=== 随筆・その他 ===

飛行船物語り(南薩半島・空の旅)

中央区・中央支部
(鮫島病院)          鮫島  潤

  
写真 1 飛行船着陸

写真 2 飛行船の影・昔の海はまだ透き通っていた

写真 3 喜入石油備蓄基地

写真 4 指宿いわさきホテル

写真 5 長崎鼻・マタゴシ岩


 前日の寒さと猛烈な吹雪が嘘の様なからりと晴れ上がった朝になった。現在では世界最大の飛行船ツェッペリンNTで世界でも3隻しかいない、そして墜落する事がないとの宣伝文句に釣られて貴重な体験をしたので申し述べてみたい。その前に飛行船の歴史を簡単に記して置く。
 人類は昔から行動のため、連絡の為、狩猟の為、空を飛ぶ事を念願していた。自力で飛ぶ、気球に縋って飛ぶなど実験したり失敗を繰り返して来た。ギリシャ神話のイカロス、アルキメデスの原理等にその苦心の跡が窺われる。次第に軽いガスの気球を考え、次に飛行船になった。使用するガスも水素からヘリウムに変わって来た。
 1900年(明治33年)にはツェッペリン号が出来て旅客の大量輸送を始めた。然しその有用性から軍事的に偵察、気象の他、敵の軍事施設の爆撃に使われ、1915年(大正4年)、ドイツのツェッペリン号はロンドン大空襲を行っている。然しその図体の大きい事、動作の鈍いこと等のため飛行船にも銃座を備えて対応したが、軽快な小回りの効く敵戦闘機の攻撃に耐えられず数年でその使命を閉じた。
 1926年(大正15年)にはアムンゼンは飛行船により北極探検に成功している。1929年(昭和4年)には世界一周を敢行し霞ヶ浦海軍航空隊の格納庫に着陸した。私が小学校に入る前だったが日本国中大騒ぎだったのを覚えている。当時の飛行船は20人ぐらいの豪華な客室で食堂もグランドピアノも備え寝室など客船と同様に造られていた。ところが1937年(昭和12年)、ヒンデンブルグ号が原因不明の大爆発を起こし世界中の大問題になった(燃え易い水素ガスの為とも言われ以後ヘリウムガスに替えられた)。タイタニック号と並んで今の世でも世界の映画界の題材となっている。日本でも陸海軍とも飛行船の研究は続けていたが、当時満州事変が起こり日本の防空の重要性が迫っていた頃だったので、中学生だった私もヒンデンブルグ号事件が大分騒がれたのを記憶して居る。
 第二次世界大戦後、次第に飛行船の開発が進み、現在では気象研究、陸上の交通管制、無線電波監視、または企業宣伝に使われ空に浮かぶ悠然たる姿は《散歩する貴婦人》として親しまれている。日立・キドカラー、アサヒ・スーパードライ等。
 今回試乗を薦められて谷山の石川島播磨に急いだ。なるほど優雅な船が飛んでいた、丁度かごしま桜島周遊のコースが帰って着いた所だった(写真1)。全長75m、ふんわりとした感じ。時間になり今度は私たちの山川、開聞岳周遊の番だ。携帯物の検査、身体検査等全く航空機並みだ。バスに揺られて現場に近づく。見あげるばかりの機体に10人乗りぐらいのゴンドラがついている。前の客が降りただけ此方が乗るというわけだ、即ち機体が揺れるので重量を見ているとのこと。丁度昔鴨池から飛行機に乗るとき各人の体重を量り荷物の重さを測っていたのを思い出す。頭上ではプロペラが回っているが非常に軽い穏やかな音でジェット機に慣れた耳には和やかだ。室内は両側窓際にシートが5つ並んでいる小型バスみたいだ。それでも航空機みたいにシートベルトが喧しい。電子機器も注意される。
 いよいよ出発。軽く、フワッと言う感じで地上が遠くなる。大体高度300mでスピードは80〜100km/時ぐらいだろうか。飛行船の影が海に映ってゆっくりと動いている(写真2)。昔セスナで飛ぶ時はスーッと過ぎたなあと思う。ただ昔の海はまだまだ透き通って奇麗だった。
 喜入の石油基地を過ぎる(写真3)、流石に世界有数の石油タンクだ。幾何学的な配列が美しい。知林ヶ島と対岸の松林は潮が引いて奇麗な道路が出来ていた、一回りするに2時間ぐらいだそうだ。対岸の多良岬は戦時中海軍飛行艇の基地があったのを思い出す。指宿では観光ホテルと隣りのサッカー場?の芝生が非常に奇麗だ(写真4)。長崎鼻の洞穴通り抜けのマタゴシ岩が陽に当たってキラキラ光っていた。とても地上からでは味わえない美しさだ(写真5)。開聞岳を見下ろす、ゴルフコースを上から見下ろすのは僕には珍しい。池田湖も神秘の青を湛えている。知覧特攻記念館の戦闘機が小さく見えて、そこから霜出に向かって伸びていた滑走路を開聞岳の方向に次々に飛び立って沖縄に向かった若鷲たちの心情を偲ぶ。薩摩半島のお茶畑その他諸々の緑の絨毯に次々に侵食して行く部落の広がりが気になる。鹿児島に入って痛切にそれを感じた。東京の事を思う。ひろいひろい武蔵野の平原が高層ビルで埋まっていて日本沈没を思わせる。あんなに緑一色だった伊敷、原良、荒田の田圃がギッシリとビルに埋まっており、人間に潰されている、街も人間もその営みがなんとなく可哀相な気になった。
 愈々着陸する、着陸には地上でロープを引っ張って飛行船を抑える役目の人たちがいる。なんとなくのどかな感じがした。
 非常に有意義な旅だった。大体飛行船は、可変ピッチプロペラで垂直上昇降下ができる、滑走路が要らない石播位の広場があれば充分だ、その広場は競技場にも使える、騒音が無い(殆ど気にならないから市内でもかまわない)、燃料も少なくてよい、従って地球温暖化防止になる。駐機場(格納庫)は多目的ホールにも使える。その上今の造船技術によれば豪華船に近い設備で大量輸送が出来るなど今後の世の中にマッチした有用な輸送機関となる。新幹線も便利だが速すぎるスピードよりも時にはゆったりと、「狭い日本そんなに急いで何処に行く」位ののどかな気分の旅も良いものだ。

*飛行船  天沼春樹著
*レッド・ツェッペリン物語り
リッチー・ヨーク著



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