随筆・その他


風     呂(2)

西区・武岡支部
(西橋内科)     西橋 弘成

 虱についてもう少し付け加えておこう。着物虱は寒い所にいるようだ。私は、青森県、岩手県に学会で行ったが虱に噛まれた覚えはない。温かい処では頭虱はいる。昭和26年、高校を出て小学校の代用教員になった時、女の子と髪を長くした男の子には年2回DDTを頭にふりかけていた。DDTは良く効いた。然し米国が副作用か何かの事で製造を中止してから新しい薬は出なかった。私の郷里人吉市では蚤がいた。自分の体の10倍〜50倍は跳ねるので人間がこれ位跳べたらオリンピックで金メダル確実と言われよう。
 サハリンに居る頃、高峰三枝子が歌う“湖畔の宿”が流行っていた。
   ランプ引き寄せ古里(ふるさと)へ
   書いてまた消す 湖畔の便り
   …………………………………。
 この詞をもじって
   ランプ引き寄せ虱とり
   兵児帯の縫い目をよくよく見れば
   …………………………………。
と歌ったものである。
 昭和19年8月、両親と弟妹3人がサハリンから帰って来た。父が満州の会社に転勤になった為である。二週間ばかり伯母の家に住まわせてもらって、街中まちなかに空いていた魚屋だった家を借りた。借家の右側は、同級生で私の水泳の先生だった田中君の家で、その隣りが小学校からの同級生で中学でも同級となった渕田君の家だった。昭和19年というと都会は米軍の空爆でめちゃめちゃにやられていたが、山の中の小さな街人吉は、何ど処こで戦争をやっているのだろうという静けさだった。唯物が無いのが戦争を思い出させた。渕田君と私は「人吉市の温泉めぐりをしよう。」と話しあって、夜になって、一日おきに街へ出かけた。灯火管制下にある街は暗くしていた。
 或る夜、暗い商店街を歩きながら渕田君がポケットから何か出して口に咥えた。横を向いて片手で覆って何かしていたが、正面を向いた時には、赤い火が小さく見えた。「そりゃ何んな。」と私が聞くと,「煙草たい。兄貴のを一本失敬して来たとたい。」あんたも吸ってみんね。」と言って私に渡した。私は一口吸ってみたがすぐに噎せた。「おら、吸えんばい」と言って彼に返した。“こんなところを先生に見られたら謹慎ものばい。”と思った。街の暗さが我々を救ってくれた。
 浴よく槽そうは木製が多く、形も四角、長方形、円形が多かった。たまに瓢箪型のもあった。コンクリート製の洗い場は足が滑ることが多く注意して歩かねばならなかった。
 夜の8時、9時といえば、皆机を電灯の下に移して勉強している時間だろうに、私達2人は呑気に温泉めぐりをしていたのだ。
 年が明けて、昭和20年になった。19年12月、父が満州へ渡る時「街中は危ないから工藤さん(従兄)の家へ移れ。」と言ったので、2月、工藤君の家の中ちゅう二階を借りて移った。3月までは何とか授業があったが、4月から横穴掘りの手伝いに3年生は動員された。渕田君との温泉めぐりも自然消滅した。
 従兄の家にも五右衛門風呂があった。洗い場はコンクリートで塗ってあった。お父さんが御在命なら今も大きな下駄屋として繁盛していただろう。風呂は一日おきに沸かすことにして、従兄と私と交替で沸かした。少しでも薪代がうくようにと、日曜日は近くの森に薪拾いに行った。
 8月14日、作業の帰り先生がおっしゃった。「明日は出て来なくてよい。家にいなさい。」と。15日昼過ぎ表の通りが騒さわがしくなった。“何だろう。”と出てみると朝鮮人が「日本は負けた。」と叫んでいる。「そんな馬鹿な。」と思った。午後4時頃、B29が一機東から西へ白い巨体を飛ばして行った。「負けたのなら敵の飛行機が来るはずはない。」と考えた。然し17日に来た15日の新聞に「終戦となった」と見出しがあった。敗戦と言わず「終戦」と言ったところに日本人の日本人らしい“心”が出ていた。負けた悔しさと“これで兵隊検査を受けなくてよいのだ”という安心感とが同時に湧いてきた。
 10日、第二の無条件降伏が、工藤家と西橋家に襲おそい掛かって来た。「10月中に両りょう家け共この家を出ていけ。」と言うのである。命令者はマッカーサーならぬ“従兄の叔父”(従兄の亡父の弟)である。工藤家は伯母に同情されて、私が昔下宿していた部屋を提供された。私達は加害者らしく、同情する人は誰もいず、5〜6軒先に住む遠縁の白川夫人(未亡人)が「うちの小屋でよかったら使って下さい」と言って下さった。小屋には何か知らぬが荷物が置いてあるので使えるのは畳2枚ほどの板の間である。あとは何もない。電灯、便所、井戸、風呂、机等々。夏は私と弟はすぐ傍の胸川(球磨川の支流)で泳ぎながら体をこすって垢を落としたが、母や妹はどうしたであろうか。母が新聞配達を始めたが、温泉(風呂)に行ける余裕はなかった。
 昭和21年になった。すぐ下の妹は旧制高等女学校を受験した。父親がいない子は試験が出来ても授業料が払えるかどうかで落される場合もあると聞いていたが、妹は無事合格した。そして担任の先生は「お父さんが帰って来られる迄大変だろうから、日本育英資金を借りる手続きをしてあげよう」とおっしゃって育英資金が借りられるようになった。これで母の肩の荷も大分軽くなったと思う。私の方も父が帰ってくるまで授業料の催促がなかったので、父がまだ帰って来てないことを担任の先生は御存知で、免除の形にして下さった。
 11月、母が貸家を見つけて来た。農村地帯である、沖縄の人達が疎開して来ていたが終戦になったので帰って行って空き家になったのだ。他の2軒はすでに人が住んでいる。私達のが一番ぼろ家だ。然し裸電球が一つあるのが嬉しい。井戸は三軒共同だが、土地の中心にあって使い易い。便所はかたまっているが、三軒分ある。溜まったと思った頃、大家の下男が肥桶をかついで汲み取りにやってくる。風呂がない。他の二軒も同じだ。温泉へ行った覚えはない。室内で身体を拭いた覚えもない。今なら「臭い」と苛められる状態だ。
 「12月末、父が姉を連れて帰って来た。正月三日が過ぎると仕事を探し始めた。然し、人吉市には40代の男を雇うような職場はない。父は知り合いの人の紹介で内山鮮魚店から後払いで魚をかりて魚売りの行商を始めた。おかげで週2回位は温泉に行けるようになった。

