随筆・その他

リレー随筆

「祖父の思い出」

中央区・市立病院支部
(鹿児島市立病院)   川畑 宜代
産科病棟にて退院前の赤ちゃんと(私は独身です♪)

 リレー随筆を酔った勢いで引き受けてしまい何を書こうか考えあぐねた。堂園先生→河野先生→楠元先生と市立病院産婦人科OBよりリレーされたので産婦人科っぽいことをと思ったが、全く思い浮かばない。そんな折、新聞に亡き祖父の記事が掲載され久しぶりにいろいろなことを思い出した。かなり個人的な事ではあるが祖父の思い出を書いてみることにした。
 先日南日本新聞に掲載された記事は、昭和19年2月6日、466人が犠牲になった垂水丸遭難に関するものであった。当時12歳と9歳だった伯父兄弟が、鹿児島市へ展覧会を見に行くために乗船していたのだが悲運にも船は沈没し、2人をはじめ多くの方々の尊い命が奪われた。伯母が祖父の遺品を整理していた際、小銭入れの中身を見てみたところ垂水丸の乗船券と伯父兄弟の写真、軍歌を書いた紙が入っていたそうだ。乗船券の日付は消えてしまっているが保管の状況や水にぬれた形跡等から考えて事故当日のものである可能性が高く、この乗船券を事故を後世に語り継ぐ資料として役立てて欲しいと伯母が寄贈をしたという内容であった。
 祖父が事故後約50年もの間、亡くした2人の思い出の品を大事にしていた事を知り胸が熱くなった。私は垂水から鹿児島市の甲南高校へ3年間フェリーで通学したが、祖父は会うたびに「気をつけて行きなさいよ」と言ってくれた。事故の事を忘れていなかったのだろうか。大切に育ててきた自分の子供を亡くすという事はどれほどつらい事であろう。垂水丸の遭難では一度に2人を失いどれほど力を落とした事であろうか。その悲しみは計り知れない。そして長い年月が経っても決して忘れてしまうことなく遺品を肌身離さず持っていた。生まれた垂水の土地にとどまり残された子供達を育て上げ、先祖代々の家、土地、お墓を守ってきた。平成8年に亡くなったのだが祖父は本当に立派な人であった。
 幼い時は祖父母と暮らした。祖父は私が生まれたとき70歳を過ぎていたがとっても元気だった。またおしゃれであり特に茶系のコーディネートが得意で、出かける時は帽子をかぶりとても格好良かった。また私は母子家庭で育ったため祖父は父親のような存在でもあった。正義感の強い性格だった。祖父宅にはびわの木があったのだがよく近所の悪ガキに盗まれていた。盗んだ現場を取り押さえては「シカマー」(こらーという意味)と叫び、がっていた。また祖父宅が国道と裏通りをつなぐ近道的な存在になっていて私の友達は通る事を許されていたのだが知らないガキンチョが通り抜けようとするとやはり「シカマー」と、がっていた。おかげで学校では川畑んちのじいちゃんはこえーと噂されたものだ。私にはそんな近所の子供から恐れられている祖父が自慢であった。また悪い事をするとテレビアニメの様に押し入れや蔵に入れられた。押し入れの中は反省するには格好の場所である。長過ぎず短すぎず絶妙な時間、押し入れに入れられたが中にいるといろんな思考ができる。これは幼いながらに自分で体得していた。父の日には強制的におとうさんの絵をかかされるという母子家庭の子にはつらいイベントがあったがそんな時は胸をはって祖父の絵を描いた。祖父の自慢のエピソードはつきることなく、このままでは何ページでも続いてしまいそうなのであと2つだけおつきあい願いたい。
