=== 随筆・その他 ===
山 村 留 学 の 記 |
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私は小学校時代、非常に体が弱く学校は欠席しがちだった。肺門リンパ腺炎と診断され転地療養が良かろうということで小学校4年から敷根の小学校に転校する事になった。あの頃の全くの天然自然に囲まれた懐かしい思い出が忘れられなくて今回丁度80年振りに敷根を訪ねる事にした。
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写真 1(剣神社)
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写真 2(鴨撃ち場)
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写真 3(旧校門前)
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写真 4(正門脇の駐車場)
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写真 5(上之段分岐点)
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まず一番思い出の深いのが剣つるぎ神社だ。(写真1)境内の松林が一回り大きくなっている。隣りに私が下宿していた屋敷がある。S先生という敷根小学校の先生だった。父の病院の患者さんだったが父に頼まれて体の弱い私を引き取って自然に親しむ生活を送らせてくれたのである。当時は医者と患者の関係がこんなに親密だったのだ。小学4年の子供を預けるほうも預かるほうも現在では考えられない思い切った事をしたものだ。所謂山村留学の走りだ。
神社の海岸側は検校けんこう団地として4階建てのアパートが二棟並んでいた。そこを抜けて海岸の堤防を街の方角に歩いてみる。敷根港が出来ていた。昔はただの海岸で福山町を出たポンポン蒸気がこの砂浜に寄って客を乗せ一気に鹿児島に向かっていた。今は一応の防波堤を備えた漁港になっている。その隣りに小さな公園があるが昔はそこにプールがあって、あるとき陸軍の偉い人が査閲の為に敷根に来た時、私の同級生F君と言う元気者がいて高い飛び込み台から勇壮な飛び込みをして見せて大いに誉められたのを覚えている。
そこから昔通いなれた小さな道を辿って剣つるぎ神社に向かって引き返す。途中に墓場があって其処を抜けるのが通学の近道だった。今では半分ぐらい工場の敷き地に取られていた。その先にY家があり今でもそのまま立派に建っている。声を掛けてみようかと思ったが何分80年も経っていれば敷居が高くて素通りする。その先に私たちが良くお風呂を貰いに行ったMさんという家があり、其処の五右衛門風呂を思い出す。そこのおばあさんから可愛がられて大事にされたものだった。そこに徴兵前の息子がいて警視庁に勤めたと聞いた。家は回りの田圃とも埋め立てられて全然判らなかった。
検校けんこう川に添って川口の方に行く。冬になると数百羽のカモの群れが集まって来るので、町の青年達が近くの藪に隠れて鉄砲で 「ズドーン」と打ち落とす、犬が泳いで獲りに行く、時には子供たちに獲りに行かせるものだった。面白いもので、鉄砲の音で一斉に飛び立った鴨の群れは暫くすると友達が撃たれたところにまた舞い戻って群れていた。不思議に思うものだった。しかし長閑な一日だった。その頃小さかったグミの木はもう私の背丈より大きくなっていた。ツバナを摘んで食べた思い出がある(ツバナ抜き)。(写真2)
検校けんこう川の入り口のレストランで昼食にした。牡蠣料理を注文したがそのとき昔の下宿の小母さんが冬になると検校けんこう川の川口の岩場で牡蠣を採って来てご馳走されたのを昨日の様に思い出した。随分御世話になったものだ。
昼食を済ませて再び町内を廻る事にした。まず何より懐かしい小学校に行く。(写真3)校門の石崖下に奇麗な水が滾々と湧いて、10坪ぐらいの池に溢れんばかりの鯉の群れが元気良く泳いでいるものだった。残念ながら今では無粋な駐車場になって黄色の落ち葉が一面に散りし切って赤い軽乗用車が一台止まって居た。寂しかった。(写真4)
少し行くと今でも冷たい水が滾々と湧き出るところがあった。周囲は昔のままだ。一人の老農夫が農具を洗っていた。その水が田圃を街まで真っ直ぐ伸びる小川になって流れていたが、農夫が昔は鰻や鯉を獲るものだったと教えてくれた。確かに私にもこの川を堰き止めて水を掻き出し鯉、鮒、鰻、手長蝦(ダッマ)をショヶ(笊)一杯獲った記憶がある。長閑だったなあ。
