=== 随筆・その他 ===
鼠 が 象 を 牽 い て 行 く |
|
|
私は生来短身痩躯のまま子供時代から80過ぎの後期老年まで過ごして来た。御蔭で幾多の不便に泣かされたが、といって便利だった事は皆無だったと思う。
小学校の時クラスの級長をしていたのでクラスの一番前に並んでいたが全校朝礼が終って列を組んで教室に帰る時小さい私の後ろには体が大きく背の高い順に生徒が並んで付いて来るのでまるで鼠が象を牽いて行く様で考えると可笑しな格好だったと懐かしく思い出す。考えるとその当時の友人達も大分亡くなっている。
劇場などでは背伸びしてやっと画面が見える始末。昔は高下駄というのがあったが最近下駄を見たことが無い。医局で旅行した時、宿の浴衣が大きくて着ればぶかぶかで見苦しい。止む無く特に女性用かツンツルテンの子供用を出して貰うものだった。個人で旅行の時は自分用の浴衣を持参していた。昭和も半ばになってからはホテル宿泊が多く浴衣の心配が無くなってホッとした。
例えば歯科治療に行っても散髪に行っても台に寝て頭が枕まで届かない。足が足止めまで届かない。何となく歯がゆい思いをしている。または確かロシアでの話だったと思うが、空港のトイレが非常に高く攀じ登るように腰掛け、足がぶらぶらだったことがある。
体は小さかったが中学時代一年から五年までの全校生徒の一斉マラソンがあった時は常に10番以内に入っていた。決勝点に入った時校医のH先生から「小さい癖に」と褒められたか貶されたか判らないこともあった。当時の我々新入生から見ると上級生は凄く大きくて豪傑に見えるもので「ゴッテサア」と言って恐れていた。その中で先頭を切るのは気持が良かった。
我々の頃は中学3年から教練の時三八銃を持たされたが着剣をすると私より銃の方が高い位だった。そして小さな身体にはだいぶ重かったので困っていたが後には騎兵銃か擲弾筒に廻された。小さくて得をしたのはこんな時ぐらいだ。
我々の時代は満20歳になると徴兵検査を受けねばならなかった。指定された日時に指定された場所に集合するのだ。私の場合昔の中央公民館(西郷さん銅像前の公会堂)だった。身体検査で「身長が足りぬ」と怒鳴られ、レントゲン台に顎が乗らないとどやされ、散々だった。喧しい手続きや検査があった中で忘れられないのがM検だ。一組10人がきちんと整列して越中褌を外してスッポンポンになって立っていると軍医か衛生兵が皆の股間の真っ黒い毛の生えた竿を遠慮なく、ぐいと握り締めるのだ。「小男のウドマラ」と揶や揄ゆされても文句を言い返すわけにはいかなかった。その頃は徴兵前の若者に淋病が物凄く流行っていた。淋病、梅毒は三等病と言って軍隊では非常に卑しめられて大きな懲罰が待っていた。その為の神聖なる検査だったのだ。あの時の格好は今でも忘れない。然し今ではその竿も大分使い古して狭小短縮となり小便だけが通る道になっているのも情けない。
敗戦の色が見える頃、私如き小兵でも将校になれということで教練は激しくなるし、伊敷の四十五連隊にも行って乗馬訓練もすることになり将校用の非常に立派な馬を宛がわれた。馬は非常に利口だから馬鹿にされないように、乗る前に威厳を見せろとのことで、馬の名前を呼んで横面を力一杯叩けとのこと、大声で馬の名前(忘れた)を呼んで叩こうとするが馬ずらは私の上の方にある。何か異様な感じだった。馬はなんだこのチビと見下ろしている。私は特に背が低かったので乗馬するのに兵隊に押し上げられて乗っていた。乗馬しても鐙あぶみに脚が届かずにブラブラ揺れていたので馬が嫌がって落ち着かない、鐙も締め上げて貰った。下士官や兵隊達は「そいで将校いなっとか」(それで将校になるのか)と大声で笑っていたが止むを得ない。将校と兵はその待遇は月とスッポン、横綱と褌担ぎと言われていた。映画「私は貝になりたい」によく現れている。私は将校になる為には何と言われても我慢せざるを得なかった。いざ乗馬してみると馬はなかなかお利巧で私の操作でもよく聞いて呉れる。何とか訓練を終了できた。時には馬のなかにはわざと膝を折って首を伸ばすのがいて兵は摺すってんころりと馬の首に沿って前に投げ出される。そのとき手綱を放すなと喧しく言われていた。若し放すと馬は自由に飛び出して行く。または訓練中、馬がお腹が空いた、この兵隊は下手だと察したらサッと馬場(今の玉江小正門脇)から抜けて広い練兵場(今の自動車学校から西校、女子高までの広さ)に逃げ出してしまう。それを追い掛けるのが大変だった。最後に馬の掃除が重荷だった。結局は兵隊がやるのだが仕様が悪いと兵隊が下士官から散々殴られるのだから我々の方がひやひやしたものだ。
鼠が象を牽いていた子供の時代から鉄砲を担ぐ時代まで何か小さくて得したことは無いかと考えたが重い三八銃が小型の騎兵銃になったぐらいのものだ。
戦後になって今までの真空管ラジオから半導体素子によるトランジスターラジオに発展して小型でも性能が抜群と言われるようになり私は大いに気を強くした。そして今では携帯電話にまで機能も無制限に発展しつつある。「山椒は小粒でもピリリと辛い」「小さい事は良い事だ」長い締め付けが続いて小型の侭で後期高齢者になった今こそ沁み沁みと感じている。

|
このサイトの文章、画像などを許可なく保存、転載する事を禁止します。
(C)Kagoshima City Medical Association 2009 |