 小学2年生のある日、私と妹は2人で留守番をしていた。たしか母と祖母が鹿児島市内の病院へ出かけていたのだと思う。そのころ私たち親子は祖父宅から歩いて5分ほどのところで暮らしていた。夕方には帰ってくるねと言い残して出かけた母だが夜7時を過ぎても何の音沙汰もない。始めは妹と2人遊びまくっていたのだがだんだん不安になってきた。次第になんと大雨が降り出し、雷が鳴り始めた。私は未だに雷が大の苦手であるのだが思えばこのときの恐怖がトラウマになっているのではないだろうか。雨と雷はどんどんひどくなり、雷はどんどん近所に落ちていた。妹は泣き始めるし私も泣きそうだった。不安のあまり私たちは「そうだ、おじいちゃんを呼ぼう」ということになり祖父宅へ電話し来てもらった。台風かとおもう嵐の中、祖父はすぐに駆け付けてくれた。何を話したかなどは覚えていないが私たち姉妹は非常に安堵した。しかし、安堵したのもつかの間祖父は思わぬ発言をした。「しもた、やかんの火をかけて来っしもた」「ええー」、私たち姉妹は驚愕した。そして雨ガッパをきて祖父は嵐の中そそくさと帰っていったのだ。幸い大事には至らなかったのだがこの出来事は「かみなり事件」としてときどき姉妹で思い出している。
 孫のために大雨の中かけつけてくれたおじいちゃんありがとう。一生忘れません。
 あと一つだけおつきあい願いたい。小学5年生頃の夏休み、当時新体操がブームであり私は祖父宅の床の間で一人激しく新体操ごっこをしていた。詳細はよく覚えていないのだがジャンプをした際に着地に失敗して右足首をグキッとねじってしまった。あまりの痛さにしばらく動けなかったがほふく前進でやっとのことで祖父の部屋へたどり着き助けを求めた。そして今思えば何故車やタクシーでなかったのかわからないが祖父は私をかかえて近くの病院まで連れて行ってくれた。途中、一瞬おんぶしてもらったような気がするが、ほとんどはケンケン片足歩行で行ったと思う。結局私の足は骨折していたのだが祖父の迅速な対応のおかげで夏休み中にギプスを外す事が出来た。夏の暑い日の病院への道のりは今でもはっきり覚えている。もうそのころ80歳ぐらいだったのに、孫の為に体力を使ってくれた。おじいちゃん本当にありがとう。
 祖父は決まった時間に起床し家の中でも身だしなみを整えて清潔を保ち、贅沢はせず新聞、文芸春秋を愛読書とし、夕方になると相撲や水戸黄門をテレビでみて夜はちょっとだけお酒を飲んで決まった時間に寝る。という規律正しい生活をしていた。当たり前の事のようであるがなかなか出来ない事である。暑い日には庭に水を撒いて涼み、でも限界の時はクーラーをつけた。冬には祖母の大事にしている火鉢に手をこすりながら集まった。すごく楽しかった。現在のマンション暮らしも快適ではあるが祖父宅での昭和風の質素だけど風流な生活を思い出すと懐かしく、出来ればまたしてみたいものだと思っている。
 祖父をはじめ親戚の経済的な援助のおかげで高校、大学に進学する事が出来、現在の医師という職業の自分がある。祖父は鹿大の医学部に合格したときはそれはそれは喜んでくれた。当時から「女医」じゃっと本当に喜んでくれた。私が大学1年生のとき亡くなってしまい、医者になった姿をみせてあげられなくて残念ではあるが、きっと私たちを見守ってくれていると思う。亡くなっても祖父の話したことやその生き方はしっかり私の中に焼き付いているのだ。この仕事に就き正直体力的にきつい事もあるがやっぱり医師になり、さらに産婦人科を選んでよかったと思う。まだまだ未熟者であるが同じ女性として多くの患者さんに出会い,「先生でよかった」なんて言われてしまうと感動である。祖父のように孫から尊敬され、亡くなっても残された人の心の中に生き続ける人間になるには努力や時間がさらに必要であろうが、私は自分なりに仕事をやり、人との関わりを大切にしていこうと思っている。

次回は、産科婦人科のぼり病院の昇 晃司先生のご執筆です。 (編集委員会)




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