日高先生は私の郷土種子島の先輩で特に御世話になって居た。私が小学校時代に、彼は七高生で、私が中学に入った時は、九大医学部の学生として我々の希望の星だった。
日高先生が医学部を卒業した頃、種子島の実家に遊びに行ったことがある。朝、西之表を出て軍隊の払い下げのオンボロトラックに乗って上中についたのは夜だった。そこから星空の明るさに電信柱と架線の影を探りながら歩きつづけて西之の実家までやっと辿り付いた時はもう夜中だった。さぞかしビックリされた事だろう。今みたいに電話など無い時代だった。
然し、彼は田舎には無くてはならぬ軍医どんであり医者どんだった。翌日彼が往診に行く時、私も馬に乗ってついて行った。当時あの辺りの往診は馬で行くものだった。宝満神社の道路に充分はみ出した松の枝が伸びていて、あぶなく頭をブッケて落馬するところだった。其処の宝満神社は昔から由緒ある神社で500m四方の宝満池があり、伝統的な昔からの赤米が取れることで有名だった。今のロケット基地あたり(茎永)まで往診したと思う。数十年経って再び観光に行ったことがあるが非常に懐かしい思い出だった。
彼が福岡渡辺通りの九大仏教青年会館に居たことがある。其処に遊びに行ったがその時、白石幸弘先生も同室だった。後に白石先生とは霧島の海軍病院でお会いした事があるが立派な海軍軍医中尉殿で我々学生などはとても近づけない人物だった。彼の個室には立派な仏像や大きな仏画が飾ってあり奥床しい香が焚かれていたのを覚えている。短い間だったけど、私が親友日高保志先生の後輩という事で何かと便宜を図って頂いた。昭和52年、薬師町に開業し診察中の患者に刺されるなど思いも寄らぬ事故だった。物静かな先生だったのに。
或る時、日高先生に借金の保証人になって頂いた事がある。実はその前に日高先生が郷土の先輩という事で小生の親父に保証人を頼みに来られた時親父に断わられた事情があって非常に困っていた事がある。然し彼は快く引き受けてくれた。私は非常に助かったがその恩は忘れない。その為、病院の経営状態を逐一報告に伺ったものだ。
私の父が脳溢血後のリハビリの為、日当山の温泉病院に入院していた頃、日高先生が直ぐ近くに大きな保養所を構え、温泉を掘っておられた。そこでは病院の後継者正八郎君が窯を造って専門的に陶芸をして居た。日高先生が私淑してやまない大先輩で政治的にも中央で大活躍中の四元義隆先輩が帰郷した時宿泊所として休まれる事が多かった。
そのころ日高先生は私に謡いや能を薦められた、または座禅の有効性も強調されたがとうとう私はその誘いに乗らなかった。また彼が万年青に凝って温室を建てたり始終コツコツと砂や石を替えたり手入れに凄く熱中された時代があったがその時も結局私は傍観者だった。それでも私に対して怒るでもないし、憾みの一言もなかった、思えばつれない事をしたものだ。
私が一外科に居る時、日高先生が細菌学教室で論文作成をしないかとしつこく薦められた。このときは私も気が動いて細菌教室に移籍した。其処でも日高先生の同級生で一外科にいた本田 修先生とバッタリ逢って驚いた事がある。教室では研究生一同が当時の教授に散々油を絞られて数年を過した。あの頃教室員の絞られ方は甚だしくまるで昔の軍隊時代の様だった。私はチョンガーだったからまだ良かったが、所帯持ち、家族持ち、子持ちの先輩方は大変だったろうと思って居る。それでも一応論文を仕上げて貰ったのだから教授に文句は言えない。懐かしい思い出だ。
日高先生も整形外科の助教授として教室を指導しておられたが、期が熟して現在地にリハビリを含んだ整形外科病院を開設された(昭和29年)。その時リハビリの為に院内に温泉を掘られた。今でこそリハビリに温泉は当たり前であるが、当時は質のよい効率のよい温泉を掘り当てる事が重要だった。そのため温泉に踏み切るのは度胸が要った。そして旨く成功されたのである。われわれもそれを喜んだ。
先生もまた偶然同じ中央支部に入られ、支部長をされた。私も開業医仲間の一番下っ端として彼の下で副支部長を随分長く命ぜられていた。先生は開業後も約30年近く県・市医師会の幹部として特に経理面に強く年金問題に力を尽され、その功績は大きかった。
私が所用で日高病院に伺うと頑丈な体格で颯爽と病院内を闊歩しておられた。然し立派な子息、婿が診療を引き受けられた後、時には私と面談し用件を済ましてから「あれは誰だったか?」と周囲に聞かれていた。アレッと思ったものだ。それから10数年、矢張り来るべき時は来たのだった。
種子島の南の端から鹿児島に来て徒手空拳、最高学府まで仕上げ、日高病院を立ち上げ、立派な後継者にも恵まれて今日の大病院に発展された。今後病院は益々ご発展される事でしょう。先生安らかにお眠りください。

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