=== 随筆・その他 ===

ニワトイコシタエ(鶏の調理)


中央区・中央支部
(鮫島病院)         鮫島  潤
 鹿児島市医報第47巻8号にエフエム鹿児島社長の大囿純也氏の「ニワトイコシタエとケセンダゴ」の文章を拝見した。私もニワトイにもケセンにも幼い頃の思い出がある。80数年前、友達と連れ立ってよく凧や独楽、ケセンの根など買いに行った古い小さな小間物店が今も残って居る。店の主人は当然代替わりして居るが、その店の前を通ると懐かしくて堪らない。
 今回はニワトイコシタエの思い出を述べてみたい。昔は大抵の家は庭が広くて鶏を放し飼いにして自由気侭に虫や草など食べさせていた。家の床も高くて子供ならば少し屈めば潜ることが出来ていた。鶏も床下に自由に巣を構え卵を産み、よく卵の採集に床下に潜っていた。時には可愛いヒヨコをゾロゾロと連れだって出て来るものだった。
 お正月とか時に珍しい来客があると早速父から(ニワトイコシタエ)の指図が来る。庭先を自由に遊び廻って餌を漁っていた鶏たちのうち、若くて色艶も良く肥えた1羽を追い駆け回してやっと掴まえて荒縄か指で首を締める、または釘で後頭部から延髄を刺す。今までバタバタしていた鶏が急にグッタリとなり白い眼を剥いて怨めしげに私を見つめている。気の毒な事をしたものだ。この瞬間が私には堪らなく嫌だった。
 彼女の死を確かめると体の温もりのあるうちに早速羽毛をむしる。雄鶏の尻尾や毛羽先の羽根は奇麗だから妹達の良い玩具になって居た。裸身には産毛が全身残って居る。薪に火をつけて全身を炙る。ジリジリと毛が焼けて登る煙の香ばしい匂いがなんとも言えず、今でも印象に残って居る。
 次にコシタエカタ(調理)に移る。慣れた包丁を研ぎ、切れ味を確かめてから全身の皮を剥ぎ、毛羽先(人間の指の部分に相当する)を切り込み、思いっ切り反転させて羽根を外す。飛翔の為非常に発達した大胸筋(ささみ;笹の葉に似る)を剥ぎ取り、肋骨、胸骨を外し(此れは鶏ガラで良いスープが取れる)次に内臓(食道、胃、肝臓、腎臓)を一気に抜き取る。中でも砂利が詰まって弾力がありながら非常に固い砂嚢の厚い壁を切り開き反転させて砂を抜き取ると意外に奇麗に見える(哺乳類の歯の代わりだそうだ)。
 子宮、卵管の中には小指大からピンポン大の卵の原型がズラリと並んでいる。私の子供の頃は卵の殻が薄いときは卵の殻や貝殻を砕いて餌に混ぜる物だった。此処まで捌いたら後は母や叔母たちに渡していた。出来上がった料理は来客と父が共に喜んで食べていたのをよそ目に見ていたものだ。
 現在では鶏飼育はまるで工場みたいな長いケージの列にギッシリ詰み込まれ、自動的に餌を与えられて産んだ卵は本人の意志もなく金網の外に転げ出る仕組みになっている。それを定期的に収卵して賞味期限の印鑑を押して市場に運び出される。次第に年をとって卵を産まなくなると廃鳥として処分される。彼女等は大規模な機械にズラリと吊るされて何時の間にかブロイラーとして店先に並ぶ運命になる。何か空しい。我々の頃は死んだ(殺された)後でも骨や内臓は庭先に埋められて庭木や野菜の肥料になった。無駄なく一生を終えたものだった。
 私はこの一連の操作の中に生命の神秘を感じ、生きて遊んでいる鶏の命を戴いて胃袋を満たし美味しい料理として感謝して食べるし、国内でも「かしわめし弁当」「毛羽先の唐揚げ」「鶏飯料理」など地方独特の美味しい料理が各所で思い出される。有り難く「ご馳走様」の言葉が出てくるのだと思う。
 私は鶏の命を奪う、その時のなまの匂い、感触など一連の動作からトリの生命を犠牲にして我々が生きると言う命の尊さを実感する。そして万物に対する愛情と生命を尊重する態度を育ててゆくと思う。
 


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