学校から街まで広い田圃だったが春はヒバリが特有のせわしい囀りで天に消えてゆくし、夏は青々とした稲が広がり蛙が鳴く、蛍が飛ぶ、秋から冬にかけては稲刈りの一方で子供たちは馬の尻尾で作った罠を栴檀や楠の枝に仕掛けてヒヨドリを狙う、麦畑では麦踏みをしたり、ウズラを追ったりしてそれは楽しい毎日だった。
先ほどの泉を少し行くと昔剣つるぎ嶽だけといって巨大な岩があり剣つるぎ岩いわと言って神宮皇后が船を繋いだという伝説があった。其処にも冷たい泉が湧いていた。其処の御神体が後に検校川の川口に建つ剣つるぎ神社(剣大名神)に移られ敷根郷の祟社になったと聞いた。残念ながら東回り九州循環高速道路や旧国鉄大隅線開設の為に破壊されて巨石も湧き水の後跡も無い。こうして近代化開発の為、生活の利便の為大切な遺跡が失われて行くのだと痛切に感じた。
国鉄大隅線廃線跡の直線道路を進んで直ぐ敷根小学校の裏手に出た。道路のために削られたこのあたりは我々が誘い合って山に入りウンベを取ったりヤマイチゴを食べたり、ムカゴを集めたり、時には蜂に追っかけられて逃げ回ったりした懐かしい里山だった。裏から校庭に入る。廃校になって久しい為、なんとなく寂しい。大きな銀杏の黄色がまぶしく奇麗だった。元の校長住宅は保育園になっていた。校門の脇に日露戦争で分捕って来たという大砲があったが、多分大東亜戦争の時献納してしまったのだろう。向かい側の日清、日露戦役勇士の記念碑は昔のまま威厳を持って並んで建っていた。この校庭を見ると私が居る頃、校庭を拡張し校舎を移動させる工事が進んでいたが、我々子供たちは並んで検校けんこう川まで行き河原で抱えられるだけの石を拾って帰り工事の礎石にするものだった。そうして校庭がこんなに広がったのだ。
丁度その頃、歴史ある古墳群とテクノパークで有名な上之段高原の300メートル位の高台を支えている屏風みたいな崖があるが、それに発破を掛けて上之段への道路の開鑿が始まっていた。「発破えー」と声がするとパッと煙が揚がり数秒後に「ドーン」とダイナマイトの音が静かな街に響き、崖が崩されていくものだった。この道が出来たら登ってみたいなあと思っていたが今回やっと登る機会を得た。意外に広くなんとか車が離合出来る、曲がりなりにも舗装がしてあった。子供の頃の望みが叶えられて楽しかった。上之段に近い道路の分岐点で折り返す。(写真5)見下ろす緑の田園、敷根の町は積み木細工の様で美しい、前方に櫻島が聳えて絶景だった。子供の頃皆で遊んだ思い出が望見出来た。昔崖だったのに杉、檜の植林がしてあり80年も経つと随分伸びて視野を遮る場所もあった。過ぎた年月の遠さを感ずる。下山して達成感で気持ちが良かった。今度はお寺さんに行く、昔あった大きく奇麗な銀杏の木は無くなって一基の鐘楼に変わっていた。良く遊んだ寺のF君の事を思う。
堀切峠の入り口の山手に日清日露以来の戦死者を祭る招魂社があって其処から鹿児島が見渡せて懐かしかった。今は道路も消失してすっかり藪になり登れなかったのは残念だった。あの坂を木箱に車輪を取り付けて今のボードの様にして滑り下り、何処まで長く滑れるかを競争し何回も繰返す物だった。あの頃は自動車等希な時代で危険なことも無く叱る人も居なくて夕方まで思う存分遊んで居た。一緒に滑ったH君は亡くなったそうだ。
坂の下に堀り切りドンの天然ガスのタンクがあった。ガスを燃料として飴を作っていたと思う。今はない。そのタンクの後ろから若尊鼻わかみことはなを廻って今の自衛隊潜水艦基地を抜けて福山町に出た、あの藪の中のヘビイチゴ(ドクイチゴ)、フキ、竹の子などを想い出す。現在では遊歩道が出来ているそうだ。福山町の宮浦神社の夫婦銀杏の境内で行われる毎年恒例の郡内学校対抗の剣道試合によく応援に行ったものだ。
あの頃の同級生に逢いたくもあったが近所の人の話しでは亡くなったり、半身不随、車椅子の人ばかりだったり、もし逢っても何せ80年昔だから記憶に無いかも知れないし却って迷惑かもしれないと考えて逢わずに帰ることにした。
町外れ検けん校こう橋はしの上であの頃、たまに面会に来てくれた母が夕方になって鹿児島に帰る時、省営バス(国鉄バス)の赤と青のテールランプが家もまばらな田圃のなかに一直線に伸びる国分街道の方へ次第に消えて行くのを寂しい思いで見送ったものだった。何せ小学4年生の頃である。ついでに検けん校こう川の下流の方に行ったが奇麗な松林で今では公園になっていた。
これで懐かしさ一杯の敷根回遊は終わった。心から満足して国分の駅に向かった。気持よい快晴の一日だった。生来虚弱だった私がここの2年間の留学を終えてから急に非常に健康になり以後無欠席が続いて86歳の今日を迎えた事を有り難く思っている。誠に有意義な山村留学だった。

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