、11年間、小学校代用教員として小学校に勤め、昭和37年鹿大に入学し、卒後、鹿児島県・宮崎県の病院で12年間働き、昭和56年1月、現地で開業し、内科医として地域の人々を診ている。100歳まで現役で平和に暮すのが念願です。

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