 昭和26年3月人吉高校を卒業すると就職係の春木先生の御尽力のおかげで小学校の代用教員になれた。大学進学のための費用作りが目的だったので贅沢はしなかった。それでも月参千円の下宿代を払うと千円位しか残らなかった。27年4月教頭先生に頼まれて、家に住みこんで中学2年生の息子さんの家庭教師をすることになった。下宿代参千円が要らぬようになったので学資金が殖えてきた。風呂は庭に五右衛門風呂があり、息子さんと一緒に入ることも多かった。
 34年4月、免田小学校に転勤になった。その年、大家さんが「子供の学資のため我々の借地を売る」と言われるので、3軒で話し合って買う事にした。私の貯金が役に立った。一年経たぬうちに「小さくてよいから家が欲しい。」と父が言い出した。私は,(大学に入る前に、このボロ家を何とかせねば)と思っていたので、少し資金不足だったが、和室3室、台所、風呂、便所がある家を設計士に作ってもらって設計士が知っている実直な棟梁に建ててもらう事にした。
 35年8月から工事に入り11月に完成した、餅投げというのを初めてした。
 免田までの通勤時間は片道30分なので、帰りは6時前に家に着く、風呂はすでに沸かしてある。先に風呂に入って夕食を摂る。私は時たま、母の友人の家からリヤカーを借りて、製材所に行って木端を買ってくればよかった。少し長いのだけ適当な長さに切っておいた。

 家ができたので、あとは両親が、私が大学を出るまで元気で居てくれたらよかった。34年6月から受験勉強を始めた。風呂はあるので、街へ出るのは参考書買いに行くだけだった。予定どおり37年春鹿大へ入学できた。
 現役18歳と31歳の私とでは覚える力が違っていた。若い人の3倍時間をかけないと覚えられなかった。温泉行きも週一回に減らした。
 43年卒業して一年間の研修をして第二内科へ入局した。おかげで国立指宿病院、霧島労災病院と温泉が病院内にあるところへも行かせてもらった。最後の御奉公は、えびの市立病院だった。最後の年の4月初め、外来の若い看護師さんが「先生あしたの日曜日何か用事がありますか」と聞くので「今のところ何もないよ」と答えると「じゃ何処か連れて行って下さい。」と言う。私はしばらく考えて「紫尾山に行ってみよう。温泉に入って昼めしでも食べて帰って来よう。私以外4人乗れるから、4人集めておきなさい。集合は公民館前9時としよう。」と言った。
 翌日よく晴れた朝、予定通りえびのを出発した。宮之城町までは以前家族と行ったことがあったので大体の道順は頭の中にあった。宮之城で川内川にかかる橋を渡ると田圃の中を真っ直ぐに道が延びている。(この道が森の中に消える所が温泉地帯だろう。)と見当をつけて走った。やがて大きな杉の木が10本程そびえているところに一つ温泉宿があった。受けつけで名前を言うと,「はい、西橋様ですね。お待ちしてました。」と部屋に案内された。6畳の広さでまだコタツがおいてある。「先ずはお風呂をもらってから食事にしましょう」と宿の人に言って風呂場へ行った。廊下の突き当たりが女風呂で右隣が男湯である。男湯は3〜4人入っている。湯加減も丁度いいなといい気持ちになっていた時、突然女湯から悲鳴に似た声が届いた。「先生、男の人が入って来ます。」と。睦ちゃんの声だ。私はタオルを腰に巻くとすぐ女湯の脱衣場へ行った。誰もいない。浴場のガラス戸を少し開けてみた。彼女等4人だけが、浴槽の中央に集まっていた。男は逃げたなと思った。「私が廊下に立ってるから、よく温まって衣服をつけなさい。皆つけ終わったらガラス戸を叩いて合図しなさい。そしたら私は風呂に入り直してくるから君達は休憩室に行って食事を頼んでおきなさい。」といった。立っていたのは10分か15分だったろうが、針でチクチクと刺されるように痛かった。寒いという段ではなかった。男風呂に戻ってみると女湯との仕切に大きな石をコンクリートで固めてある所を登っている30歳位の男がいる。上まで登りつめたが、石壁と天井の間が狭くて頭が通らない。すごすごと降りて来た。
 男湯と女湯の位置を変えるべきだ。そしたらそう簡単に男も女湯に入るまいと考えた。女性をつれて行く時は、少なくとも男二人は連れて行くべきだと思った。

 医学生になって、荒木の風呂場でお姉さんがお尻に椿の花みたいなものをくっつけていたのはてんかんのけいれんで直腸脱を起こしたものだったとわかった。 (了)



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