=== 随筆・その他 ===
『静 観 堂 の 経 緯』 |
|
|
 |
写真 1(静観堂)・(樺山資紀)の碑
|
 |
写真 2(鳥丸病院静観堂の石碑)
|
私は甲突川高見橋右岸にある樺山資スケ紀ノリ(薩摩士族・熊本城守備隊)の巨大な石碑(写真1)の下に隠れるように建っている小さな石碑に気付いた(写真1)。曰くありそうな石碑は戦災を受けて碑文が崩れて読みづらい。その対面に鳥丸病院静観堂の石碑(写真2)も建っている。私はこの文を読んで鳥丸一郎の足跡を辿ってみたいと思った。
鳥丸一郎(マルチ医者)
鳥丸一郎は大島郡笠利町赤木名の出身。なかなか面白い経歴の持ち主で医学の道を極めんと鹿児島に出て藩御殿医に学び後、済世学舎(後の東大医学部)卒業、帰郷後ウイリアム・ウイリスの鹿児島医学校に学ぶ。弟子として師ウイリスの招魂碑の設立に尽力す。
陸軍省に入り官軍軍医として、熊本城に入り樺山資紀すけのり(薩摩士族・熊本鎮台参謀長)の部下となる。
一郎は樺山の命により官軍密偵となり商人に化けて人吉から鹿児島の軍事的地形を観察、途中川内川にて薩軍に怪しまれ捕まったが地図を川に流して証拠不十分となり釈放され難を免れた。彼が医者だったので大目に見られたとも言う。帰隊後その報告は詳細を極めて、あとの作戦に大いに役立った。このときの功績は大いに褒められ勲六等を授与され、歩兵大隊副軍医となり旭日章を授かった。
西南戦争で西郷軍が鹿児島に突入した後は鹿児島の医師たちは漢方医、蘭方医を問わず救護に当たった。怪我人はあらゆる治療を受けたが器材や薬品が少なく、短刀で開腹したり、大工用鋸で骨端を削る荒療治が行われた。漢方医の時代では外科的手術は無理だったのだ。この際鳥丸はどうしていたやら興味があるが史実は不明。
西南役終了の後、彼は身体を壊し帰郷して明治41年南林寺に静観堂医院を開業、周囲はまだ漢方医ばかりの時代に珍しく蘭方医として優れた外科の手腕を見せたので大いに流行し、又貧しい者からは金を取らず率先して人の世話をするので病院内和気に溢れ集まる患者は当時でさえ一万を越えたと言う。鹿児島市衛生会・教育会の役員を務めた。
明治21年第一回の市議会議員になるも出席率は最低。「患者が多くてとても午前の会議には出席出来ぬ」と回答していた。日清戦役には軍医として出征したが、議会で「軍医は議員になれるか」「軍人は政治に拘わってよいか」との質問で、それではと議員を辞めると言うほどの変骨ぶりだった。(森重孝先生談)郷土出身病理学者で阪大医学部創設者、佐多愛彦は初め鳥丸の病院に見習いに来ていた。彼に一生心服して帰郷すると最後まで必ず鳥丸を訪問していた。
一郎は晩年になると漢詩と酒を愛し悠悠自適の風流人だった。明治45年脳溢血の為68歳にて死亡。
鳥丸俊彦(長男)
彼の長男、鳥丸俊彦は松原小時代から秀才で3年から5年に飛び級特待生だった。鹿児島一中から岡山医専を卒業。ハンサムな秀才医師として人気があり。ドイツ、ミュンヘン大学留学から帰った時は知事以下諸官が駅頭に出迎えた程である。然し後でドイツの愛人が子供を連れて押し掛けたが俊彦はすっかり忘れていたと言うエピソードもある。
俊彦は桜島大爆発の時には一番多くの被災者を診療した、その為県から表彰されている。大正15年、彼が黒田踏切りに創立した助産婦学校を私はかすかに記憶して居る。(南日本新聞、郷土人系、S45)彼の学校は当時高見馬場にあった石神産婆学校と産婆検定試験合格率を競っていた(当時は助産婦を産婆と言っていた)。年老いた石神先生を「徳子さあ」と言って祖父たちがお付き合いしていたのを覚えている。彼はその後静観堂?医院を経営して流行していたらしい。(これも極めたい点だ)昭和18年62歳で死去。
鳥丸真孝(三男?)
三男真孝は鹿児島県立病院から鹿児島医専及び大学医学部の産婦人科に在籍していた。南林寺に開業していたが平成12年2月62歳で死去。私も当時交際していたがその後彼の住所には門札と郵便受けは有るのだが家人の所在が判からない。電話しても全くの他人が出る始末。書留郵便で出して郵便局に行って詳しく聞いても判らないとのこと。ただ彼の尽力で鳥丸一郎の碑が武町黒田踏切り(静観堂跡、今の中央郵便局付近)から高見橋に移し保存されて大事な資料となった記録がある(県医師会100年史)。
鳥丸先生の静観堂について石碑に記載してあるが大空襲で焼け爛れ碑文も風化して甚だ読み辛い。字面を辿るとやっと器械室(手術室?)、診脈室(診察室?)、浴室、薬室名などの字が拾える。また患者充満、虚室無しも読める。この碑文も確かめたいのだが手立てが見付からない。私は鳥丸一郎親子の業績を残そうと考えたが鹿児島は古くから薩英戦争、廃仏毀釈により大事な歴史が失われている。戦後の部分だけでも有れば良いのだが大東亜戦争などの戦災により県庁も保健所も焼失して記録が無い。後進である鹿児島大学の助産婦学部もその由来を知らないし関心がない。残念だし、可笑しな話だ。県市の医師会にも県庁、市役所、保健所、警察にも問い合わせたが戦災以前の書類は消失したと言って全く判らない。勿論県・市・鹿大図書館にも当たってみた。一番困ったのは所謂守秘義務、個人情報保護が行き過ぎて、役所では5年で書類の保存義務が無い等で全く手の付け様が無い。近代の歴史を研究される大学に問い合わせてもその点で困って居るとのこと。交番で聞いたら法務局に行ったらとのこと、然し一体何をするのですかと聞かれる始末。こんな場合一番身近な町内会に頼る事が多いのだが組織の充実した町内会や記録の全く無い町内会もある。マルチ医者鳥丸一郎の業績を残したいが資料が無い。出来ればご遺族の方と連絡が取れれば万事解消するのだがとも考えている。何等かの情報をお持ちの方はぜひご連絡を頂きたいと思います。
参考資料
鹿児島の医学 森重孝
薩摩偉人群像
薩摩医学史 永徳緑峰
郷土人系 南日本新聞
鹿児島100年(中・明治編)
鹿児島県医師会100年史
鳥丸一郎の石碑
樺山資紀(スケノリ)邸跡
鳥丸病院静観堂
創立 鳥丸一郎
静観堂 肇之 桜?山二郎 君也 周囲 通 各室
個室 有器械室有 診脈室浴室 薬室応接室 ?
病者一望疾将?
患者充満 無虚室 亦是以知 治療
情 如 父子 且 臨池 好吟 詠む 而今
之創立 一 褒? 俊 君之改選
あに 無 懐
是 呼 題 一言
年三月下浣
七十九翁 長倉? |

|
このサイトの文章、画像などを許可なく保存、転載する事を禁止します。
(C)Kagoshima City Medical Association 2010 |